第77回県史だより

目次

名前といわれ-歴史・習俗-

はじめに

 民俗学は、多くの人々から聞き取りをして情報(資料)を集めなくてはなりません。よって多くの人と出会います。県史編さん事業における民俗調査でお世話になった方々は協力者として名簿をつくり、礼状を送ったり、どんなお話を伺ったか整理したりしています。その協力者名簿を整理していて、気づいたことを今回のテーマとします。

戦時下に出生した方の名前

 先日、民俗調査でたびたびお世話になっている方から、自分の名前のいわれをお聞きしました。その方は1940(昭和15)年生まれの勝彦さんという方です。満州事変と日中戦争の戦地から帰ってきた父親が、戦争に勝つようにという願いを「勝」、また産土神(うぶすなのかみ)(注1)である少彦名(すくなひこな)(注2)の加護があるようにと「彦」という字に願い込めて「勝彦」という名前をつけたのだと教えていただきました。戦時下は、やはり戦勝を祈願して「勝」を用いた名前をつけたということはたびたび聞きます。

 また名簿を整理していますと、満(みつる)さん、満雄(みつお)さんという名前が目につきました。その方々はおそらく昭和一桁といわれる世代でした。1931(昭和6)年には満州事変が起こり、1932(昭和7)年には事実上日本が支配する満州国が建国されます。現在のところ推測にしかすぎませんが、大陸に夢を叶えようと満蒙開拓移民が本格化している時期に満州の「満」を名につけることが増えたのではないかと思いました(注3)。そう思う理由の一つは、自分の伯父も昭和一桁、1934(昭和9)生まれで「満(みつる)」という名前で、周囲から「満(まん)」さんと呼ばれていました。「満」と名付けた1901(明治34)年生まれの祖父は、若いときに水戸の歩兵第2連隊に所属し、その連隊は1919(大正8)年4月にシベリア出兵で大陸に渡り、広大な土地を目にしました。満州に日本の希望を感じ、息子に「満」と名付けたのではないかと思います。

 また身内の話ですが、私の母は戦時下に生まれ「菊代」といいますが、菊は天皇家の紋であり、代は御代(天皇家の治世)を表していると思われます。

 身近な例を挙げたのみですが、多くのデータを集めれば名前は時代性を表す資料に成り得ると思います。

名前と習俗

 名前からは、かつて一般的であった習俗を知ることもできます。まだ昭和の頃、遠く茨城県北部の出来事ですが次のようなことがありました。

 私の祖父には「ステオ」さんという弟がいました。祖父は私が赤ん坊の時に亡くなりましたが、母の叔父に当たる人ですから祖母と母の会話でたびたび「ステオ」さんという名を耳にし、変わった名前だと思っていました。ある日、残念ながら「ステオ」さんが亡くなりました。ステオさんの墓は祖父と同じ墓地にあり、墓参りに行くと真新しい木碑(注4)が立っていて、亡くなった「ステオ」さんの墓であることがわかりました。その木碑の銘を見て驚きました。「ステオ」さんは「捨男」さんだったのです。ステオさんは温厚な方といわれていたので「捨てる男」とは、まるでいらない子として名付けられたような印象を受けてびっくりしました。

ステオさんの墓がある墓地の写真
ステオさんの墓がある墓地
茨城県北部にある墓地の木碑の写真
茨城県北部にある墓地の木碑(写真左の2本)

 しかし祖母がいうには親が厄年の時、生まれた子どもに「捨男」と名付けると丈夫に育つと言われており、捨男という名前は珍しいわけではないといいました。後日、墓地の墓碑を確認すると捨男という名前をいくつか発見しました。祖母が言うとおり、一般的であったと確認できました。

 かつて日本で一般的であった習俗に「拾い親」というものがあります。厄年、病後など「親」の悪い条件が子に影響を与えることを恐れて、産まれた子を一度捨てて関係を断ち、親戚や近所のよく子どもが育つ家、運のいい人、両親の揃った人、土地の有力者やオヤブンの家などに依頼し、すぐに拾ってもらい、酒や米を贈って子をもらい受けます。そしてその人に拾い親になってもらった時に命名を依頼し、その時「捨」「外」の名を付けることが多かったそうです。さらに拾い親はその後も交際を持続して、拾い上げた子の後見人になってもらうこともありました(注5)

 「捨男」という名前は、一度捨てる行為を名前とし、子の健やかな育成を願う親の思いがこもった名前だったのです(注6)

 こうした習俗はかなり古いものです。有名な話では、豊臣秀吉と淀殿の子である鶴松(つるまつ)が例にあげられます。捨て子は丈夫に育つということで幼名を棄丸(すてまる)としたといいます(注7)

最後に

 誰でも必ずもっている名前ですが、注意深く見ていくと興味深いものだと思います。親たちは子の名前に世の発展の願いを託したり、子の健やかな育成を託したりしてきました。このような小さな歴史・習俗を史料として積み上げて、正史(注8)や古文書には残らない民衆の歴史を描く大きな学問にしようと柳田國男は民俗学を創始しました。今回、素朴な親の願いを込められた名前をテーマに取り上げて、柳田の思いに立ち返る気持ちになりました。

(注1)自分の生まれた土地の神。その人が他所に移住しても、一生を通じ守護してくれる神と信じられています。

(注2)少彦名は、大国主神と国土経営に当たり、のちに常世国(とこよのくに)に去ったといわれます。医業・温泉・酒造の神として今も信仰されています。

(注3)鳥取県の満州移民については、小山富見男『満蒙開拓と鳥取県 ―大陸への遥かなる夢―』(鳥取県、2011年)を参照。

(注4)茨城県北部では、墓地に人を埋葬したときに、まず木碑を立てる習慣が残っています。これは土葬の時代の名残で、地盤が落ち着く七回忌あたりに石の墓を立てることもありましたが、木碑が朽ち果ててもそのまま何も残さないこともありました。水戸藩が質素倹約のため推奨したとも言われています。

(注5)福田アジオほか編『日本民俗大辞典』下巻(吉川弘文館、2000年)448頁。

(注6)鳥取藩の資料「家老日記」(鳥取県立博物館蔵)を確認したところ1823(文政6)年12月には「おすて」という、女性と思われる名前が見られます。鳥取の江戸時代にも男性に「捨」を用いた名前はあったと思いますが、「捨」の字は幼名に用いられ、士族は成人した後は名前を変えるのが一般的でしたので、藩政資料には「捨」を用いた名称はあまり見られないようです。しかし『新鳥取県史資料編 近代1鳥取県史料1』(鳥取県、2010年)640頁の鳥取県官員履歴には「鳥取県士族、藤正健、通称捨男」なる人物も見られます。

(注7)残念ながら棄丸は3歳でこの世を去ります。

(注8) 国家によって編纂された正式の歴史書。

(樫村賢二)

活動日誌:2012(平成24)年8月

1日
資料編編さんに関する協議(倉吉市役所、湯村)。
2日
倉吉千刃調査に関する協議及び資料返却(倉吉博物館・湯梨浜町泊、樫村)。
3日
近・現代部会に関する協議及び資料調査(米子市宗像町・成実公民館、清水)。
4日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、渡邉)。
倉吉千刃調査及び調査に関する協議(倉吉博物館、樫村)。
5 日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、渡邉)。
6日
鳥取市文化財審議会(鳥取市役所第2庁舎、樫村)。
7日
資料調査及び聞き取り調査(神戸市本山第二小学校、神戸市内、清水)。
8日
資料調査(兵庫県立図書館、清水)。
13日
民俗調査(鳥取市青谷町亀尻、樫村)。
15日
中世史料調査(~16日、栗東歴史民俗博物館、三重県伊賀市春日神社、三重県史編さん室、岡村)。
17日
両墓制調査成果物に関する協議(大山町豊成、樫村)。
20日
民俗部会事前協議(米子市西福原、樫村)。
22日
中世文書翻刻文の校訂(~23日、東京大学史料編纂所、岡村)。
23日
資料調査(米子市埋蔵文化財センター、湯村)。
26日
27日
共同民俗調査(~29日、西部海岸部)。
29日
近現代合同資料検討会(~30日、公文書館会議室)。
30日
資料調査協議(南部町・境港市、渡邉)。
31日
資料返却及び資料調査(県立図書館、湯村)。

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編集後記

 ようやく残暑も落ち着いて、朝晩は風が気持ちの良い季節になりました。

 最近、小学校では自分の名前のいわれを調べる授業があるそうです。両親が我が子の名前に託した思いを学ぶということのようです。私の名前は、少しは賢くなれという意味で「賢」、次男坊なので「二」で、「賢二」としたそうです。三人きょうだいの末っ子らしく簡単に命名されたような気もしますが、名前負けしそうな立派な名前じゃなくてよかったような気もします。

(樫村)

  

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