美濃紙の製法を伝えた弥助が帰国後処刑されたとの伝聞(<謎1>)に関して、鈴木家の裏手に不思議な石碑が残されています。鈴木家の当主光頼さんは海外勤務経験も豊富なサラリーマンですが、弥平の墓とも伝えられるこの石碑に花と水を供えることを欠かしません。成田潔英(きよふさ)氏が記すところでは、この石碑は大正5年(3年の間違い)の火災で鈴木家が焼失したとき、その後始末の折に泉水の流れ口で偶然発見され、昭和18(1943)年の鳥取大震災で5片に割れたということです(「紙碑」)。高さ106センチ、幅65センチの自然石を板状に削った粗末な碑には、縦書き3行のうち右と左の行にかろうじて「元禄拾五、五月拾六、河(川)原村」などの文字が読み取れます。続く3文字は「(弥)兵(建)之」でしょうか。元禄15年は西暦1702年です。鈴木家では、弥助を哀れんだ弥平が成仏を祈願して建てたものと言い伝えており、光頼さん自身は、これは墓ではなく、弥助の遺品か何かを埋めた上に建てたものかと推測します。もっとも、弥助の来村を寛永5(1628)年とした場合、この碑を建てた時の弥平は90歳をかなり超えていたことになり、いささか不自然な気もします。墓地にこだわって、美濃国の埋葬墓所とは別に河原に詣(まい)り墓を建てたのではと言う人もありますが、因幡地方には両墓制が存在しないので(坂田友宏、「因幡・伯耆の民俗学研究 神・鬼・墓」)、これは不成立。その他、これを鈴木弥平本人の墓だとする説なぞは論外としてよいでしょう(河本英明・吉村茂、「いなば・ほうきの墓碑めぐり」)。
ところで、中央部に刻まれた碑文は何を意味するのでしょうか。「祖師西来意」は、一般にもなじみのある禅問答のテーマです(鈴木大拙「禅問答と悟り」など)。また「禅定門」は、融通念仏宗や禅宗で、室町時代以降に死後の戒名として信徒に与えた名号(中村元「仏教語大辞典」)、ここでは「寂」以下の3ないし4文字がそれに当たると思われます。この戒名は美濃国の寺から弥平の下に伝えられたものなのでしょうか。弥平が勝手に付けたとは考え難いところです。いずれにしても禅宗との関係が明らかです。
庶民が姓を名乗ることが禁じられていた時代、鳥取藩では享保18(1733)年に百姓身分である大庄屋に苗字を許しました。これより100年も古い寛永期に鈴木姓を名乗っていた弥平とはどんな人物だったのでしょう。鈴木家に伝わる文書は大正3年の河原火災で焼失し、何も残っていませんが、口伝によると同家は代々小畑の士分の出とのことです。小畑の村人の宗旨は禅の曹洞宗でした。鈴木家が河原へ移って弥平の代にはまだ禅の信徒だったのでしょう。そして何と驚くことに、鈴木家の本をさらに遡ると美濃国の出だと言うのです。「美濃屋」の屋号で紙を漉いていた鈴木家と美濃国との因縁には未だ奥がありそうです。
さて、読者には長い間お付き合い有難うございました。尽きない謎の解明はまたの機会に譲り、今回をもって一区切りと致します。
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