第11回県史だより

目次

「理想」の村を求めて~鳥取県の満蒙開拓団の一例~

 「私の家族は昭和16年に出征兵士と同様に村の人に送られて満州に出発したんですけど、還るときは裸一貫でした。なぜそういうところに家族ぐるみで連れていかれたのか答えを探しています。」東伯郡上小鴨村の農家の長男として11才で徳勝(とくしょう)鳥取開拓村(吉林省盤石県)に入植した男性は、聞き取りの冒頭でそのように話されました。

 満蒙開拓団は、満州国の治安維持と対ソ防衛を目的として創出された農業移民で、のちに国内農村の過剰人口解消と土地の適正配分による経営安定を目指す分村運動と結びつき、国策として展開されました。全国から多くの人々が入植し、終戦時には満蒙開拓団、満蒙開拓義勇軍と併せて約22万5千人の人々がいたと推定されます。(『満州開拓史』)

 うち鳥取県からの開拓団は、昭和10(1935)年入植の第3次瑞穂開拓団から昭和17(1942)年入植の第11次七虎林開拓団まで計9回に及び、終戦直前には1,020名が開拓村に在籍していました。(『開拓団実態調査書』)


徳勝鳥取開拓村の位置図

分村移民の論理

 「東伯郡の戸数を7千戸に減少し、一戸当りの耕地を現状の2倍程度に高める」。昭和13(1938)年東伯郡経済更正委員会連合会の要請に基づき郡内9村の調査をした中央農林協議会は、農家戸数1万5千戸の東伯郡の分村計画の目標をこう提言しました。郡内の半数を移住させるという、今からみれば奇想天外な話ですが、(1)農業収入だけで生活が可能、(2)主要食料粗飼料の自給が可能、(3)地力の維持が可能、(4)家族労力のみで経営が可能の条件すべてをクリアするのが「ほんとうに農家らしい農家」であるとされ、このモデルを基準に送出戸数が割り出さました。同時に「満州に於いても理想の農村が生れ、それが民族協和の中核となる」ことが期待されていました。(「鳥取県東伯郡分郷計画基礎調査報告」)

徳勝鳥取開拓団

 第10次徳勝鳥取開拓団は、本県出身者だけで構成された最初の団です。昭和16(1941)年に東伯郡を中心に八頭郡・西伯郡・日野郡の農家が家族ぐるみで入植しました。村内には国民学校や診療所、神社が建てられ、昭和19(1944)年には一戸あたり平均畑地12町歩、田地7反、馬・牛・豚・緬羊などの家畜を保有するなど、「理想」の村として完成されつつありました。(「殉難者慰霊碑建立にあたりて」)

 しかし、入植地は先住の中国・朝鮮人農民から安く強制収用した既耕地で、家屋も現地住民が住んでいたものに入居。冒頭の男性も「現地に着くと家屋はすべて空けてあり、農地も開墾済みで開拓という感じはしませんでした。子ども心におかしいなぁという気持ちでした」と語っています。理想の村は侵略と収奪のうえに成り立っていたのです。

開拓団の破綻と引き揚げの実態

 昭和20(1945)年8月9日のソ連侵攻以後、開拓団の避難が始まります。徳勝鳥取開拓団にも8月15日に敗戦の報がもたらされますが、一部の人々は「模範部落にまでになったこの村を手放したくない」との理由で出発を1日延期したため、暴徒の襲撃に遭いました。

 以後、翌21年6月に帰還するまで栄養失調や疾病、寒さなどさまざまな要因で多くの人が命を落としました。終戦後2ヶ月以内に10才以下の子どもと70才以上のほとんどが死亡し、最終的に故郷の地を踏めたのは、終戦時338名の団員のうち230名でした。

昭和18(1943)年10月副団長の葬儀に集った徳勝鳥取開拓村の人々の写真(徳勝国民学校の前で)
昭和18年10月、副団長の葬儀に集った徳勝鳥取開拓村の人々
(徳勝国民学校の前で)

 当時の人々が思い描いた理想の村の姿とはいったいなんだったのか。そうした視点をもちながら引き続き調査を行っていきたいと思います。

(参考文献)『満州開拓史』(満州開拓史刊行会,1966)、中央農林協議会「鳥取県東伯郡分郷計画基礎調査報告」(『満州移民関係資料集成 第7巻』不二出版,1990,所収)、「元徳勝鳥取開拓団団員名簿」、「殉難者慰霊碑建立にあたりて」(いずれも徳勝会作成資料)。

(西村芳将)

室長コラム(その10):遊女に売られた鳥取の女性

 昨年は、県立博物館で江戸時代の女性をテーマとした特別展が開催され、また、鳥取近世女性史研究会によって鳥取藩士田中家の史料を分析した『ある勤番侍と妻の書状』が刊行されるなど、女性史の分野で研究が蓄積されつつある。しかし、女性史のなかで、その実像がよくわからないものに「遊女」がある。私自身、今までに遊女の具体的な姿がわかるような史料に出会ったことがなかった。ところが、最近、鳥取藩領内の女性が遊女として売られたという史料を見つけたので、今回はそれを紹介してみよう。


 江戸時代も終り近く、ちょうどペリーが浦賀に来航する直前の嘉永6(1853)正月のことである。

 鳥取城下の近郊・湯所村の甚助の娘八重は、鳥取藩家老池田式部の家来の石尾という侍と関係していた。ところが、この石尾には多額の借金があり、その返済のため、八重は身売りすることとなり、石尾の同僚村田豊蔵という侍に連れられ、米子に向かった。二人はその道中、岩井郡浦富村の無宿助七と道連れになり、村田は、侍の身分では交渉に支障があるだろうと、助七に身売りの世話をしてくれるよう頼んだ。

 助七は、同宿していた松江の源左衛門に相談して身売りを引き受け、村田に少しばかりの金を渡して鳥取に帰らせ、源左衛門と助七は八重を連れて雲州杵築(出雲大社)に赴き、八重を助七の妹と称して、同所の千賀屋嘉左衛門という者を仮親に頼み、明石屋小太郎に遊女として売り渡した。その契約金は、3年間で7両、その内、1両3歩(1歩は1/4両)をその時受け取り、残りは3月と8月に受け取ることを約束した。別に助七らは、雑用金として金2歩と若干の銀札を明石屋から借用した。

 鳥取に帰った助七は、村田にそのことを報告、村田は3月分を受け取りに行ってくれるよう助七に依頼して、金2朱(1朱は1/4歩)を渡した。助七は再び杵築に出向き、八重と相談したところ、八重もお金が必要だと、残金の5両1歩全てを繰り上げて受け取ることとし、内1両3歩は八重に渡し、前に借りていたお金を返済した残り2両を持って鳥取に帰り、村田のもとで石尾に渡した。石尾は助七に謝礼として金1歩を差し出したが、助七は差し帰した。

 その後、助七は鳥取藩によって捕らえられ、以上のような供述をしたため、村田の主人である池田式部へ、事実を取り調べ、報告するよう指示がなされた。

 以上は、鳥取藩の「家老日記(控帳)」の嘉永7年8月14日の記事である。


 ここから浮かび上がる遊女の姿だが、まず、当然のことながら当時も人身売買は違法であり、このような形での身売りを藩としては取締っていたことは押さえておきたい。ただ、八重の場合、好きな男の借金返済のため、売られる事を承知で村田や助七に同行しており、お金の一部は自身も貰っている。けして男の言いなりになっていたわけではなさそうだ。

 身売りの金額の7両は、現在の貨幣価値に換算すれば210万円程度(1両≒30万円)となる。3年で210万円は安いように感じられるが、当時の奉公人の給料から考えれば、かなりの金額といえよう。

 また、わざわざ杵築まで出かけて行ったのは、江戸時代の鳥取藩領では、遊郭が公認されていなかったためだろう。

 驚くのは、見ず知らずの下級武士と無宿者が、旅の途中で出会い、身売り話がどんどん進んでいくことだ。このような「裏」のネットワークが当時存在していたのだろう。

 さて、この事件のその後はどうなったか。翌日の「家老日記」には、「村田豊蔵という者は、実は村田豊三郎という者で、石尾勇共々、昨日出奔した」と、池田式部からの報告が記されている。残念ながら、それ以上のことは、今のところわからない。

(県史編さん室長 坂本敬司)

活動日誌:2007(平成19)年2月

1日
2日
第3回県史編さん専門部会(近代)開催。
第2回県史編さん委員会開催。
15日
民俗部会坂田部会長と打合せ(米子市、坂本・樫村)。
満蒙開拓団について聴き取り(中部総合事務所、西村)。
19日
史料調査(米子市、西村)。
26日
史料調査(智頭町、西村・大川)。

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編集後記

 満蒙開拓に関する今回の記事は、現代部会が進める聞き取り調査による成果の一部です。こうした体験談は、歴史の大きな流れのなかに見ればごく小さな一点だとはいえ、それがまさに激流であったことを伝えるに十分な生の記録です。

 先の大戦の体験談については手記も募集中ですので、皆様のご応募をお待ちしています。締切は今月末です。

(大川)

  

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