M-1 鹿野町「城下町地区」

M-1 鹿野町「城下町地区」 鳥取市鹿野町


天正九年(1581)10月、戦国時代末期、亀井武蔵守茲矩(かめいのむさしのかみこれのり)が鹿野城主となった。元和三年(1617)7月、2代目政矩(まさのり)が、津和野へお国替えとなり、戦乱を乗り越えながらわずか37年で築き上げた小さな城下町は現在まで残り続いている。目立つものは何もないが、亀井公が行なった戦国のまちづくりのロマンが感じられる不思議な城下町それが鹿野である。

大陸を夢見てつけた地名 : 城主亀井茲矩は、インドへの憧れなのか、この地に聖地の名前を取り入れている。鹿野にそびえる鷲峰山(じゅうぼうやま)は、かつては「じゅぶせん」と呼んでいた。また、鹿野城を王舎城(おうしゃじょう)、住民が住む区域を鹿野苑(ろくやおん)、鹿野に流れる川を抜堤河(ばったいがわ)、流沙川(りゅうしゃがわ)、恒河(こうが)などと呼んでいた。

城下町の風景 : 城山を囲むように家臣たちが住み、殿町付近に侍が住んでいた。その外側は町屋地区として、上町、下町の商業地区が置かれ、更にその外側に職人町として紺屋町、加治町、大工町などが配置されていた。町屋の地割りは、間口が狭く奥が長い短冊形で、後ろには畑を持っていた。町全体は、田んぼの中に浮かんでいるようなコンパクトにまとまった小さな城下町であった。

行く手をはばむ交差点 : 城下町を走る道は、城主亀井茲矩が、城を築いた後に整備の一環として造ったもので、道幅、交差点などはほぼその時代のままの形で残っている。その中の「L字路、T字路」は、外部からの侵入者があったとき、行き止まりに見えたり、城とは反対側へ行かせる造りになっている。

四百年流れつづける水路 : 城主亀井茲矩公により造られた水路が、町の中を縦横無尽に流れている。取水は東の水谷川、西の河内川から引き込み、当時のまま今なお流れ続けている。

京都から伝わった大工技術(京風千本格子) : 鹿野の大工技術は、応仁の乱(1460年代)に京都山城地区から宮大工が戦乱を避けるため鹿野町に来たことがきっかけで伝わり、その宮大工の子孫は江戸時代に入ると西因幡の大工頭を務めたといわれ、今でも「山城屋」という屋号を称している。町の中で残っている古い建物は江戸末期から明治時代のものがほとんどで、建物は「京風千本格子」が多く残り、構造は釘を使用しない「木組み」で建てられている。

牛つなぎ石 馬つなぎ石 : 城下町の中央を鹿野往来が通り、鹿野祭の屋台が通るメイン通りには、今でも牛つなぎ石や馬つなぎ石が残っている。現在では、江戸時代に設置されたと言われるものが7個あり、当時、交通・商業の要衝の地であったことが伺える。

県民百選のまちなみ : きわめて整備された古い町でもなく、目立った豪邸やお店もない。けれども、なぜかホッとするくつろぎの空間があり、作家司馬遼太郎は鹿野のまちなみを次のように表した。「人通りは、ない。通りは水の底のようにしずかで、ときどき京格子の町屋や、白壁に腰板といった苗字帯刀身分の屋敷などが残っている。ぜんたいに、えもいえぬ気品をもった集落なのである。」

足下行燈(あしもとあんどん) : 町の中には石で造られた足下行燈があり、住民で結んでいる「まちなみ整備協定」によって、それぞれの町が工夫を凝らして制作している。行燈に刻み込まれている紋章は鹿野祭の各町の紋章で、夜になると通りに連なる薄明かりが足下を照らす。

(鳥取市鹿野町総合支所 城下町鹿野案内参照)

鹿野町城下町地区の城下町風景等の写真

鹿野町城下町地区の県民百選の町並み等の写真

鹿野町城下町地区の足下行燈の写真
  

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