長谷川寿(ひさし)さんは76歳。河原で現役の手漉き職人さんです。若い頃には稲刈りの後の秋の一日、暗いうちから手製の松明(たいまつ)を点して山芋を掘りに山を登りました。日置川に沿って最奥の小畑集落を抜け、険しい山道を上り詰めてから尾根道を進む先は三朝町俵原(たわら)。道は三朝へ通じています。ここからはまた、日置川に並行して流れる東西2つの川、河内川と勝部川の谷へ下ることもできます。河内川中流の鹿野でも勝部川流域の村々でも紙を作っていました。俵原から鹿野の河内(こうち)を経てさらに東へ行くと、標高950メートルの鷲峰山(じゅうぼうさん)の南の辺りで野坂川上流の山地に出ます。ここはもう鳥取市。安蔵(あぞう)という紙漉き集落があり、しばらく下って再び枝道を南の山へ入って行くと岩坪(いわつぼ)集落が現れます。これまた古い紙漉き集落で、砂見川の上流に当たります。
<謎5>で述べたように、野坂川、砂見川は千代川へ注ぐ支流で、少しばかり上手には佐治川も並行して谷を刻んでおり、流域には紙漉き集落が多く点在しています。佐治川が千代川に合流する辺りに家奥があります。
何となく分かっていただけますか。千代川筋の紙漉き集落と日置川筋の山根、河原集落とは山道によって繋がっているのです。
日置川と千代川の位置関係
日置で歌われる紙漉き歌の本歌は岩坪のものと言われ、勝部や三朝からは紙の原料である楮や雁皮、三椏などを背負った農民が山を越えてやって来ました。江戸後期から6代続く手漉き業の前田久さん(77歳)は、子どもの頃祖父母から、原料煮熟に良いというのでくどの灰を買い付けるために三朝への山道を往復した話を聞いています。昭和に入ってからも、以前には日置と佐治の紙屋が雇う職人たちが互いに手伝いに出かけたそうです。日置地区では昔から鹿野、勝部、時には三朝など、山を越えた地域との間で嫁のやり取りがありますが、同じ青谷であっても日置川下流の町内との通婚はほとんどありません。さらに、佐治の近くに在る江波(えなみ)、野坂川中流域の松上(まつがみ)、そして鹿野から北へ下って、山根、河原の山向こうに散在する気高の集落との間に共通の古伝承があると指摘する人もあるようです。
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