この碑文の撰者は当時の日置小学校長小谷公麿氏、書は鳥取県議会議員の中田玉平氏で、昭和12年4月の建立です。地域の知識人として徳望の高かったお2人のことです。必ずや確かな考証に基づいて「寛永10年」を後世に残されたものと思いますが、これにはいささか腑に落ちない事情があり、当時のことに詳しい存命者があれば話を伺いたいものです。
鳥取藩の公文書「在方(ざいかた)御法度」によると、この前年、つまり寛永9年11月8日に、藩は保証人のないものを一切泊めてはならないとの触れを出しています。それと同時に、人の移動についての厳しい制限も定めています。幕藩制度も未だ固まらず、この年幼少の藩主池田光仲(みつなか)を岡山から迎えたばかりの鳥取藩では、在方での人の出入りを神経質に取り締まったことでしょう。
そんな最中に見ず知らずの他国の病人を家に泊め、その後引き続いて製紙法を習得するまでの期間滞在させるなどということは、ちょっと考え難くありませんか。弥助の来村は寛永9年の禁令が出される以前のことなのでは、と考えたくなります。
因幡紙元祖碑
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初代・池田光仲以下11代の 藩主の眠る池田家墓所
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ところでこの地域には、碑文の「寛永10年説」とは別に「寛永5年」の言い伝えも存在するのです。もしそのように禁令が出る前であったとすれば、心優しい村人が病める旅人を何日間か家で看病したことがあったかもしれません。
郷土史家の山根幸恵さんは、弥助の来村を寛永5年のこととして書物を残しています(「因幡紙をつくる人々」)。
いったい碑文はどうして「寛永10年説」を採ったのでしょう。今となっては謎と言うほかないのでしょうか。
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