第130回県史だより

目次

  • 記事名: 鳥取陸軍墓地
  • 活動日誌:平成29年1月

鳥取陸軍墓地

 歩兵第四十聯隊(注1)の陸軍墓地は、正雲寺(注2)および無量光寺(注3)ほか数名が所有地を陸軍省に献納して、1897(明治30)年2月に完成した。終戦後は、陸軍省から大蔵省に移管され、1954(昭和29)年11月1日に鳥取県に移管された。現在、同墓地には日露戦役の合葬碑4基、満州事変の個人墓116基、日中戦争およびアジア・太平洋戦争の遺骨等を納めた慰霊塔1基、事変・戦争に関係ない時期に死亡した歩兵第四十聯隊関係者の個人墓13基、倉庫とあずまやが立つ。

 最も古い墓標は1898(明治31)年の個人墓であり、これは前年の「陸軍埋葬規則」(明治30年8月17日陸軍省令第22号)によって建設された。同規則には、遺族が引き取った場合でも墓標を建てるとあるので、実際には埋葬されていなかったかもしれない。その後鳥取陸軍墓地は以下のような歴史を辿った。

日露戦争

 日露戦争中の1904(明治37)年5月30日、陸軍は「戦場掃除及戦死者埋葬規則」(陸達第100号)を出して、各部隊は戦闘終了ごとに傷病兵と戦死者を捜索すること、死者は自軍と敵軍とを問わず丁重に扱い、敵軍の死体は埋葬、自軍将兵の死体は氏名・身分・階級・部隊を調査の上で火葬すること、その遺骨は内地に送還、あるいは戦場に仮葬して遺髪を送還し、陸軍埋葬地(のちの陸軍墓地)に葬ることと定めた。ただし、遺族が引き受けを願う時はこれを許すとある。

 歩兵第四十聯隊は数多くの戦死戦病死者を出し、遺骨遺髪等を内地送還した。第十師団は1906(明治39)年10月12日に階級別の合葬碑を立て、その下に戦没者の遺骨遺髪等を合葬した。合葬碑は、「明治三十七八年陣亡将校遺骨合葬碑」、「明治三十七八年陣亡准士官遺骨合葬碑」、「明治三十七八年陣亡下士遺骨合葬碑」、「明治三十七八年陣亡兵卒遺骨合葬碑」の4基で、規定に従って大きさも階級順である。

日露戦争合葬碑の写真
日露戦争合葬碑

 『鳥取綜合聯隊史』(鳥取綜合聯隊史編纂委員会編、1983年)の「旧陸軍墓地埋葬状況」の表には、日露戦争合葬墓の埋葬者については「合計207名」とある。この数字は、『永久陸軍墓地祭祀名簿 日露戦役満州事変関係』(鳥取県公文書館所蔵141‐11、作成年欠)を参考にしたものと考えられる。すべて歩兵第四十聯隊関係者で、階級別では大尉1名、中尉2名、少尉1名、曹長2名、軍曹4名、伍長18名、上等兵39名、一等卒114名、二等卒26名の計207名である。ただし、末尾に「外ニ中村中尉以下五拾九名入大袋壱個」と追記されている。中村中尉とは、1904年8月下旬から9月上旬にかけての遼陽付近の会戦で戦死した岩美郡出身の中村虎二中尉で、護国神社所蔵の『明治三拾七八年戦役 鳥取聯隊区管内戦病死者名簿』をみると、8月30日に早飯屯で戦死したことが記録されており、同中尉が戦死した8月30日から9月3日にかけて多くの戦死者が出ていることが分かる。戦地において個体別に収拾することが困難な戦死者の遺骨遺髪を大袋に入れて聯隊に持ち帰り、この墓地に合葬したと考えられる。同中尉は207名の名簿に含まれていないので、中尉とともに大袋に入れられた者たちも同名簿に氏名が記載されていない可能性が高い。とすれば、合葬者は266名になる。なお、上記埋葬規則には遺族が引き取ることも可能とされているので、故郷へと戻った遺骨もあったと思われる。

満州事変

 満州事変の時には、歩兵第四十聯隊は1934(昭和9)年5月5日に鳥取に凱旋した。5月7日午前9時から陸軍墓地にて満州事変陣没者に対する凱旋報告祭が執行され、19日に慰霊祭が営まれた。同年7月に、大日本国防婦人会鳥取本部が石灯籠を献納した。これらの石灯籠は、現在は墓地の入り口の左右に1基ずつ、現在の慰霊塔の左右に1基ずつ立つ。

 翌年7月22日から9月17日にかけて墓地改修が実施され、現役将兵の他に多数の在郷軍人会・青年団・国防婦人会などが奉仕した。日露戦役合葬碑の前に満州事変の大きな記念碑が建設され、満州事変の戦死戦病死者の個人墓標は、佐官~准士官と、下士官、兵に分けて区画整理された。そして、9月18日に慰霊祭が執行された。この慰霊祭を報じた『鳥取新報』(昭和10年9月19日付)には満州事変記念碑の写真が掲載されている。

 満州事変の個人墓116基の内訳は、少佐1、尉官4、准士官2、下士官42、兵67である。なお、下士官42名のうち10名については個人墓標がありながら、上記『永久陸軍墓地祭祀名簿 日露戦役満州事変関係』の名簿には書かれていない。ということは、この名簿は満州事変の戦後処理が十分に進んでいない段階で作成されたと思われる。

日中戦争からアジア・太平洋戦争

 日中全面戦争が始まると、遺骨が次々と内地送還されるようになった。陸軍省は1938(昭和13)年5月5日に「陸軍埋葬規則」を改正して「陸軍墓地規則」を定めた(陸軍省令第16号)。これにより、兵役中に死亡した者は陸軍埋葬地に葬るという規則は廃止となり、陸軍墓地には分骨して合葬墓に葬ることになった。改正理由として、我が国の習慣として各家は墳墓を有するのであるから軍人も家墓に葬るべきという。

 日中全面戦争からアジア・太平洋戦争にかけて戦死、戦病死した軍人軍属の人数は、膨大な数に上った。遺骨遺髪等は小さな骨壺に納められ、木箱に入れられ白布に包まれ、聯隊での合同葬儀が終わると遺族に手渡され、陸軍墓地にも分骨された。引き取り手の無い遺骨等はそのまま納められた。

 陸軍墓地に納められる遺骨等は、次々と兵士たちによって墓地に隣接する無量光寺に運ばれた。当時の住職の子女だった女性(現住職の母)の記憶では、本堂の中は住職が座る高座を残してすべて遺骨等の箱に埋め尽くされるという状態だったという。住職の回向が終わると、兵士たちがそれらの箱を運び出して墓地の階段を上って建物に仮置きした。その建物が現在倉庫とされているものである。この女性の話では、当初は遺骨が多かったが、戦争末期に骨壺をのぞいた時には土が入っていてその上に爪らしきものがあるだけだったという。

無量光寺で回向された兵士の遺骨の写真
無量光寺で回向された兵士の遺骨

 ところで、満州事変の大きな記念碑は、1943(昭和18)年の鳥取大震災の時に倒れた。戦後の1953(昭和28)年5月に記念碑の位置に鳥取県が「戦没者慰霊塔」を建てた。この慰霊塔の裏面に文字を削ったような跡があること、両側面の「鳥取縣」「昭和二十八年五月建之」という字も削ってから刻字されていることから、満州事変の記念碑を戦没者慰霊塔に再利用したものと考えられる。慰霊塔の下に納骨所が設けられ、遺骨等が仮置きの建物から移された。

戦歿者慰霊塔の写真
戦歿者慰霊塔

 合葬された日露戦争の戦没者、個別的に埋葬された満州事変の戦没者は歩兵第四十聯隊に所属していた軍人軍属に限られるが、日中戦争からアジア・太平洋戦争にかけての戦没者の最終所属は様々である。鳥取県と関係の深かった歩兵第四十聯隊、歩兵第百四十聯隊、歩兵第百二十一聯隊(中部第四十七部隊)、歩兵第五十三聯隊、歩兵第五十四聯隊、歩兵第六十三聯隊、歩兵第百六十三聯隊の他に、その他の聯隊や、独立混成旅団配下の独立大隊などに所属していた者も多い。本籍地についても、日露戦争や満州事変の時の戦没者本籍地は歩兵第四十聯隊区である鳥取県、兵庫県、岡山県に限られるが、日中戦争およびアジア・太平洋戦争の戦没者本籍地は、鳥取県が最も多く、兵庫県がそれに次ぐものの、岡山県、愛媛県、香川県、島根県、山口県、鹿児島県、長崎県、大分県、宮崎県、福岡県、大阪府、京都府、滋賀県、岐阜県、石川県、新潟県、宮城県、青森県、朝鮮半島、本籍地不明など様々である。

 上記聯隊史の旧陸軍墓地埋葬状況の表には、支那事変1998柱、太平洋戦争578柱、終戦(昭20、9、2)以後2062柱とあり、計4638柱となる。これらの人数は『永久陸軍墓地祭祀名簿』を参考にした数字と考えられるが、戦後に陸軍墓地から遺骨を取り戻した遺族もいたと伝えられる。また、1978(昭和53)年にサイパンで採取された140名分の砂もその数字には入っていない。

陸軍墓地の戦後

 戦後、広い陸軍墓地には草が生い茂り、それを見かねた某傷痍軍人が草取りをしていた。生き残ったという負い目を感じつつ、戦没者への哀悼の気持ちを込めて奉仕していたものと想像される。1954(昭和29)年11月に大蔵省から県に移管されると、県は近辺の家に管理を委託した。盆前の草刈清掃については、1950(昭和25)年から旧軍人有志と大本営会と地元有志が行うようになり、1965年頃から鳥取聯隊会員も参加した。元軍人たちも次第に高齢となったため、永続的に実施するために自衛隊美保基地に相談、1990(平成2)年から自衛隊、1992年からは遺族会も参加するようになった。こうして、鳥取陸軍墓地の盆前の清掃は、旧軍人から自衛隊と遺族会有志に引き継がれて今日に至っている。

 ただ、遺族を対象とした聞き取り調査では、聯隊での合同葬儀・伝達式、故郷の葬儀や墓標が話題になることはあっても、陸軍墓地の話しはほとんど聞くことができない。陸軍墓地への分骨が軍隊内部で行われたため、多くの遺族に分骨の記憶が残っていないことが原因であろう。とくに、陸軍墓地から少し遠い地域では陸軍墓地の存在そのものが記憶されていない。したがって、墓地清掃の参加遺族は限られている。

 陸軍墓地は、死後の世界にまで軍隊内序列によって秩序づけられた場である。それでもなお、遺体遺骨の引き取り手のいない将兵の眠る場でもある。世代交代が進み戦争の記憶が薄れる中で、陸軍墓地は戦争を語る数少ない歴史遺産となっている。

(注1)1896年 大阪に設置。1897年 鳥取に転営。

(注2)鳥取市国府町町屋。

(注3)鳥取市国府町宮下。

(現代部会編さん委員 喜多村理子)

活動日誌:平成29年1月

 

7日
隠岐の牛突き調査(~10日、隠岐の島町、樫村)。
10日
資料借用等(北栄町教育委員会、湯村)。
11日
資料調査(やまびこ館、西村)。
資料調査(写真撮影、鳥取県立博物館、八幡)。
12日
史料調査(鳥取大学附属図書館、八幡)。
17日
史料調査(写真撮影、鳥取県立図書館、八幡)。
原稿協議、文献調査(埋蔵文化財センター、湯村)。
18日
文献調査(解題作成用、鳥取大学図書館、岡村)。
23日
史料調査(鳥取大学附属図書館、八幡)。
25日
写真借用(鳥取市埋蔵文化財センター、湯村)。
30日
資料調査(国文学研究資料館、岡村)。
31日
資料調査(国立公文書館、岡村)。
写真返却(北栄町教育委員会等、湯村)。
  

編集後記

 今回の第130回「県史だより」は、現代部会副部会長の喜多村理子委員にご執筆いただきました。2006年4月28日の第1回「県史だより」から第129回まで編さん室職員が執筆してきましたので、委員に執筆いただくのは初めてのことです。多くの県史事業でその成果を還元するために「県史研究」などの研究雑誌を刊行していますが、新鳥取県史編さん事業では、「県史だより」がその一端を担ってきました。これを機に各部会の委員にもご協力いただき、事業の成果をより身近に還元できるようにしていきたいと思います。

 なお、「陸軍墓地」を項目に含む戦没者の援護のテーマについては、3月末に刊行予定の『新鳥取県史 資料編 近代6 軍事・兵事』に重要資料を収録します。

(樫村)

  

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