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文化財で使われる新しい計測技術

 令和4年7月29日から企画展示「文化財の三次元計測」を行っています。

 今回の展示では、三次元計測技術が文化財の調査や活用にどのように使われているかを紹介していますが、その1つをご紹介します。

 鳥取市気高町の下坂本清合(しもさかもとせいごう)遺跡では、室町時代の備前焼の壺に大量の銅銭が納められた状態で見つかりました(埋蔵銭と呼ばれます)。

 見つかった壺は、一部が割れていたことで、銅銭が納められたようすがよく分かる状態でした。そのままの状態で残すことも考えられましたが、入っている銅銭の枚数や銅銭の種類などを知るためにはすべて取り出す必要がありました。そこで、銅銭を取り出す前に3次元計測を行うことになりました。

 計測には、レーザーを照射して対象物の計測を行う器械が使われました。作業は回転台の上に壺を乗せて、少しずつ回してレーザーを当てる場所を変えながら計測を行い、コンピュータ上で計測したデータを合成することで壺の全体形を作り上げていきます。

 今回できあがった三次元データには色情報がありませんので(色情報も記録できる器械もあるそうです)、同時に撮影した写真をデータの表面に貼り付けることで、あたかも本物の壺がコンピュータの中に現れます。このデータは見る人が自由に回転させたり、拡大して細かい部分の様子を見たりできます。

 その後、三次元データを基に出土した状態のレプリカが作られ、壺の中に入っていた銅銭とともに展示できるようになっています。

 今回は、ロビーに本物の壺と銅銭を展示するとともに、展示室内にレプリカを展示していますので、見比べていただきたいと思います。

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本物の埋蔵銭

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三次元計測のようす

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埋蔵銭の三次元画像

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埋蔵銭のレプリカ


企画展示「文化財の三次元計測」開催のお知らせ

 令和4年7月29日(金)から、当センターの展示室で、企画展示「文化財の三次元計測」を開催しています。
 発掘調査でみつかった遺構や遺物は、これまで図面や写真といった二次元(縦・横)の媒体で記録して、本やパネルに印刷して表すことがほとんどでしたが、近年は技術の進歩やパソコンの高性能化に伴い、三次元(縦・横・高さ)で遺構や遺物の形を計測、記録する方法が簡単になり、そのデータを基に幅広く研究や活用ができるようになりました。
 今回の企画展示では、三次元計測が、埋蔵文化財の調査や活用に用いられた事例を紹介しています。最新の調査技術とその成果をどうぞ御覧ください。

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企画展全景

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企画展その1

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企画展その2


企画展示 「歴史を塗り替えた発見」の見どころ紹介2

 現在好評開催中(令和4年6月3日(金)から7月22日(金)まで)の企画展示「埋文センター40年の歴史(2)歴史を塗り替えた発見」の見どころ紹介、第2弾です。
 今回紹介するのは、鳥取市高住牛輪谷(たかずみうしわだに)遺跡で見つかった「団扇形(うちわがた)木製品」です。杉を加工して作られたもので、アルファベットの「D」の直線部分に軸がとりつき、軸の端は一段太く作られています。「D」の部分にはスリットが入れられており、その部分に羽根などを差し込み、木の目釘で留めていたようです。「団扇形」とは呼んでいますが、今使っている団扇とは異なり、あおいで風を起こすのではなく、身分の高い人の顔を隠すために使われたものです。
 古墳時代後期(7世紀前半頃)のものですが、この時期の団扇形木製品は大変珍しく、ほかに奈良県藤原京跡出土例(7世紀後半)があるくらいです。遺跡の中央にある溝の中から、多数の木製祭祀具(刀形、斎串(いぐし)など)などとともに見つかっており、祭祀の際に使われた可能性も考えられます。「団扇形木製品を使って顔を隠すほど身分の高い人って、どんな人がいた?」と想像がかき立てられる、もしかすると歴史を塗り替えるかもしれない発見です。
 この他に、この高住牛輪谷遺跡からは、普通の2倍の大きさがある須恵器杯(つき)(展示中)や珍しい二口の移動式かまど、漆塗りの木製壺鐙(つぼあぶみ;乗馬の際に足を乗せるもの)、2,000点を超える桃の種など、ちょっと変わった出土品がいろいろ見つかっています。鳥取県の歴史を考える上でも、とても興味深い遺跡です。
 なお、今週令和4年7月2日(土)は午後1時から5時まで特別開館しておりますので、この機会にどうぞ御来館ください。
 また、企画展に関連する第2回まいぶん講座「埋文センター40年の歴史(2) 歴史を塗り替えた発見」(令和4年7月16日(土)開催)の参加者も現在受付け中です。タイトルのとおり、山陰最古級の本高14号墳、古代山陰道が発見された青谷横木遺跡をはじめ、近年歴史を塗り替えた様々な発見を紹介します。一度に全てを聴けるのはこの講座だけ!皆さま、どうぞ御参加ください。

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高住牛輪谷遺跡団扇形木製品の出土状況

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団扇形木製品の使い方(イメージ)


企画展示「歴史を塗り替えた発見」の見どころ紹介1

 現在好評開催中(令和4年6月3日(金)から7月22日(金)まで)の企画展示「埋文センター40年の歴史(2)歴史を塗り替えた発見」の見どころを、担当者の独断と偏見で(?)紹介します。
 本企画展示の展示品は、いずれも「歴史を塗り替えた発見」というにふさわしい出土品ですが、今回紹介するのは、鳥取県での人の活動時期を大幅に塗り替えた、大山山麓の旧石器です。
 平成22年から24年にかけて行われた、大山町の豊成叶林(とよしげかのうばやし)遺跡、下甲退休原第1(しもぎたいきゅうばらだいいち)遺跡、殿河内ウルミ谷(とのかわちうるみだに)遺跡の発掘調査では、それまでほとんど見つかっていなかった旧石器人の活動の痕跡が明らかになりました。これまで隣接県で旧石器時代の遺跡が見つかっていたこともあり、いずれは見つかることが期待されてはいました。しかし、実際に遺跡が見つかり、しかも石器製作の痕跡が復元できるうえに、遺跡が近接していて見つかった地層の比較もでき、石器製作の時期的変遷がたどれるなど、一気に研究が進展することになりました。
 最も古い石器は約35,000年前までさかのぼり、日本列島に人々が往来して間もない頃から、この鳥取にも人が活動していたと聞くと、何かワクワクしてきませんか?
 なお、今週令和4年6月18日(土)は午後1時から5時まで特別開館しておりますので、この機会にぜひ御来館ください。

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豊成叶林遺跡のナイフ形石器(左手前)と、製作の際の破片

(鳥取県保護文化財)


企画展示 「埋文センター40年の歴史(2) 歴史を塗り替えた発見」始まりました!

 今年は当センターが開所して40年となる節目の年であるのを記念し、企画展示でも40年の歴史を振り返る展示を開催しています。
 第1弾「埋蔵文化財センターの40年のあゆみ」では、40年間の当センターの歴史を振り返るとともに、平成12(2000)年頃までを中心に、当センターが関わった発見・発掘調査の出土品について紹介しました。第2弾「歴史を塗り替えた発見」では、おおむね平成12(2000)年以降の、大規模開発に伴う発掘調査などにおける重要な発見を振り返ります。
 山陰道(鳥取西道路、東伯中山道路、名和中山道路、名和淀江道路など)の建設に伴う発掘調査では、数多くの遺跡の発掘調査が行われ、新たな発見がメディアを賑わせました。今回の企画展示では、その中でも特に注目された出土品や、鳥取県や山陰、ひいては日本の歴史上重要な発見などにスポットを当てています。鳥取県最古の旧石器(下甲退休原第1遺跡)、全国2例目の「女子群像」板絵(鳥取市青谷横木遺跡※復元品、レプリカ)などは、まさに「歴史を塗り替えた発見」と言っても過言ではありません。

 会期は令和4年7月22日(金)までです。開館時間は平日午前9時から午後5時までですが、6月18日(土)、7月2日(土)、16日(土)は午後1時から5時まで特別開館していますので、御利用ください。また、7月16日(土)には企画展に関連した、鳥取まいぶん講座「埋文センター40年の歴史(2)」を開催しますので、こちらもどうぞ御参加ください。

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企画展示案内

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展示風景


企画展示 「埋文センター40年の歴史(1) 埋蔵文化財センターの40年のあゆみ」始まりました!

 令和4年度が始まりました。今年度も鳥取県埋蔵文化財センターでは様々なイベントや展示を開催しますので、どうぞ御期待ください。
 さて、今年は当センターが昭和57(1982)年に開館して40年となる節目の年です。それを記念し、企画展示でも40年の歴史を振り返る展示を企画しました。第1弾「埋文センター40年の歴史 埋蔵文化財センターの40年のあゆみ」では、40年間の当センターの歴史を振り返ります。
 展示では、当センターの開館から40年間の、調査研究・公開活用・発掘調査等の歴史を振り返ります。また、おおむね平成12(2000)年頃までを中心に、当センターが関わった発見・発掘調査の出土品について紹介します。今回は、米子城跡6遺跡(米子市)、長瀬高浜遺跡(湯梨浜町)、岡益廃寺跡(鳥取市国府町)、吉定1号墳(伯耆町)を取り上げ、紹介しています。
 人間でいえば「不惑」を迎えた鳥取県埋蔵文化財センター。これまでの活動や鳥取県の歴史研究に果たした大きな役割を知っていただければと思います。
 会期は、令和4年5月27日(金)までで、開館時間は平日午前9時から午後5時までですが、4月16日(土)、5月7日(土)、21日(土)は午後1時から5時まで特別開館していますので、どうぞ御利用ください。また、5月21日(土)には企画展に関連した、鳥取まいぶん講座「埋文センター40年の歴史」を行いますので、こちらもどうぞ御参加ください。
 なお、令和4年6月3日(金)からの第2弾「歴史を塗り替えた発見」では、近年の大規模開発に伴う発掘調査や、最近の調査研究事業における重要な発見などについて紹介しますので、どうぞお楽しみに。

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企画展示案内

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展示風景


桜のまいぶん!

 桜がいよいよ本番という季節に花冷えの今日この頃ですが、鳥取県埋蔵文化財センターでは桜が満開となり、今が見ごろとなっています。
 今週の天気予報ではお天気に恵まれるようです。
 近くにお越しになりましたら、春の息吹を感じに鳥取県埋蔵文化財センターに出かけてみませんか?
 本物の出土品を展示している常設展、そして、令和4年4月12日(火)から企画展「埋文センター40年の歴史(1)」も開催です。 どうぞお楽しみにしてください!

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満開の鳥取県埋蔵文化財センター

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満開もあれば出番を待つ桜

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桜と空の絶妙な色合いです。

[令和4年4月掲載]


「本高・古海古墳群ウオーク」を開催しました!

 令和4年3月21日(月・祝)に、「本高・古海(もとだか・ふるみ)古墳群ウオーク」を開催しました!今回は事前にお申し込みいただいた14名の方が参加され、山陰最古級の前方後円墳である本高14号墳と、現在は鳥取西道路となっている本高弓ノ木(もとだかゆみのき)遺跡の現地を歩いて巡りました。
 鳥取西道路の建設に伴い平成21年に発見され、墳丘が保存された本高14号墳は、普段は立ち入ることはできないのですが、今回は国土交通省鳥取自動車道出張所の協力を得て古墳まで上がることができました。
 朝のうちは雨が降り肌寒かったのですが、ウオークを開始する頃には日が差しはじめ、比較的歩きやすい天気となりました。この古墳の特徴でもある細長い前方部を通って後円部頂まで上がると、前方部の先に千代川(せんだいがわ)や鳥取平野、さらに遠くには扇ノ山(おうぎのせん)の山並みまで望め、非常に眺望に優れた立地に古墳が築造されていることが実感できます。後円部では、古墳の概要や出土品、周辺の丘陵の古墳等について解説しました。その後、古墳から下りて、古墳とほぼ同時期の木製構造物や最古の土のう積みが見つかった本高弓ノ木遺跡まで鳥取西道路沿いに歩き、現地ではパネルを用いながら発見された構造物や古墳との関係について解説しました。
 参加された方々からは、「普段入れない古墳に行けてよかった」「詳しい説明でよく分かった」等の感想をいただきました。また、地元から参加された方からは「14号墳をよく残してくれた。地域にとって宝。」「こういうイベントをもっと開催してほしい。」という御意見もいただきました。
 鳥取県内には13,500基を超える古墳が存在しており、今後もこうした古墳を解説するウオークを開催していきたいと思っていますので、お楽しみに。

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本高14号墳の前方部から後円部へ登る

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本高14号墳後円部での解説

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本高弓ノ木遺跡から見る本高14号墳


ミニシンポジウム「戦国狗尸那(くしな)城を探る」の質問への回答について(その3)

 令和4年2月27日(日)に開催したミニシンポジウム『戦国狗尸那(くしな)城を探る』への質問回答の第3弾です。前回の質問3の追加質問として、関ヶ原の戦い以前の本城と支城の関係についての質問を中井先生に回答していただきました。

(追加質問)城の性格について

 関ヶ原以前の狗尸那城は鹿野城に対する支城であったという考えができるのではないか?
(中井先生からの回答)
 前回は関ヶ原合戦以後の話をしましたが、関ケ原合戦以前となるとお話しはまったく異なります。この場合鹿野城の支城と考えるには、鹿野城がどこかということから考える必要があります。つまり現在の鹿野城が天正期の鹿野城であったかどうかは不明です。よって狗尸那城が支城である可能性は不明と言わざるを得ません。さらに現在の鹿野城からは戦国時代にさかのぼる遺物が出土していないので、戦国時代の鹿野城である可能性は低く、狗尸那城がその支城であったということは考えられません。
 ミニシンポジウムでお話ししたように、狗尸那城からは戦国時代の遺物が出土しており、支城というよりもむしろ狗尸那城が鹿野城であった可能性が高いといえます。

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鷲峯山(じゅうぼうざん)と狗尸那城

[令和4年3月26日掲載]


ミニシンポジウム『戦国狗尸那(くしな)城を探る』の質問への回答(その2)

 令和4年2月27日(日)に開催したミニシンポジウム『戦国狗尸那(くしな)城を探る』への質問回答の第2弾です。最後は、講演いただいた中井先生への、城の性格についての質問です。

(質問3)城の性格について

 中井先生に質問です。中井先生は御著書の中で、関ヶ原の戦い(1600年)以降、移封された大名が新たな居城を築くだけでなく、支城を築いた例を明らかにされています。関ヶ原以後も、亀井氏は西の毛利・吉川への警戒感が強かったと思われ、亀井統治時代の狗尸那城も、直線距離で約2.4km離れた本城の鹿野城(しかのじょう)に対する支城であったという考えができるのではないかと思いますが、いかがでしょうか?
(中井先生からの回答)
 関ケ原の戦い後の本支城体制ですが、基本的には国持大名に限られるようです。鳥取では伯耆の中村一氏が米子城を本城とし、尾高城、八橋城、江美城を支城としたようです。さらにこうした支城はすべて石垣造りとなり、狗尸那城の構造は関ケ原後のものとは考えられません。したがいまして鹿野城の支城とは考えられないと思います。

 2回に分けてお届けしました質問と回答ですが、いかがだったでしょうか。本シンポジウムを通して、ますます狗尸那城の重要性が明らかになったと思います。狗尸那城の発掘調査に関する詳しい内容は、今月末に刊行する発掘調査報告書に書かれています。専門的な内容ですが、興味のある方は、どうぞご覧ください。

 報告書が刊行できましたら、別途ホームページでお知らせします。

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狗尸那城上空より日本海側を望む(左下隅が狗尸那城)

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鹿野城

[令和4年3月19日掲載]

イベント等の申込

令和6年度鳥取まいぶん講座申込(4月18日(木)~募集開始)


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センター紹介

 久松山地域は戦国時代以降鳥取城が築かれ、鳥取藩32万石の中心地でした。現在でもこの地域は県庁があり、行政の中心地となっています。

 しかし、戦国時代から遡ること約800年前の奈良時代、県庁から4キロほど離れたこの国府町に国史跡因幡国庁(現在の県庁にあたるもの)がありました。今ではひっそりとした田園地帯ですが、因幡三山(甑山(こしきやま)、今木山(いまきやま)、面影山(おもかげやま))に囲まれ、当時の面影を残す万葉の歴史と古代の出土品にあふれた万葉の里となっています。
 この歴史豊かな万葉の里の一角に埋蔵文化財センターはあります。


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