碑文では「美濃国の人弥助翁流浪(るろう)して」としか記されていませんが、「青谷町誌」その他の書物を見ると、弥助のことを美濃国からの
西国巡りの旅人とか、美濃国の
全国巡錫(じゅんしゃく)僧などと説明している例が少なくありません。中には、ズバリ美濃の
紙作りの名人が材料となる植物の様子を調べて全国を回っている途上日置に入った、と述べているものもあります(田中寅夫、「鳥取むかしばなし」)。
もっともこの話では、弥助が真夏の太陽にめまいを覚え、道端に倒れたところを通りかかった鈴木弥平に救われたとか、辺りに豊かに生えている三椏(みつまた)や楮(こうぞ)で和紙作りを教えたなどと述べていて、状況説明があまりに具体的でリアルに過ぎます。
また、三椏が因州へもたらされたのも天明の頃(江戸後期)の佐治地区が最初かと考えられており、日置では明治時代まで三椏紙を漉いた記録がないことと矛盾していて、全体に作り話めいた印象を受けないでもありません。とは言え、弥助の正体を語った諸説にはいずれも資料的根拠がなく、少しずつ異なる言い伝えに拠っただけのことではないでしょうか。何が真実なのか、碑文中の「翁」という表現にも疑問が残ります。
三椏の花
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現在の日置川
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400年近くも昔のことです。確かな書き物でも残っていない限り本当のことは分からない。そこにロマンが生まれます。行き倒れた流浪の老僧というイメージから紙祖譚(しそたん)を紡ぎ出す構想力には人間味があり、現代でも想像力豊かな人は、弥助の正体は美濃国が天下の情勢を探らせるために放った諜者(ちょうじゃ)、つまりスパイに違いない、などと言います。碑文が続けて記すところでは、ご法度(はっと)(美濃国の禁令)を承知で紙漉きの技を伝授した弥助は帰国後処刑されたとか。これは史実かロマンか。
旅人であれ、僧であれ、紙職人であれ、はたまた諜者であれ、弥助について確かなことが1つだけあります。それは、彼が美濃紙の製法を知っていたということです。そして興味深いことに、日置川上流から山を越えて東に佐治川を下ったところの家奥(いえおく、いえのおく)という集落には、同じ寛永年間、甚右衛門という者が美濃国で紙漉きを学んで帰村し、紙屋を始めたという口碑が伝わっているのです。
>>「謎2 弥助の来村は寛永10年?」へ続く
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