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手仕事探査隊

第28回 「因幡紙元祖碑」の謎とロマンvol.12
 ~謎7 弥助が伝える以前の紙は?(下)~

 以上から少なくとも次の3つの事実が浮かんできます。第1は、因州で美濃紙の製法導入以前に作られていた紙の中で、名の付くものは杉原紙と階田紙であること、さらに、日置地区に限ればもっぱら階田紙であること。第2に、因州における美濃紙の製法導入時期は、千代川水系の谷よりも日本海へ下る谷筋、つまり気多郡の方が早いと見とれること。第3に、気多郡の中では、伝承によって日置地区の河原が最初と考えられるということです。やはり弥助さんは因州和紙発展の基礎を開いた一番の功労者と言えそうです。もっとも前掲「因幡見本帖 第1輯」によると、家奥地区にも、弥助來村と同時期に、美濃国で抄紙法を習い、帰村後紙業を始めた者についての口碑があるとか。こうなるとうかつなことは言えません。
 美濃紙を漉き始める以前、ということはおそらく江戸期に先立つ時代、因州で多く漉かれていた杉原紙は、もともと播州(兵庫県)杉(椙)原谷の産で、中世武家社会で常用されていたやや厚手の楮紙です。そして、日置地区でもっぱら漉いていた階田(皆田、甲斐田、海田)紙も、もとは現在の兵庫県佐用郡上月(こうづき)町皆田で産した楮の厚紙でした。近世には因幡その他の地方で模造されたということです(「和紙文化辞典」)。なお「八頭郡史考」によると、鳥取県へ階田紙の製法を最初にもたらしたのは享保11(1726)年、佐治村加瀬木の西尾半衛門であるとありますが、上に見たように、その85年前(寛永18年)には日置谷で階田紙の生産記録があるので、これは間違いです。杉原は明治20年ごろ、階田は昭和30年ごろに廃絶しました。鼻紙は楮の表皮を削ったときに出るかすの繊維や古紙を漉き返して作ります。

千代川 
千代川

青谷の海岸
青谷の海岸

 佐用の町は鳥取から大阪、京都へ向かう智頭急行鉄道の停車駅です。その西南に隣り合うのが上月町。平安の昔国守が因幡国へ赴任するときには、京から攝津(大阪)を通り、播州を横切りながら佐用を経て中国山地の智頭に至り、千代川沿いの谷道を下って国衙へ到着したものです。江戸時代の参勤交代にもこのルートが使われました。これが杉原や階田の紙作りを因州へ伝えた道だったと考えても強引ではないでしょう。さてこそ智頭谷、千代川水系の村々で早くから紙作りが行われたのだと合点します。
 なお、日置で階田紙を漉いていたことに関しては、別にちょっと面白い偶然もあります。山根、河原の人たちが信仰する浄土真宗本願寺派願正寺の開基明誓(みょうぜい)は、衣笠左衛門太夫自賀(これのり)と言って播州赤松家の家臣でした。故あって宗教家としての後半生を歩むのですが、武家であった頃の領地がちょうど佐用の辺りだったというのです。願正寺(当時は「元正寺」)の開創は慶長3(1598)年、ひょっとして彼もまた階田の紙職人を伴って来たのでは、などとロマンが頭に浮かびます。

    
  >>「謎8 階田和紙の里で見つけたこと」へ続く

    

※この連載に掲載されているコンテンツの著作権は筆者の若木剛氏に帰属します。権利者の許可なく複製、転用等することは法律で禁止されています。

   

更新日:2008年11月17日

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