議論を正確に進めるためには、この謎解きに取り掛かる前に、紙作りが当地で自然発生的に始まった可能性はないか検討すべきですね。結論を言えば、それは極めて低いと考えられます。なぜなら、<謎3>で見たように、紙作りには熟練した抄紙技術だけでなく、原材料、水や添料についての知識、特有の施設・設備を供給するための産業の存在など、さまざまな条件が整っていなければならず、それら全てを自前で考え出すのは難しいからです。やはり、出来上がったものを移入したと考えるべきでしょう。その昔わが国の紙作りも高麗(こうらい)の僧曇徴(どんちょう)に学んだことに始まると言われ、古代因幡国の製紙も同様に、恐らく都から遣わされた専門家や先進国の技術者が伝えたものでしょう。
鳥取市青谷町河原周辺の航空写真
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では、日置の紙作りはどこから伝わったのでしょうか。ここから先は大胆な仮説、と言うよりもむしろ想像を逞しくしたロマンを語るほかありません。
古代の因州で紙を作っていたことはお話しました。今の鳥取市国府町に国衙(こくが)が在り、辺りには寺社が建ち並んで、日ごと公の文書や経文の読み書きに和紙が使われていました。国守大伴家持が歌を詠んで書き記したのも因州の和紙だったことでしょう。そしてその紙を作っていたのは、恐らく、国府の平野を西へ進んで行き当たる千代川(せんだいがわ)の支流に沿った村々だったのではないかと考えます。中国山地を源に鳥取平野の西の端を日本海へと流れ下る千代川へは、左岸の山塊から佐治川、砂見川、野坂川その他の支流が注ぎ込んでいて、それらの谷筋には江戸時代から近年まで数多くの紙屋の集落があったことが分かっています。千代川の上流を智頭(ちず)谷と言い、ここにも紙漉きの里がありました。そしてこれらの村の中にはその起源を古代、中世にまで遡るものが幾つもあるのです(この点が山根、河原と違う)。そこで、これらの中には古代からの製紙を受け継ぐ集落が含まれるのでは、と考えてみるのです。
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