第7回県史だより

目次

大阪で名和長年の講演

 10月26・27日の両日、鳥取県大阪事務所交流室(大阪駅第3ビル)で「名和長年と後醍醐天皇」と題する講演を行いました。これは大阪鳥取県人会・大阪事務所共催の「鳥取学」出前講座(注1)の一環で、参加者は初日(夜の部)・2日目(午前の部)を合わせて約80名。中には京都や奈良から来られた方もあり、和気あいあいと楽しく“ふるさと”の歴史に触れていただきました。

 今回の講座では、主に(1)名和長年の人物像、(2)名和長年の活動と後醍醐天皇、(3)名和長年・後醍醐天皇ゆかりの地、の3点について、近年の最新成果も交えながら解説をしました。

(注1)「鳥取学」出前講座
郷里から各界の専門家5~6名を講師に迎え、毎月1度さまざまなテーマで“ふるさと”鳥取県について学ぼうと企画されているもの。今回で8期目。

「鳥取学」出前講座での講義の様子の写真
「鳥取学」出前講座での講義の様子

(1)名和長年の人物像

 長年の評価はさまざまですが、特にここでは「悪党」・「有徳人(うとくにん)」を取り上げました。「悪党」とは鎌倉幕府の体制に従わない者という意味で、単に「悪い人」という意味ではありません(ちなみに楠木正成なども「悪党」と言われています)。また「有徳人」とは裕福な人の意味です。長年は日本海運を中心に商業活動にも関わり多くの蓄財をなしていました。「帆掛け船」の家紋はそのことを物語っています。当時の資料にも財力を持っていたという記述がみられます。

(2)名和長年の活動と後醍醐天皇

 元弘の変で隠岐に流された後醍醐天皇は、元弘3(1333)年2月に脱出し伯耆国に到着します。このとき天皇が上陸した地点については諸説があり、琴浦町箆津(のつ)・大山町逢坂(おうさか)・大山町御来屋(みくりや)などが候補地として考えられています。天皇を抱え船上山合戦で勝利した長年はその後天皇とともに上洛し、建武の新政では「三木一草」(注2)の1人として重んじられます。足利尊氏が反旗を翻した後も長年は天皇側として活躍しますが、最後は尊氏方の草野秀永に敗れ京都で戦死します。その後の名和一族は肥後八代の地で存続し、やがて秀吉から筑前国500石を与えられ朝鮮出兵にも参加します。江戸時代には立花氏の家臣となりますが、明治に入りかつて天皇を救った忠勲により男爵となり、名和神社の神官に任ぜられて現在に至っています。

(注2)三木一草
名和長年・楠木正成・結城親光・千種忠顕の天皇側近4人の総称。名和伯耆(キ)守長年、楠木(キ)、結城(キ)、千種(クサ)の1字ずつを取って「三木一草」と呼ばれた。

(3)名和長年・後醍醐天皇ゆかりの地

 スライドを使って、「船上山」のほか、西伯郡大山町内にある「名和神社」・「氏殿(うじどの)神社」(旧名和神社)・「名和長年の碑」・「名和氏館跡碑」・「長綱寺(ちょうこうじ)」(名和氏の菩提寺)・「名和一族の墓」・「三人五輪」(長年・長男義高・次男義光の墓)・「天皇御着船所碑」などのゆかりの地を紹介し、その由来等を解説しました。

 名和長年や後醍醐天皇に関しては各地に伝説が多くあります。そのような伝承や言い伝えには、何らかの根拠や理由があります。それらを一つ一つ大切にすることは地域の再発見につながります。地域に残る無形・有形のさまざまな歴史資料・民俗資料を掘り起こし、地域のよさを発見していく営みが、自分たちの地域に対する誇りにつながっていくと思います。県史編さん事業はこのような点も大切にしていきたいと考えています。

(岡村吉彦)

室長コラム(その6):「名誉」という職業?

 県中部の東伯郡琴浦町(旧赤碕町)篦津(のつ)の河本家は、江戸時代にこの地域の大庄屋を務めた旧家で、その住宅(県保護文化財)は、貞享5(1688)年の建築といわれ、地元の有志で組織する河本家保存会等によって、毎年春・秋2回一般公開されている。

 河本家には、大量の古文書が残されているが、今まで調査の手が付けられてこなかった。そこで、私や地元のボランティアの方々で、今年1月から毎月1回古文書の目録作成を行いはじめ、少しずつではあるが、河本家文書の内容が明らかになりつつある。

 古文書調査の成果の一端を知っていただくため、秋の公開期間中の11月3日、「河本家の古文書調査から~赤碕における幕末の職人と商人」と題して同家で講演させていただいた。職人と商人をテーマに選んだのは、調査中に発見した、「村々諸職人諸商人書上帳」(明治4年・1871)「八橋郡赤崎宿諸商売并諸職人願人別帳」(明治5年・1872)という史料を紹介したかったからである。

 この史料は、前者が、河本家が大庄屋として管轄した、旧赤碕町全域(赤碕宿を除く)と旧中山町の東側半分に当たる42の村から、後者が赤碕宿から、それぞれ農業以外の職業に携わっている者を列記し、その営業許可の「御免札」(鑑札)の交付を求めた記録である。そこから、明治初年のこの地域の職人・商人の具体的な姿を窺うことができる。

 例えば、当時この地域の主要産業として綿と木綿の生産があり、「木綿買」・「綿売」・「綿打」等を業とする者が多かったこと。高い鑑札料が必要な質屋や酒造業、呉服商等がそれぞれ数軒存在する一方で、零細な商業として、港で魚を仕入れて振り売りする「笊振(ざるふり)」が数多く存在する等、現在では見られなくなった職業を含め、多様な職種が存在したことなどである。

 ところで、この史料の中に不可解な職種が登場する。「名誉」という職種である。金屋村と束積村に各1軒、計2軒と数は少ないが、この職の鑑札料銀30匁(もんめ)は、荒物商・大工・紺屋等の25匁より高く、かなり大きな金額を扱う職種であることが想像されるが、全く何の仕事やら想像つかず、講演では、素直にわからないとお話した。

 しかし、何でも話してみるものである。会場にいた河本家保存会長の小谷惠造先生から、それは、「めんよ」ではないかと御教示いただいた。赤碕近辺では、曳家業のことを「めんよ」と言い、現在でも「めんよ」を業とされる方が居られるとのこと。即座に、「名誉」は「めんよ」に間違いないと確信した。家に帰り調べたところ、「めんよ」という言葉は『広辞苑』等にも見えず、なぜ家引きのことを「めんよ」というのかはわからない。しかし、史料中の「名誉」が「めんよ」の当て字であることは間違いなかろう。

 今回は、たまたま御教示いただく機会があって、意味を知ることができたが、同時に、古い言葉が失われていく恐ろしさも痛感させられた。歴史事象だけでなく、その背景の古い言葉を含めて、今の内に記録を残して置くことも現代の私たちの課題のひとつだろう。

(県史編さん室長 坂本敬司)

活動日誌:2006(平成18)年10月

11日
山口県文書館で史料調査(~14日、岡村、錦織編さん委員長とともに)。
19日
第37回全国都道府県史協議会(~20日、三重県津市、岡村・西村)。
20日
史料調査(名古屋大学文学部、岡村)。
26日
出前講座「鳥取学」講師(第1日目、鳥取県大阪事務所、岡村)。
27日
出前講座「鳥取学」講師(第2日目、鳥取県大阪事務所、岡村)。
第2回県史編さん専門部会(近代・現代合同)開催。
31日
手記募集説明(琴浦町・大山町、西村)。

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編集後記

 平成18年も残りあと2ヶ月を切りました。これからの週末は忘年会などでスケジュールがいっぱいという方もおられることと思います。まだ余裕がある方は、12月3日(日)の午後をぜひ空けておいてください。新鳥取県史シンポジウムの第一弾、「鳥取・倉吉・米子 ― 三都物語」を午後1時半より県民文化会館にて開催します。(大川)

  

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