古代から近世までの空白の数百年間、因州の地で紙作りが途絶えていたとする根拠はありません。この間当地でも他国と同様に紙の用途は社会生活、私生活のさまざまな分野に広がり、需要量も増大していきました。それを全て他国からの輸入でまかなったと考えるのは不自然です。また、あえて古代の産地と近世の産地とは繋がらないと考える理由も見当たりません。製紙に適した水や原料確保の上からも、産地となりうる条件を備えた所はおのずと限定されるからです。古代の製紙技術は千代川筋の村々に脈々と受け継がれて近世を迎えたものと考えたくなります。
ところで、これまで千代川水系のことばかり述べて、鳥取平野の東の区切りを成す山塊と水系については触れませんでした。実は因幡の国府は平野の東寄りに立地しているので、普通に考えれば、わざわざ離れた西寄りの山地で紙を作らなくても、東南方へ遡る袋川、私都(きさいち)川や八東(はっとう)川の谷合(=若桜(わかさ)谷)に紙漉きの里が育ちそうなものです。しかし、文献に拠ってこれを確かめることはほとんどできません。僅かに小泉友賢が17世紀後半に著した「因幡民談記」(「稲場民談記」)の中に、八東川流域の数か村で紙を産したとの記述を見出しますが、それとても紙の種類や産出量の記載を伴わず、千代川水系の村々に関する詳しい記述とは対照的です。また、前出「因幡誌」では八東郡内各村の産物を記述した中で、西御門、一谷(いちのたに)両村の楮を挙げていますが、これは言うまでもなく紙の原料でしかありません。むしろ興味を引かれるのは大門、殿ほか4村で紙子(かみこ)の産出を記していることです。これは楮紙を加工して作った衣類で、武士から庶民まで広く着用されていました。播磨の姫路では階田紙を使って盛んに紙子を作ったと言いますから、その技術が入って来たのかもしれません。それにしても、材料となる紙そのものを製造する村についての記述はありません。この地域が平安末期から中世にかけて国衙の直轄領であったことも考え併せ、古代はおろか近世においても鳥取平野の東域で紙を生産したという記録や伝承に出会わないのは不思議です。これも謎。この地域の和紙生産について何かご存知の方があれば伺いたいものです。
という次第で、日置の和紙作りは古代からの技術を継承するであろう千代川筋のいずれかの紙漉き集落から、適当なルートを経て伝わったものと推測されます。
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