狗尸那城の調査を行いました

狗尸那(くしな)城の調査を行いました

    文化庁史跡担当の元主任調査官で、中世城館にお詳しい伊藤正義先生に、先日鳥取にお越しいただき、因幡と東伯耆の中世城館をいくつか見ていただきました。そのうち、鳥取市鹿野町鷲峯にある狗尸那(くしな)城にご一緒した時の様子をお伝えします。
 鳥取から三朝へ向かう県道から林道に入り、しばらく道なき道(斜面)を進むと、明らかに周囲とは違う地形が現われました。尾根に設けられた曲輪です。周囲を歩いてみると、ほかにも曲輪や堀が多く残っていました。尾根の頂上にある主郭を目指して進もうとしますが分岐が多く、なかなかたどり着く事ができません。…敵が攻めてきた時に分岐させ、人数が少なくなったところを狙う仕組みかもしれません。
 先生と一緒に周辺を観察しながら歩き、それまで気にも留めていなかった石が人為的に据えられたものである可能性を教えていただくと、虎口など少し動線がイメージできるようになりました。また土塁の上には、敵に向かって投げるためのつぶて石が複数個所に残されていました。つぶて石を投げ切る前に、戦いが終わったのでしょうか。あちらこちらで戦いの様子がイメージしやすい城跡でした。
 先生曰く、狗尸那城は数か月あるいは数年の時間をかけて整備されたのではないかとの事で、随分念を入れてつくられた戦いのための城のようです。短時間では全貌は把握しきれませんでしたが、当センターでは今後、また改めて調査をしていく計画です。時宜をみて現地案内等のお知らせをしたいと思います。

1.堀を観察する伊藤先生とセンター職員

↑1.堀を観察する伊藤先生とセンター職員

2.曲輪と堀・土塁

↑2.曲輪と堀・土塁

3.土塁上に残されたつぶて石

↑3.土塁上に残されたつぶて石

  

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 久松山地域は戦国時代以降鳥取城が築かれ、鳥取藩32万石の中心地でした。現在でもこの地域は県庁があり、行政の中心地となっています。

 しかし、戦国時代から遡ること約800年前の奈良時代、県庁から4キロほど離れたこの国府町に国史跡因幡国庁(現在の県庁にあたるもの)がありました。今ではひっそりとした田園地帯ですが、因幡三山(甑山(こしきやま)、今木山(いまきやま)、面影山(おもかげやま))に囲まれ、当時の面影を残す万葉の歴史と古代の出土品にあふれた万葉の里となっています。
 この歴史豊かな万葉の里の一角に埋蔵文化財センターはあります。


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