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手仕事探査隊

第26回 「因幡紙元祖碑」の謎とロマンvol.10
 ~謎6 紙の道は山の道?(下)~

 ここまでたどり着いてもなお分からないのが、製紙法を伝えた側と受け取った側の具体的な集落名です。先ず、日置へ最初に紙作りを伝えたのは南の山向こうの谷のどの紙漉き集落だったのでしょう。安蔵か岩坪か、はたまた佐治のどこなのか、正直に言って全く分かりません。これを突き止めるのに役立つ古文書や言い伝えは残っていないものでしょうか。
 次は、製紙法が最初に伝わったのは北側の谷のどの集落かという問題です。日置地区に入って、その後鹿野、勝部その他の集落へ広まったのか、逆に日置の方が遅れて二次的に導入したのか、それとも複数の集落へ同時期にそれぞれ別個に伝わったものなのか。
 江戸時代の史料の中で紙の産地を記した最も古いものは「在方御定」の寛永16(1639)年6月の項に出てくる家奥です。紙作りを伝えた側の候補地の1つです。伝わった側の記録はその2年後、寛永18年11月の項に日置谷と勝部の名が登場します。鹿野については前出「因幡民談記」に多種類の紙の産出が記されているところから、この書が書かれた寛文末か貞享5年より30~40年前の寛永年間には製紙が行われていた可能性があります。つまり江戸時代初期には既に日置、勝部、鹿野の各地区に紙作りの技術が入っていたことになり、そのいずれが先かという問題は、またもや記録が失われてしまった先立つ時代の闇の中に消えてしまいます。
 先に<謎4>の中で、文禄5(1596)年に亀井公が出した「許可なく切ってはならない木(村々切らさる木)」の禁令は当時日置での紙作りを推測させると述べましたが、切り出された楮や雁皮を使って紙を漉いていたのは鹿野や勝部の職人であったかも知れません。日置であった可能性はこれらの地区と同程度と言うのが正しいようです。
 幹線国道や鉄道が日本海岸を東西に走り、山陰本線青谷駅の近くから日置川沿いに南へ遡上する県道が整備されて以来、日置の集落と外部世界との交通はもっぱらこのルートに頼るようになりました。自家用車の普及が決定的な役割を果たしています。山道は忘れられ、遠回りをしなければ行けなくなった千代川水系の村々との交際は途絶えがち。紙の道が山の道であったことも想像するほかなくなりました。 

地図
日置、勝部、鹿野の位置関係


    
  >>「謎7 弥助が伝える前の紙とは?(上)」へ続く

    
※この連載に掲載されているコンテンツの著作権は筆者の若木剛氏に帰属します。権利者の許可なく複製、転用等することは法律で禁止されています。
   

更新日:2008年10月6日

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