第72回県史だより

目次

「御真影」の疎開

「御真影」の下賜と奉安殿の建設

 「御真影(ごしんえい)」(注1)とは、敗戦まで官庁や学校に下賜(かし)された天皇・皇后両陛下の写真をいいます。御真影の下賜は、1882(明治15)年頃から始まり、1889(明治22)年に範囲が高等小学校に拡大(注2)、1892(明治25)年には、各小学校にもされました(注3)

 御真影は、基本的に各学校が願い出、許可という形で、複写が下賜されました(注4)。本県の場合、御真影の複写は、県の内務部第三課が取扱い、複写品の費用は各校の負担でした(注5)。御真影は、国家的行事の神体として、国民の礼拝の対象となります。現在でもご記憶の方もおられると思いますが、学校では、職員はもとより児童、生徒たちは登下校の際、必ず奉安(ほうあん)殿に最敬礼するのが義務でした。このため、御真影と教育勅語(注6)の格納には、特別な配慮がされます。当初は、校舎内に御真影と教育勅語を納めた神櫃(しんひつ)を置く別殿を建設したり、鳥取市内の小学校は、市役所内の奉安所に安置したようです(注7)

奉安殿の建設

 御真影下賜の許可が下りると、同時に別紙で「御真影守護心得」が渡されました。心得には、神櫃に納め、宿直員を配し、火災から守護する責任を負うことが明記してあります(注8)

 本県でも1924(大正13)年12月に邑美(おうみ)農学校が、1926(大正15)年8月には法勝寺(ほっしょうじ)尋常高等小学校が火災で御真影を焼失する事故がおこりました。邑美農学校の場合は、白上知事、島田学務課長、山本邑美農学校長が進退伺いを提出するなど大問題となりました。御真影を失うことは当時、大変な問題となったのです(注9)

 このような焼失事故が生じたため、1926(大正15)年の県会で質問を受けた鳥取県知事は、「学校に御真影奉安庫を設けるようにさせたいという方針を明らかに」します(注10)

 1928(昭和3)年6月、県は各学校に御真影の拝戴(はいたい)願の提出を求め、これに合わせる形で県下の各学校は、御真影と教育勅語を丁重に奉置する場所として、校舎の外に、奉安殿(または奉安庫)の建設が進められていきます(注11)

 このように学校に奉安殿の建設が進む中、県庁の敷地内にも奉安殿が設けられました。1943(昭和18)年当時、県庁正面玄関から入って左奥の位置にありました。ただ、いつ建設されたのか、また、設計図面や写真が残っていないため、どのような形態だったのか確認できません。

戦局の悪化と御真影の疎開

 1941(昭和16)年12月から始まった太平洋戦争も1945(昭和20)年に入ると、日本の主要都市は米軍の激しい空襲にさらされます。こうした中、御真影の疎開も行われます。県庁の御真影は、1945(昭和20)年7月6日、智頭農林学校(現鳥取県立智頭農林高等学校)に疎開する計画が浮上します。公文書館に所蔵される記録には、

 御真影奉遷奉護ニ関スル件伺
戦局愈々(いよいよ)熾烈トナリ、敵ノ本土侵攻ノ企図、亦(また)明白トナリ、最近中小都市、無差別爆撃ハ、頻繁ノ度ヲ加ヘツゝアル現状ニ鑑(かんが)ミ、御真影ノ御安泰ヲ期スル為メ、安全地帯ト思ハルゝ地方ヘ奉遷シ、奉護ニ遺憾ナキヲ期スルハ、現情勢下、喫緊(きっきん)ノ急務ト存ゼラレ候(そうろう)条左記ケ所(かしょ)ヲ適当ト認メ、奉遷相成可然哉(あいなりしかるべきや)
追而(おって)御決裁ノ上ハ、直ニ実施相成可然哉併而(あわせて)伺上候
(以下略)

とあります(注12)

御真影の疎開に関する記録を綴った史料の写真

御真影の疎開に関する記録を綴った『御影其他ニ関スル事項調』(鳥取県立公文書館蔵)

 後略した個所には、御真影の奉遷先と「奉遷目録」、「奉遷先調書」が記されています。疎開は御真影だけでなく、奉安殿に納められていた教育勅語なども対象となっていました。この調書には、

一、 構造 昭和十八年十月二十四日竣工ニカゝル木造総檜(ひのき)製神殿造。内陣ハ金庫式ニシテ県庁奉安庫内ノ金庫ト同型、同積ノモノ也
一、 周囲ノ状況 奉安殿ハ本校舎ノ南ニ位シ、校舎トノ距離二十米ニシテ東西南ノ三方ハ同校ノ圃場(ほじょう)ニシテ東方十米ノ地点ニハ水路アリ。之ヲ隔テゝ国道ニ接ス。付近五十米以内ニ人家ナシ

とあり、県が7月に入り、疎開先を調査した様子がわかります。疎開先としての条件にかなったと見え、御真影は、計画通り智頭農林学校に疎開することとなりました。疎開は7月9日に行われ、智頭農林学校長から、同日午後5時に「御安着」、午後6時に「無事奉遷終了」したことが報告されています。

鳥取県知事から智頭農林学校長宛の御真影疎開依頼文の写真

昭和20年7月9日付、鳥取県知事から智頭農林学校長宛の御真影疎開依頼文(『御影其他ニ関スル事項調』(鳥取県立公文書館蔵))

智頭農林学校の奉安殿の写真

智頭農林学校の奉安殿。県庁の御真影はここに移された。(『創立五十周年記念誌』(鳥取県立智頭農林高等学校、平成2年))60頁より転載

 一方、各学校が保管していた御真影の疎開も市街地を中心に行われました。鳥取市では1945(昭和20)年6月28日に、久松国民学校から八頭郡済美国民学校(現船岡小学校)へ、富桑国民学校から八頭郡富沢国民学校(現智頭小学校)へ、面影国民学校から岩美郡大茅国民学校へそれぞれ疎開しました。(注13)

 また、米子市では、1945(昭和20)年6月30日に、米子市、角盤校、明道校、義方校の御真影をまとめて、岡山県境に近い福栄国民学校(現日南小学校)に疎開させました(注14)。このように、県内の市街地の学校の御真影は山間部の学校へ疎開しました。

敗戦と御真影の回収

 御真影の疎開からほどなく敗戦となります。疎開した御真影はどうなったのでしょうか。米子市の明道国民学校の御真影は10月31日、福栄国民学校から返還されました。鳥取市内の各国民学校もほぼ同時期に疎開先から返還が行われました。

 一方、智頭農林学校に疎開した県庁の御真影は、1946(昭和21)年1月25日に返還されました。ところで、占領軍が展開していたこの時期、御真影の回収が始まっていました。1945(昭和20)年12月20日、文部次官名で各地方長官宛てに御真影回収の指示が出されます。県は、これを受けて、同年12月27日、公私立中等学校、青年学校、国民学校が所蔵していた御真影の各地方事務所経由での回収を命じました(注15)。回収された御真影は、本県の場合、記録が残っていないためはっきりしませんが、他府県同様焼却処理と考えられます(注16)

おわりに

 奉安殿の撤去は、1946(昭和21)年になると本格化します。ところで、県の奉安殿はいつ撤去されたのか記録がないため、はっきりしません。一方、県庁御真影の疎開先となった智頭農林学校の奉安殿は、解体され護国神社に移築(注17)、さらに山手神社(鳥取市河原町)に移築されています(注18)

 かつて県内に隈無く存在した奉安殿は現在、ほとんどその姿を窺い知ることができません。ただ、奉安殿の撤去については付帯条件が付いていたため、現在でも幾つか残っています。次回はそれらについて御紹介したいと思います。

(注1)「ご尊影(そんえい)」、「御影(ぎょえい)」、「お写真」とも呼ばれた。

(注2)田村達也「御真影下賜と義勇奉公の道」『鳥取県立公文書館報』第11号(鳥取県立公文書館、平2002)7~8頁、『鳥取県史 近代 第4巻 社会篇』(鳥取県、1969年)278頁。

(注3)『鳥取市教育百年史』(鳥取市教育委員会、1974年)121頁。

(注4)田村前掲論文8頁。

(注5)田村前掲論文8頁。

(注6)正確には「教育ニ関スル勅語」といい、1890(明治23)年10月30日に発布。学校教育の基本とされ、各学校に配布されました。

(注7)『鳥取市教育百年史』120~122頁。

(注8)田村前掲書8~9 頁。

(注9)鳥取市教育委員会前掲書408~409 頁。

(注10)『鳥取県史 近代 第四巻 社会篇/・文化篇』(鳥取県、1969年)121頁。原文は、『鳥取県史 近代 第五巻 資料篇』(鳥取県、1967年)712頁に掲載される。

(注11)鳥取市内の小学校、中等学校の奉安殿の建設の時期については、『鳥取市教育百年史』409~410頁に詳しい。また、『鳥取県史 近代 第四巻 社会篇/・文化篇』(鳥取県、1969年)122頁には、「・・・米子高等女学校でも、千三百円をかけて昭和四年三月に奉安殿を完成し、それを御大典記念事業とした。」とある。

(注12)『昭和十年十一月改 御影其他ニ関スル事項調 知事官房秘書係』(鳥取県立公文書館蔵)。

(注13)『鳥取市教育百年史』457頁及び面影国民学校に関する記事については、『同書』746~747頁。

(注14)『昭和二十年度 学校経営記録 明道国民学校長』(鳥取県立公文書館蔵)。

(注15)県の内政部長が各地方事務所長及び中等学校長宛に出した「御真影奉還ニ関スル件」によれば、日野郡内が12月30日までに日野地方事務所に提出するとしてあるのを例外とし、それ以外は、12月29日までに各地方事務所に提出するよう指示されている。

(注16)岩本努『「御真影」に殉じた教師たち』(大月書店、1989年)277~279頁。ただし、山形県では、4点の御真影が残されているという(青木章二「御真影勅語謄本「奉安」の実相―山形県の事例―」(『山形県立博物館研究報告』第25号、2006年))。

(注17)『創立五十周年記念誌』(鳥取県立智頭農林高等学校、1990年)67頁。

(注18)鳥取市歴史博物館の横山展宏学芸員の御教授による。

(清水太郎)

県史編さん室のスタッフ紹介

 2012(平成24)年4月1日、県史編さん室開設当初から室長兼近世担当だった坂本敬司室長が退職し、近代担当であった大川篤志主事が統計課に異動しました。

 県史編さん室の新たな体制は、以下になります。

室長 岡村 吉彦(おかむら よしひこ)

担当:古代中世

 この4月より、坂本敬司前室長の後任として、県史編さん室長を拝命いたしました。

 残された資料を大切にしつつ、歴史のすばらしさ、おもしろさを県民の方々へ伝えていきたいと思います。微力ではありますが、精一杯頑張りますので、どうぞよろしくお願いいたします。

専門員 渡邉 仁美(わたなべ まさみ)

担当:近世

 県立図書館から異動となり、新鳥取県史の近世編を担当することになりました。

 近世の因幡・伯耆の多様な姿を御紹介できるようにがんばります。よろしくお願いいたします。

主事 岡 梓(おか あずさ)

担当:近代

 この春、福祉保健課予算・庶務担当から県史編さん室に異動になりました。

 これまでと全く違う仕事で、初日からさっそく驚くことがたくさんありました。鳥取県の近代について皆様に興味をもっていただけるよう、がんばりたいと思います。

活動日誌:2012(平成24)年3月

3日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、坂本)。
4日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、坂本)。
8日
12日
民俗調査に関する協議(米子市、樫村)。
14日
史料調査(~16日、山口県公文書館・下関市、岡村)。
第2回新鳥取県史編さん専門部会(民俗)・民俗調査中間報告会(公文書館会議室)。
18日
21日
出前講座(岩美町立岩美中学校、清水)。
31日

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編集後記

 『新鳥取県史 資料編』の近世1、近代2・3 の3冊を同時に刊行し、2012(平成24)年4月23日から頒布を開始しました。すでに刊行済みの近代1と合わせて4冊並べると県史事業も進展してきていると実感がわきます。

 新スタッフ紹介でも述べたとおり、県史編さん室には大きな変化がありました。新鳥取県史編さん事業の立ち上げを行い、県史編さん室開設当初から室長として6年間陣頭指揮をとってきた坂本敬司さんが退職され、室開設から近代を担当し、6年間で資料編3冊、ブックレット1冊を刊行させた大川主事が異動しました。寂しくもありますが、新たな場でのご活躍、今後は違う立場から県史編さん事業を応援いただければと存じます。

 岡村室長を先頭に新たな体制で事業を推し進めていきますので、県史編さん室を今後ともよろしくお願いします。

(樫村)

  

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