美濃国の弥助来村の以前、16世紀の終わりごろ、日置の山根、河原のあたりで既に製紙が行われていたことを推測させる記録があります。当時この地方を治めていたのは、山を越えて東南隣に接する鹿野(しかの)の城主亀井茲矩(これのり)でした。この名君として語り継がれている茲矩が、文禄5(1596)年2月4日付けで、日置の西隣の勝部(かちべ)谷にある八葉寺(はっしょうじ)、紙屋(かみや)の2村に対して「許可なく切ってはならない木」を示した自筆の法度書があり、その中に「かうそ(楮(こうぞ))」、「かんひ(雁皮(がんぴ))」が記されています。いずれも古来和紙の主原料とされている植物で、両村はその後も江戸期を通じて昭和の中ごろまで、これらを日置の和紙生産者へ供給し続けてきました。このことから、亀井公が領内和紙産業の保護、育成を図ったことは明白、日置で和紙生産が行われていたことも推測されるのです。
それでは、紙作りの起源はその以前をどこまで遡ることができるのでしょう。正倉院文書の中に最古の因州和紙なるものがあって、専門家はこれを養老5(721)年のものか(?)と考えています。詳しくは鳥取県因州和紙協同組合顧問の房安光(ふさやすひかる)さんと前出浜谷康郎さんによる論考があります(「『紙』及び『因州和紙』の起源考察」)。
鹿野城址公園
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楮の木
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その後も社会の発展とともに紙の需要は年々増大し、因州各地で紙作りが行われてきたものと考えられます。ところが残念なことに、当地では中世史料が圧倒的に乏しいため、今日までその具体的な事実を確かめることができていません。他国の産地については、歴史学者網野善彦先生の論文「中世における紙の生産と流通」などで史料に当ることができますが、因州について史料を探すのは難しい。古代以降に因州での紙作りの様子が明らかになるのは、数百年の間を飛んで17世紀、江戸時代のことです。亀井公の文書などは、これに先立つ時期に紙業の存在を傍証する貴重な資料と言えましょう。それでは、日置の紙作りは、史料が欠けた時間を括弧に入れたままで、起源を古代まで遡るものと推測してよいのでしょうか。それが、どうも無理のように思われるのです。
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