弥助によって美濃紙の製法が導入される以前、日置ではどんな紙を作っていたのでしょう。実物が残っていない今となっては、これまでと同じように僅かな史料と想像力を頼りに考えるしかありません。
<謎3>の中で触れた現存する最古の因州紙については、調査に当たった大沢忍先生のコメントにあるように「色悪、厚、不均等」と、未だ粗末なものでした(「正倉院の和紙」)。そして天平神護元(765)年の因幡国司牒になると、寿岳文章先生が「楮の溜漉。繊維はよく叩解されている」(同書)と述べているところから、紙の姿がある程度イメージできます。ところが、この後因州の紙がどのように改良され、どこで生産されていたのか、数百年間という謎の時間が流れます。
そしてようやく江戸開幕の7年前、亀井茲矩公の領内で紙作りが行われていたことを伺わせる文書の登場となったのでした。しかしこれでも未だ、どこでどんな紙がという疑問に答えてくれてはいません。ところが昭和2年、鳥取県工業試験場の井上和水さんによって紹介された「森甚五郎氏系図」の中に、慶長年間に家奥の名家(祖先は源頼朝の弟範頼の血を引くという)森家の「長男與左衛門は農業の傍(かたわら)紙漉きをなし其品の優良なりしをもって国主の御用紙を命ぜられ・・・」という件があります(「因幡紙見本帖 第一輯」)。慶長と言えば上の亀井文書とまさに同時期、同8年が江戸開幕の年に当たります。このことから当時の公用紙が地元因州産で、農家の副業として作られ、良質ではあったがブランドで呼ばれるものではなかったかもしれないことなどが分かります。どんな紙だったのでしょう。
日置地区の遠景 |
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ここから江戸時代に入ります。紙作りの記録として時間的に最も古いものが寛永5(1628)年または10年の美濃国の弥助譚(たん)です。次は「在方御定」寛永14(1637)年3月8日の記事。「杉原ね(値)段之事」が載っており、文書史料ではこれが初出です。杉原紙の種類と藩の買い上げ価格が記されていますが、産地は明記されていません。そして、寛永18(1641)年11月の記事で初めて産地と結びついた紙の種類が明らかになります。即ち日置谷で「かいた」(階田)、「はなかミ」(鼻紙)、勝部で「はなかミ」、佐治谷で「はなかミ」、同じく佐治の津無(つなし)、苅地(かるち)で「小杉原」、家奥で「杉原大ははひろ」(幅広)と書き上げられているのです。美濃紙の名前が現れるのは、寛文末(1673)年又は貞亨5(1688)年に書かれたとされる前出「因幡民談記」です。そこでは、法美(ほうみ)、八上(やかみ)、八東、智頭、高草の各郡産の紙について美濃紙を記録せず、気多郡(けたぐん)の3地区、即ち鹿野、日置谷村々、勝部谷村々産の紙の中にいずれも美濃紙を数えています。(郡郷之部、当国郡郷土産名物の事)。
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