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調査研究(古代山陰道)

鳥取まいぶん講座と古代山陰道特別講演会Q&A(その6) 令和5年度鳥取県埋蔵文化財センター古代山陰道特別講演会「古代山陰道とその未来」編

 鳥取まいぶん講座と古代山陰道特別講演会Q&Aの最終回(第6回目)です。

 今回は、古代山陰道の調査方法についての質問に回答します。

 

Q&A第1回~第5については、こちらをクリックしてください。

→(第1回第2回第3回第4回第5回

 

Q:古代道路はどのように調査して発見するのですが?具体的に教えて下さい。

A:ここでは、鳥取県埋蔵文化財センターが実施した古代山陰道の調査研究の方法について御紹介します。

 古代山陰道を始めとした七道駅路が道路として使われなくなった後には、道路であった場所が平野では帯状に長い耕作地の区画など、丘陵上では大規模な切通しや帯状の平坦地などのように、地割や地形に痕跡として残る場合があります。その地割や地形に残された痕跡を探すことが古代山陰道の調査研究の第1歩となりますが、やみくもに歩き回ってもなかなか見つけることはできません。

 そこで、まず、「細かな地形が表現されているレーザー測量図」や「航空写真」、「江戸時代に作成された絵図」などを確認し、古代山陰道の可能性がある地割や痕跡を探します。図や航空写真から地割や痕跡を見つけたら実際に現地に行き、周辺の地形を確認します(現地踏査)。駅路の近くには「塞ノ神(さいのかみ)」の祠(ほこら)や道しるべと考えられる「立石(たていし)」などがあることが知られており、そのような手がかりとなる構造物の有無も合わせて確認します。

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現地踏査の様子(養郷新林遺跡)

 

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現地踏査でみつかった「立石」(鳥取市気高町)

 

 現地踏査で古代山陰道(道路遺構)が残っている可能性が高い地点がみつかった場合は、発掘調査を行い、道路遺構の規模や構造、時期などを確認します。発掘調査で確認できるのは古代山陰道全体から考えれば「点」でしかありませんが、複数地点で古代山陰道が確認できれば、「点」が繋がり「線」となり、路線が確定します。

 現地踏査や発掘調査等の調査成果については、報告書にまとめ刊行し、広く周知しています。

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発掘調査の様子(養郷新林遺跡)


鳥取まいぶん講座と古代山陰道特別講演会Q&A(その5) 令和5年度鳥取県埋蔵文化財センター古代山陰道特別講演会「古代山陰道とその未来」編

 鳥取まいぶん講座と古代山陰道特別講演会Q&Aの第5回目です。

 今回は、山陰の陸路と海路についての質問に回答します。回答は、文化庁文化財第二課主任文化財調査官の近江俊秀(おおみとしひで)氏にお願いしました。

 

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Q:トークセッションで「山陰道は最も地形を克服した道」との話があった。講演の中で山陰道は古墳時代以来の道とは関係があまりないとの話があったが、そうした新たに造った道と、従来の道の利用との差が現れていると考えてよいのか?そこには最新の土木技術が導入されているが、中央の関与があったと考えてよいのか?

A:恐らくその通りだと思います。山陰道ができる以前の山陰の東西交通は、海路の利用が主であり、陸路は地形的な障害が多かったと考えられます。それを克服するために、山陰道は相当、無理をして敷設しているように思います。

 なお、土木技術については中央の技術者が派遣された可能性が高いと思います。道路敷設に伴い技術者が派遣された形跡が認められるのは、木曽路の敷設の話で工匠の名が見えます。また営繕令という規定には、地方で手に負えない工事の場合は、申し出よとあるので、これは中央からの技術支援を前提とした規定と考えられます。

 

Q:「海の道と古代山陰道」について、パネルディスカッションでは時間の都合上省略されましたが、個人的に興味深いところ(大学での研究内容にしたいと考えている)であるため、可能な範囲で解説いただけますと幸いです。

A:日本海ルートについて、かつて森浩一氏が指摘して以来、多くの研究の蓄積があります。森氏は日本海側には港湾として利用しやすい潟湖が点在することと、それを見下ろすような場所に巨大な前方後円墳が認められるなど、海上交通を掌握した古墳時代の首長の存在を指摘しました。

 その後の発掘調査では大陸や半島と直接的な交流を示す遺物が日本海側から出土すること、稲作の伝播と関係するとされる九州の遠賀川式土器が日本海側に点在することなど、考古学的な証拠も蓄積されています。

 当日は、弥生時代の四隅突出型墳丘墓(三次盆地、出雲、伯耆、因幡、越前、加賀、越中といった日本海側に点在)の分布の話と、出雲国風土記をはじめとする史料に現れる伝承、越國から出雲への移民の話などをする予定でした。このように、考古資料と文献史料の双方から、日本海を利用した人と物の移動が確認できます。


鳥取まいぶん講座と古代山陰道特別講演会Q&A(その4) 令和5年度鳥取県埋蔵文化財センター古代山陰道特別講演会「古代山陰道とその未来」編

 鳥取まいぶん講座と古代山陰道特別講演会Q&Aの第4回目です。

 今回は、律令制以前の道路に関する質問に回答します。回答は、文化庁文化財第二課主任文化財調査官の近江俊秀(おおみとしひで)氏にお願いしました。

 

Q&A第1回~第3回については、こちらをクリックしてください。

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Q:全国で2番目に古墳が多い鳥取県は、(地形の制約により)道路の整備は困難だった。(そこで、古墳時代に)中央とのつながりがどうであったかを知りたい。

A:古墳時代は、陸路だと津山盆地を経由するルートで結びついていたと考えられます。その証拠に津山からは鳥取をはじめとする日本海側で用いられた道具と近畿で用いられたものとの双方が出土しています。逆に後の山陰道のルート上ではそうした傾向は認められていません。また、迂回的になるのですが、日本海を通って丹後へ上陸し、そこから南下するルートもあったと考えられます。古墳時代前期の土器の流れからするとそうした交流もあったように思います。

 なお、古墳時代には近畿の王権の出先機関(出張所)ともいえるような施設(機関)が山陰に置かれていた可能性が高いのではないか思います。土器や玉類など、山陰と近畿中枢部との結びつきはかなり強かったと考えられます。特に出雲の玉造集団が5世紀に大和の地に来て、玉造を行っていた明確な形跡が確認されています。

 

Q:神話に「いなばの白うさぎ」があります。大国主命は海岸線である気多崎(鳥取市白兎)を通ったことを物語っています。本日近江講師が話された律令以前の「山陰道」との関係性が気になりました。この他にも、古代道路を考える上で記紀、風土記、その他神話は参考となると思います。

A:はい。おっしゃるとおりですね。ヤマトタケル伝説でタケルが荒ぶる神と出会う場所も水陸交通の要衝であることが指摘されるなど、神話もある時代の交通の実情を示しているようです。  


鳥取まいぶん講座と古代山陰道特別講演会Q&A(その3) 令和5年度鳥取県埋蔵文化財センター古代山陰道特別講演会「古代山陰道とその未来」編

 鳥取まいぶん講座と古代山陰道特別講演会QAの第3回目です。

 今回は駅路の渡河(とか)に関する質問に回答します。回答は、文化庁文化財第二課主任文化財調査官の近江俊秀(おおみとしひで)氏にお願いしました。

 

Q&A第1回・第2回については、こちらをクリックしてください。

→(第1回第2回) 

 

Q:季節によって川は氾濫し、絶えず場所を変え蛇行して流れていたでしょう。当時は川幅が狭く、水深が浅い小河川であったと推定されますから、渡し船はなく、杭を打ち、板を渡した打橋とか棚橋と呼ばれた小規模な橋であったと考えられます。時には、状況に応じて数十歩程度は河川敷を歩いた所があったかもしれません。旧暦の9月半ばから1か月半程度の間に道路と橋が集中的に修理されたようです。可能性は低いでしょうが、古代山陰道の橋の痕跡発見を期待しています。

当時の渡河方法について近江調査官の見解をお伺いします。

A:河川には渡(わたり)があったとの記録があり、事実、出雲では風土記に見られる朝酌渡(あさくみのわたり)が発掘調査で見つかっていました。しかし、渡し場にある船は兵部省の管轄で数も少なく、一般の人は利用できなかったと考えられます。また、河川を泳いで渡ろうとして溺死した人がいたことも史料に現れています。一方、瀬田の唐橋(せたのからはし)など古代の橋の遺構もいくつか見つかっており、都に近い場所などでは橋が架けられていたことが確認できます。

 これらのことから考えると、橋が架けられていた川は限定的で渡船等により渡河するのが一般的だったと考えられます。ただし、平安時代になると税を運ぶ季節には、船をつなぎ合わせた舟橋(ふなばし)を架けよとの命令がだされていることから、仮設の橋が架けられる場合もあったでしょうし、平将門について記した将門記(しょうもんき)には、その時代に民間の渡船が複数あったことが確認できるなど、渡河の手段も時代により変化するようです。


鳥取まいぶん講座と古代山陰道特別講演会Q&A(その2) 令和5年度鳥取県埋蔵文化財センター古代山陰道特別講演会「古代山陰道とその未来」編

  鳥取まいぶん講座と古代山陰道特別講演会Q&Aの第2回目です。

 今回は、古代山陰道特別講演会「古代山陰道とその未来」の参加者からいただいた質問に回答します。回答は、文化庁文化財第二課主任文化財調査官の近江俊秀(おおみとしひで)氏にお願いしました。

 

Q&A第1回については、こちらをクリックしてください。→(第1回)

 

Q:なぜ、このような道路が必要であったのか?これだけ多額の経費・人力をかけて造る必要があったのか?出来上がった道路をどのようにして維持管理していたのか?この視点が現代との関係から必要ではないか?律令の中に規定があるからといって、現場でその規定通りに運用されていたかどうかは検証が必要である。

A:検証が必要なのは事実で、平安時代には山陰道と異なるルートを通って官人が山陰に向かっている例があります。一方、文書伝達の記録によると、律令の規定通りのルートで伝達されたことが分かるなど、時代や利用者の目的、使命により違いがあったことが分かっています。制度と実際の利用に係る記事、双方を見ながら当時の交通の実態に迫る研究がなされています。

 

Q:山陰道の側溝は丸く掘っているか。関東では四角に掘りますが、国ごとに違うのでしょうか。

A:関東の四角とは、東山道武蔵路と呼ばれている上野~武蔵間の路線のことですね。確かにここでは断面は四角ですが、東山道駅路本線や東海道駅路などでは四角の例はないようです。そうしたことからすると、武蔵路のみに認められる個性と考える方がよさそうです。

 ちなみに、武蔵路は7世紀後半に造られてから、9世紀に道幅を縮小していますが、200年近く側溝が開口したままだとすると、四角形の断面がそのまま残るとは考えられません。そのことから、私は武蔵路の側溝は道幅を決定する際の基準として掘られ、すぐに埋められた可能性もあるのではないかと考えています。

 

Q:土木工事に鉄器はどのように使われたか?(スコップ、クワ、ノコ等)

A:工具については、先端に鉄を取り付けた鋤や鍬が用いられていました。


古代山陰道特別講演会「古代山陰道とその未来」を開催しました!

 11月25日(土)に、令和5年度鳥取県埋蔵文化財センター古代山陰道特別講演会「古代山陰道とその未来」を会場(鳥取市国府町コミュニティセンター)とオンラインで同時開催しました!

 会場89名、オンライン65名の皆様に御聴講いただきました。

 

 今回の講演会は、特別講演とトークセッションの2本立てで行いました。特別講演は、文化庁文化財第二課主任文化財調査官近江俊秀(おおみとしひで)氏に「古代国家と道路」と題し、駅路が全国に整備された目的やその役割、そして駅路が廃絶に至る経緯など、全国の事例を交えながら解説していただきました。

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特別講演の様子

 

 講演会の後半には、公益財団法人鳥取県教育文化財団調査室文化財主事坂本嘉和(さかもとよしかず)氏、出雲市市民文化部文化財課埋蔵文化財2係係長石原聡(いしはらさとし)氏、鳥取市教育委員会文化財課保存整備係係長兼文化財専門員加川崇(かがわたかし)氏の3名をパネラーにお迎えし、特別講演をいただいた近江氏のコーディネートのもと、トークセッション「古代山陰道ここがすごい!-古代山陰道とその未来-」を行いました。

 トークセッション冒頭には、坂本氏が「ココがすごい!! 青谷の古代山陰道」、石原氏は「出雲国山陰道跡 調査・活用について」と題し、それぞれ古代山陰道の調査成果や活用事例について報告してくださり、その後、活発なトークが繰り広げられました。

 トークセッションでは、古代山陰道は砂丘やラグーン(潟湖)、河川、高く険しい丘陵といった山陰特有の地形を克服するため、様々な土木技術を駆使して造られており、日本の古代道路の特徴のすべてを兼ね備えた、まるで「古代道路の見本市」との指摘がされるなど、古代山陰道の「すごさ」が強調されていました。トークセッションの最後には、国史跡指定に向けた取り組みや古代山陰道の活用における地域間交流など、古代山陰道の未来に向けた各パネラーの思いが参加者に届けられました。

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トークセッションの様子

 

 会場で御聴講いただいた方からは、「全国的な事例が多く紹介され、わかりやすかった。」「古代国家と駅路のしくみがわかりやすい説明で理解できた。」などの御感想をいただきました。


因幡の古代山陰道XR動画を一部リニューアルしています

 鳥取県埋蔵文化財センターでは、令和元年度から行ってきた古代山陰道の発掘調査成果をもとに、奈良時代から平安時代の古代山陰道を鮮明な画像により再現した「因幡の古代山陰道XR(クロスリアリティ)動画」を作成し、公開しています。本動画で見られる様々な地形は、航空レーザ測量のデータをもとに忠実に復元したもので、駅使(えきし)が古代山陰道を駆け抜けた当時の情景がリアルに体感できると、大変好評を得ています。

 今回、これまで公開していた青谷横木(あおやよこぎ)遺跡から養郷新林(ようごうしんばやし)遺跡の区間に加え、養郷狐谷(ようごうきつねだに)遺跡の区間(約100m)を新たに追加しました。動画は当センター展示室とYouTubeでご覧いただけます。丘陵鞍部(あんぶ)を盛土により大規模に造成し、土橋のようになっている地点は、養郷狐谷遺跡の注目ポイントです。

 

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養郷狐谷遺跡 丘陵鞍部の大規模造成の様子

 

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因幡の古代山陰道XRの画像(YouTube版)

養郷狐谷遺跡の盛土造成地点

 

 また、今回のリニューアルに伴い、動画冒頭に「重要文化財『隠岐国駅鈴』」の音を追加しました。駅鈴の音色にいざなわれる古代山陰道を、駅使になりきってぜひ体感してみてください。

※「重要文化財『隠岐国駅鈴』」の音は所有者承諾のもと、使用しています。

 

■YouTube版はこちらをクリックしてください。

「因幡の古代山陰道XR(クロスリアリティ)動画」

■隠岐国駅鈴紹介ホームページはこちらをクリックしてください。

隠岐の島町教育委員会

 

古代山陰道の総括報告書が完成しました!!

 当センターは令和元年度から令和3年度にかけて、鳥取市青谷町の「養郷狐谷(ようごうきつねだに)遺跡」、「養郷新林(ようごうしんばやし)遺跡」、「養郷宮之脇(ようごうみやのわき)遺跡」、「善田傍示ケ崎(よしだぼうじがさき)遺跡」において古代山陰道の発掘調査を行ってきました。発掘調査の結果、尾根上の切通しや大規模な盛土造成の痕跡が確認されたほか、官道に「つづら折り」が採用されたことが全国で初めて明らかになるなど、古代官道の研究を進める上で重要な発見が相次ぎました。

 今回、これらの発掘調査成果をまとめた報告書『因幡国山陰道跡-養郷遺跡群・善田傍示ケ崎遺跡発掘調査報告書-』が完成しました。この報告書は、青谷町周辺で実施した現地踏査の成果や、過去に実施された「青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡」、「青谷横木(あおやよこぎ)遺跡」の発掘調査成果等も加えた青谷町の古代山陰道の総括報告書となっており、この地域の古代山陰道の調査研究成果が詰まった一冊となっています。

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『因幡国山陰道跡-養郷遺跡群・善田傍示ケ崎遺跡発掘調査報告書-』

↓この画像をクリックしていただくと表紙と目次のPDFデータがダウンロードできます。

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 完成した報告書は準備が整い次第、県内の図書館や大学などの研究機関に発送するほか、令和5年326日(日)午前9時からとっとり電子申請サービスで販売を開始します。価格は一冊2,500円です。

 

 なお、令和5年326日(日)には八頭町八東体育文化センターで開催する考古学フォーラム2022「須恵器からみた古代因幡の流通と交通」 当日、フォーラム開催と報告書の完成を記念して、『因幡国山陰道跡-養郷遺跡群・善田傍示ケ崎遺跡発掘調査報告書』を会場で販売(50冊限定)します!!

「須恵器からみた古代因幡の流通と交通」報告書についてはこちらをクリックしてください。

[令和5年3月掲載]


古代山陰道の立体地形測量図が完成しました!

 当センターでは、地形に残された遺跡の痕跡を確認する手がかりとなる地形測量図を作成しています。立体地形測量図を作成するためには、飛行機やドローンなどにレーザーを対象物に照射して形状を測る器械を搭載して、地面に照射することで地形の記録を行います。木々に覆われた場所では、無数に照射したレーザーの多くは木々の葉に当たりますが、その隙間を通り抜けて地面に到達した光線のデータを抽出します。その得られたデータを解析すると地形の凹凸が明瞭にわかる地形測量図が完成します。さらに、地形の凹凸が感覚的に分かりやすい3次元(3D)画像を作成することができます。

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飛行機を使ったレーザー測量のイメージ図

 

 今年度は、青谷の東側丘陵にある養郷狐谷(ようごうきつねだに)遺跡と、西側丘陵にある青谷大平(あおやおおひら)遺跡のレーザー測量を行い、先日、地形測量図が完成しました。養郷狐谷遺跡では、大規模な盛土造成が行われた丘陵鞍部(谷が尾根の両側からせまっているところ)の地形が明瞭に観察できるほか、青谷大平遺跡では切通しの痕跡がダイナミックに感じられます。これらの測量成果と発掘調査の調査成果を相互に検討することで、古代山陰道の路線が復元できます。

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  養郷狐谷遺跡地形測量図

 

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養郷狐谷遺跡3次元(3D)画像

(両側からせまる谷部を埋め立てて古代山陰道が造られています。)

 

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  青谷大平遺跡地形測量図

 

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  青谷大平遺跡3次元(3D)画像

 

 また、当センターでは、レーザー測量で得られたデータを元に因幡の古代山陰道XR(クロスリアリティ)(動画)を作成、公開をしています。駅馬(えきば)で古代山陰道を駆け抜ける駅使(えきし)になりきり、古代山陰道をリアルに体感できると大変好評を得ています。現在、青谷横木(あおやよこぎ)遺跡、養郷宮之脇(ようごうみやのわき)遺跡、養郷新林(ようごうしんばやし)遺跡の路線を忠実に再現していますが、今年度レーザー測量を実施した養郷狐谷遺跡のデータを新たに加え、古代山陰道XRをリニューアルする予定にしていますので、どうぞお楽しみに!

※「因幡の古代山陰道XR動画」は当センター展示室とYouTubeで絶賛公開中!

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「因幡の古代山陰道XR動画」(青谷横木遺跡)

  〇「古代山陰道XR」詳細はこちらをクリックしてください。

  →「古代山陰道XR」みどころポイント

[令和5年3月18日掲載] 


駅鈴の響く古代山陰道

 当センター展示室とYouTubeでも絶賛公開中の因幡の古代山陰道XR動画にその後に明らかとなった調査成果を加えた最新バージョンを現在作製中です。

 ところで、皆さんは「駅鈴(えきれい)」というものをご存じでしょうか?XR動画では、駅馬(えきば)に乗った使者である駅使(えきし)がつづら折りの峠道を越えて、都へ向かうようすをリアルに体感できますが、実際に駅使は駅鈴とよばれる鈴を打ち鳴らしながら古代山陰道を疾走していました。現代に例えるならば、さながらサイレンを鳴らしながら走るパトカーといったところでしょうか。じつは、国家から駅鈴を支給された駅使だけが駅馬を利用することができ、駅鈴は通行許可証の役割を果たしていたのです。

 下のホームページリンクから島根県隠岐の島町の玉若酢命(たまわかすのみこと)神社宮司である、億岐(おき)家に代々伝わる駅鈴がご覧いただけます。この駅鈴は昭和51年(1976年)発行の官製はがきの切手部分の図柄にも使われ、三重県松坂駅前に置かれた駅鈴のモニュメントをご存じの方もいらっしゃるかと思います。駅鈴は国内でこの隠岐の島町の2点しか現存しておらず、国の重要文化財に指定されています。青銅製で、大きさは幅5.5cm、奥行5cm、高さ6.5cmほどです。「駅」と「鈴」の文字があり、重厚で美しいフォルムをしています。本来、駅鈴には剋(こく)と呼ばれる刻み目があり、刻み目の数だけ駅馬を利用する決まりとなっていました。使者の身分が高いほど利用できる駅馬は多く、それだけ付き従うお供が多かったことを物語っています。そのため、駅使は最大で10名、最低でも2人以上で移動していました。

 隠岐国の駅鈴は、江戸時代の安永8年(1779年)に光格天皇が即位した際の式列に加えられており、同じく江戸時代の書物には、隠岐国造は駅鈴を持ち歩き、その音は「清亮(せいりょう)、殊更(ことさら)に音高くしてよく遠く聞ゆ」と記されています。

 残念ながら、その清らかで澄んだ音色は玉若酢命神社でしか聞くことはできませんが、駅鈴が響きわたり、国家の大事を伝える使者が行き交う山陰道の姿をイメージすることができます。

 参考文献:近江俊秀2016『古代日本の情報戦略』朝日新聞出版

 

 ○隠岐国駅鈴紹介ホームページ(隠岐の島町教育委員会)

  ↑こちらをクリックしてください。

[令和5年3月掲載]

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センター紹介

 久松山地域は戦国時代以降鳥取城が築かれ、鳥取藩32万石の中心地でした。現在でもこの地域は県庁があり、行政の中心地となっています。

 しかし、戦国時代から遡ること約800年前の奈良時代、県庁から4キロほど離れたこの国府町に国史跡因幡国庁(現在の県庁にあたるもの)がありました。今ではひっそりとした田園地帯ですが、因幡三山(甑山(こしきやま)、今木山(いまきやま)、面影山(おもかげやま))に囲まれ、当時の面影を残す万葉の歴史と古代の出土品にあふれた万葉の里となっています。
 この歴史豊かな万葉の里の一角に埋蔵文化財センターはあります。


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