令和3年11月6日(土)、7日(日)に、鳥取県立むきばんだ史跡公園で「トリドリむきばんだ」が開催され、当センターも6日に「かんざしづくり」を行いました。天気にも恵まれ、会場には多くの家族連れが来場しており、それぞれ目当ての体験を楽しまれていました。当センターの「かんざしづくり」は、事前予約された方は少なかったのですが、当日参加の方が多く、4回の開催で合計19人の方にかんざしを作っていただきました。
今回は、あらかじめ大まかな形を作った鹿の角をヤスリで削り、オリジナルのかんざしを作りました。髪に挿す先端を尖らせるとともに、髪の外に出る飾り部分をお好みに形作るのですが、鹿の角は意外と硬いのでヤスリでもなかなか削れず、小さなお子さんではなかなか大変だったようです。それでも50分程の体験の中で、素材の形から「日本刀」形に作った方や、たまたま残っていた角の外面の文様を上手に活かしたかんざしを作った方もいて、それぞれオリジナルのかんざし作りを楽しんでおられました。
昨今、新型コロナウイルス感染症のため、埋文センターでもこうした体験はなかなか難しくなっているのですが、対策をしっかり行い多くの方に古代体験を楽しんでいただけるように工夫していきたいと思います。
体験ブース
鹿の角を削ってかんざしづくり
因幡国府の中心「史跡 因幡国庁跡」の東に隣接する大権寺(おおごんじ)遺跡から出土した軒丸(のきまる)瓦4種類の内3種類を展示しています。軒丸瓦は屋根の縁を飾る瓦で、その文様は、日本の古代瓦では蓮(はす)の花をモチーフにした蓮華文(れんげもん)が主流です。瓦の中心にある丸いところは中房(ちゅうぼう)と呼ばれ、蓮の花の「花托」(かたく)を、中心から放射状に伸びる文様は、連弁(れんべん)と呼ばれ、花びらを表現しています。中房に見られる丸い文様は、花托の中にあるめしべを表現しています。
さて、大権寺遺跡は1953(昭和28)年に墓地造成に伴って礎石や古代の瓦が出土したことから、「大権寺廃寺」と呼ばれていました。この場所を含む大権寺遺跡は、国府地区県営ほ場整備事業に伴い1972(昭和47)年、1973(昭和48)年、1976(昭和51)年の3カ年にわたって発掘調査が行われました。発掘調査の結果、大権寺廃寺と呼ばれた場所では、庭園がある鎌倉時代から室町時代の屋敷跡が確認されたものの、寺院跡は確認できませんでした。しかし、屋敷跡の造成土から多くの古代の瓦(7世紀後半から8世紀後半まで)が出土しています。出土した瓦は屋根の縁(ふち)を飾る軒丸瓦・軒平瓦、平たい部分に葺かれる丸瓦・平瓦、棟に葺く熨斗(のし)瓦、四隅に出る木材を飾る隅木蓋(すみきふた)瓦などが出土しています。また、発掘調査以前に大棟(おおむね:屋根の一番上の部分)の端に置かれる鴟尾(しび)も地元の人によって採集されています。このように多種の瓦が出土していることから、これらの瓦は寺院建物の屋根に使用されたものと考えることができます。
大権寺遺跡は、ほ場整備に伴う発掘調査では寺院の跡が見つかっていませんが、今後改めて発掘調査を行うことにより、屋敷跡の造成土の下層や周辺で古代寺院跡が見つかる可能性がある遺跡です。
写真1 蓮の花(c鳥取県)
写真2 大権寺遺跡出土の軒丸瓦(半分程度が失われています。)
写真3 瓦の名称(奈良文化財研究所『古代の官衙遺跡 2.遺物・遺構編』2004年 8頁から転載)
[令和3年11月掲載]
明治大学の創始者の一人、岸本辰雄氏が鳥取県出身であることから、本県では毎年度、明治大学と連携した講座を開催しています。今年度は、「鳥取いにしえの木の文化」と題し、明治大学の石川日出志教授と当センター職員で講演、討議を行います。
「地下の弥生博物館」と言われる青谷上寺地遺跡はもとより、近年の鳥取西道路の発掘調査で、縄文時代から中世まで幅広い時期にわたる大量かつ多種多様な木製品が出土し、鳥取県が太古の昔から豊かな森林資源と卓越した匠の技を有する全国有数の県であることが分かってきました。現在、これらの木製品を再整理しており、講座では、最新の情報をお知らせします。
開催は令和3年11月29日(月)19時から20時40分です。Zoomによるオンライン配信となります(受講料は無料)。事前申込制(先着480名)となっておりますので、お早めにお申し込み下さい。
申し込み先は、明治大学リバティアカデミーホームページまで。
鳥取県が誇る木の文化について、ぜひご聴講ください。
こちらをクリックするとチラシが開きます
→鳥取県・明治大学連携講座 (pdf:2385KB)
[令和3年11月掲載]
令和3年10月22日(金)から当センター展示室で、因幡国府遺跡(鳥取市国府町)をテーマにした企画展「因幡の国府とその周辺」を開催しています。
「国府」とは奈良・平安時代に、律令国家が地方を治めるために各国に置いた役所のことです。ここ鳥取県には因幡国と伯耆国の2国があり、それぞれの国に国府が置かれました。
今回の展示は、因幡国府遺跡について、主に昭和47(1972)年から昭和54(1979)年までの間に行われた発掘調査の成果を基に展示しています。
会期は令和3年12月24日(金)までです。
なお、11月20日(土)午後1時30分から因幡国府遺跡の発掘調査にも参加された久保穰二朗氏による講演会「第4回鳥取まいぶん講座 因幡の国府とその周辺」が開催されます。こちらの申込みも受け付けていますので、お早めにどうぞ。
展示室入口
展示室全景
因幡国府遺跡内の大権寺遺跡で出土した古代の瓦
「因伯の山城50選(暫定版)春」写真展を、鳥取県立むきばんだ史跡公園のガイダンス棟「弥生の館むきばんだ」のシアタールーム(正面玄関入って右手側)で始めました。会場には応募のあった山城写真の中から「埋蔵文化財センター賞」の9作品を展示しています。撮影された山城には、米子城跡や江美城跡などがあり、城跡に残る石垣や曲輪(くるわ:兵が駐屯する人工的に削りだした平坦面)からひろがる眺望など、山城のおもしろさ、すばらしさを伝える作品です。
展示期間は令和3年11月末頃までとなっていますので、行楽の秋、むきばんだ史跡公園の散策がてらぜひご覧ください。
[令和3年10月20日掲載]
「鳥取に旧石器時代の遺跡はあるの?」「縄文時代の遺跡の場所は?」「古代の役所跡は?」
学校での学習や趣味で遺跡を調べている時などにこのような疑問をもたれたことはないでしょうか?
こんな時に活躍するのが「鳥取県遺跡MAP」です。昨年度までは、当埋蔵文化財センター展示室でしかご覧いただけませんでしたが、この度、満を持してWeb公開いたしました。
この「鳥取県遺跡MAP」は合併前の旧市町村単位で主な遺跡を掲載しているほか、「縄文時代、ここは海だったのか。」ということも分かるなど各時代の地形変化もご覧いただけます。また、掲載遺跡、掲載資料も随時追加していく予定です。
是非、この遺跡MAPでお住いの近くを探してみてください。身近に遺跡があることに驚かれると思います。
なお、「鳥取県遺跡MAP」は当埋蔵文化財センターのトップページのサイドメニュー「目的から探す」の「鳥取県遺跡MAP」からご利用いただけます。
「鳥取県遺跡MAP」で遺跡探索をお楽しみください!!
○「鳥取県遺跡MAP」の開き方
[令和3年10月15日時点]
令和2年秋に国立歴史民俗博物館で開催された企画展「性差の日本史」の内容を分かりやすく解説した、新書版「性差の日本史」が集英社から発売されました(定価840円+税)。この企画展は、当センターでも何度かお知らせしたように、大変話題となった展覧会で、企画展終了後に急遽新書版が刊行される運びとなったものです。本県出土資料が数多く展示されたこともあり、当センターでも今年の夏(令和3年7月10日(土))に「とっとり考古学フォーラム2021 古代の女性史」を開催し、好評を博しました(7月12日Facebook記事)。
古代から現代までのジェンダーの歴史が分かりやすくコンパクトにまとめられた本で、本県出土資料についても数多く記載されています。是非ご覧ください。
[令和3年10月掲載]
令和3年10月15日まで当センターで開催している企画展「いにしえの田園風景(秋)」で展示している遺物を紹介します。
今回は、鳥取市鹿野町の乙亥正屋敷廻(おつがせやしきまわり)遺跡から出土した、古墳時代前期(約1700年前)の臼(うす)を取り上げます(写真1)。保存処理が完了してから今回が初のお披露目です。
臼は穀物を脱穀したり、籾殻(もみがら)をはがしたりするための道具です。石包丁などを使って摘み取られた稲穂を臼の中に入れて杵(きね)でつくことで、茎から籾が外れ、さらに籾殻がはがれて玄米になります。
乙亥正屋敷廻遺跡から出土した臼はトチノキ製で、出土時は縦に割れて半分以上が失われていましたが(写真2)、高さ49.8cm、復元した径は約90cmもあります。遺跡から出土する臼の大きさには大型と小型のグループがあり、そのうち大型臼は高さ40~60cm、径30~60cm程度とされていますが、乙亥正屋敷廻遺跡の臼はこれを上回る大きさであり、超大型と言えるでしょう。この臼はその大きさもさることながら、意図的に割って廃棄したものとみられることから、集落のマツリなどの特別な場で使われていた可能性が考えられます。
写真1 乙亥正屋敷廻遺跡から出土した臼(右側が脚部分)
写真2 臼の上部側から見たところ
令和3年9月8日(水)から当センター展示室で、米作りをテーマにした企画展「いにしえの田園風景(秋)」を開催しています。
今回の「秋」編では、お米の収穫から調理までに関する資料を展示しています。鳥取市鹿野町所在の乙亥正屋敷廻(おつがせやしきまわり)遺跡から出土した古墳時代前期(約1700年前)の臼(うす)は、今回の展示が初お披露目です。
この展示をご覧いただいて、昔の人々の米作りにかけた苦労を思い浮かべながら、今年の新米を味わってみてはいかがでしょうか。会期は令和3年10月15日(金)までです。
また、令和3年9月18日(土)午後1時30分から、この企画展に関連した「鳥取まいぶん講座」を当センターで開催する予定です。ただいま受講の申し込みを受け付け中です。
展示室入口
乙亥正屋敷廻遺跡出土の臼
調理用具あれこれ
令和3年7月10日(土)に開催した「とっとり考古学フォーラム2021 古代の女性史」では、時間の都合上、その場での質疑応答は行えませんでしたが、参加者に質問を書いていただき、後日HP上で回答を行うこととしておりました。最後は、鳥取出身の伊福部徳足比売臣(いおきべとこたりひめ)を中心に古代の女官について講演いただいた伊集院先生への質問に対する回答をご紹介します。
なお、大変多くの方から御質問がありましたが、全てにお答えすることは出来ませんので、ご了承ください。
(質問1)
徳足比売の銘文に「采女(うねめ)」の字句がないのは、銘文を刻んだ目的が彼女の極位を示すこと、一族がそれを顕彰することにあったためとは考えられないでしょうか?文武天皇に仕える以前(父の名、いつ出仕したのか等)が刻まれていないのは、一族としては自明のことであったためと思われるのですが。
(回答)
銘文に「因幡国法美郡伊福吉部徳足比売臣、藤原大宮に御宇大行天皇の御世、慶雲四年歳次丁未春二月二十五日、従七位下を賜わられ仕奉る」(原文漢文)と書いているのがポイントですね。彼女の極位を示すことが大事だったのは、もちろんです。同時に、古代の様々な史料をみると、その人がどの天皇(古くは大王です)に仕えたかということが重視されています。地方豪族と朝廷が、人を介して直接結びつくことが大事な時代だったからでしょう。徳足の銘文にも、藤原大宮で天下を治めた大行天皇、つまり文武天皇に仕えたことが「仕奉」という言葉で書かれています。古代の感覚からみると、ここが、最も記録したいことだったはずです。銘文は、「末代の君等」に墳墓の破壊を戒めました。この表現は、血縁の範囲にとどまらず、法美郡の将来のリーダーたちへの訓示と読めると思います。中央に出仕した徳足を、朝廷とこの地方をつなぐ役割を果たした女性として法美郡の人々が顕彰した、徳足を誇らしく感じた人々のなかに、父方母方、双方の血縁の人々も入っていたと私は考えています。
(質問2)
自薦での出仕ルートについてですが、自薦の場合、全て採用されるのでしょうか。誰でも天皇の側で仕えることが可能だったのか、基準があったと考えるのか、どちらでしょうか?
(回答)
古代では、采女に選ばれなかった地方豪族女性が、自ら望んで宮仕えするルートが開かれていました。彼女たちの多くは、出仕後はまず後宮十二司などに配属されて「女孺(にょじゅ)」と呼ばれる実務担当女官になります。彼女たちのような自薦の場合、すべて採用されるのかという質問ですが、難しい問いですね。彼女たちは、郡司や旧国造など、采女を出せる豪族と同じクラスの地方豪族の一員です。奈良時代の地方出身の女孺たちのなかには、令制前から朝廷の直轄地の管理を担った豪族や、貴重な特産品の産地の豪族の一員がいます。奈良時代後期には、東大寺の荘園があった地域の豪族女性の出仕もあります。このような例から、中央との結びつきが出仕に有利に働いたのではないかと私は推測しています。採用にあたっては何らかの施行細則があったと思いますが、なにしろ史料不足で、いまのところ断定はできません。今後、史料の精査によって明らかになるかもしれませんので、研究状況を見守っていただければありがたいと思います。
青谷横木遺跡出土人形(女性)
青谷横木遺跡出土人形(男性)
[令和3年8月掲載]