第6回県史だより

目次

鳥取県史編さん事業のルーツ?

 平成18(2006)年4月にスタートした「新鳥取県史編さん事業」。「新」と付くからには「旧」があったはずです。昭和37(1962)年から19年をかけた『鳥取県史』全18巻の編さん事業がそれで、この18巻を「旧県史」と呼ぶのが、われわれ県史編さん室の習慣ともなっています。しかし、さらに時代を遡ること約90年、廃藩置県により設置されたばかりの鳥取県が行った編さん事業がありました。

 明治維新から間もない頃、新政府は国史の編さんを重要施策の一つとしており、明治5(1872)年に太政官正院に設置された歴史課の掌握事務には、江戸時代の藩政史、王政復古の経緯、そして維新後における地方行政の沿革という、3本立ての歴史をまとめて国史を編む計画が盛り込まれました。このうち最後の地方行政の沿革について、歴史課は、明治7(1874)年11月、各府県にそれぞれの管轄地域分の資料作成を指示します。このとき定められた「歴史編輯例則」は、まず明治7(1874)年までを対象とする資料を提出し、明治8(1875)年以降は各年版の資料を作成、逐次提出していくことを規定しています。

 これを受けて各府県が作成したのが、後に「府県史料」と呼ばれる資料群です。

 鳥取県でもさっそく作成が進められたようで、明治9(1876)年3月には「鳥取県歴史」と表題の付いた6冊の資料が提出されています。内容は、県が行った様々な行政施策、制度や例規、県内で起こった事件、県職員の履歴など、明治2~7(1869~74)年の鳥取県に関する幅広い記録です。8月には鳥取県が島根県に併合されますが、明治9(1876)年版「鳥取県歴史」までは島根県が作成を引き継ぎ、明治14(1881)年の鳥取県再置後は同年版から再び鳥取県が作成することとなりました。

 他府県でも同様に資料作成が行われましたが、進捗状況や出来上がった資料の内容はマチマチでした。そのこともあって、明治17(1884)年、作成事業は国が一括して行うことになります。そして、明治19(1886)年には事業自体が中止され、結局、国史編さんという当初の計画も実現には至りませんでした。(ただし、王政復古については、後に『復古記』として日の目を見ます。)下って大正3(1914)年、各府県から提出済みだった資料は、内閣書記官室記録課(内閣文庫)に移管されました。このときから「府県史料」という総称が用いられ、また「○○県歴史」・「○○県史」など様々であった表題は「○○県史料」と統一されたようです。「鳥取県歴史」にも「鳥取県史料」という新しい表紙が重ねられました。

 「鳥取県歴史」の作成は、鳥取県が行った最初の歴史編さん事業でした。その意味で、新旧の鳥取県史編さん事業のルーツといえるかもしれません。しかし、両者には次のように大きな違いもありました。

 第一に、「鳥取県歴史」は同時代史であり、江戸時代の沿革に言及することはあっても、基本的には作成時点から1~数年前についての記録です。対して、新旧の鳥取県史は原始古代から戦後までをカバーしています。

 第二に、「鳥取県歴史」は、先述のとおり中央からの指示に従って作成されたもので、中央政府が国史を編さんするための参考資料という位置付けでした。この点、鳥取県という地域の歴史そのものに意義を見て、県があくまで主体的に編さんを行った(あるいはこれから行っていく)新旧の鳥取県史編さん事業とは、著しく異なるものといえます。

 ともあれ、結果的に、「鳥取県歴史」は明治初年の鳥取県の様子を伝える貴重な史料となりました。「旧県史」近代編の記述も、これに大きく依拠しています。

 作成から1世紀以上経った現在、「府県史料」は内閣文庫を引き継いだ国立公文書館に所蔵されており、その数は2,166冊に上るといいます。鳥取県分はそのうちの32冊で、20冊については稿本あるいは写本と見られるものが鳥取県立図書館に所蔵されています。目次・索引がなく、活字化もされていないため、全体像が分かりづらい史料ですが、われわれの「新鳥取県史編さん事業」では、これらを整理・活字化し、活用していきたいと考えています。

(注)「府県史料」一般については、福井保「「府県史料」解題」(『内閣文庫書誌の研究』青裳堂書店,1980)および太田富康「「府県史料」の性格・構成とその編纂作業」(埼玉県立文書館編『文書館紀要』第11号,1998)に依拠しています。
「旧県史」には、「鳥取県歴史」の一部が採録されています(鳥取県編『鳥取県史 近代第5巻資料篇』,1967)。

(大川篤志)

室長コラム(その5):殿様の通信簿

 ベストセラー『武士の家計簿』で有名になった磯田道史氏の新著『殿様の通信簿』が刊行された。磯田氏は気鋭の江戸時代研究者で、幕末の鳥取藩を分析した論文も執筆されており、早速購入してみた。

 「殿様の通信簿」という興味深いタイトルは、元禄3(1690)年頃作成された、全国諸大名の評判をまとめた『土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)』という史料を表現したもの。史料の名は、『孟子』の中の「君の臣を視ること土芥の如ければ、すなわち臣の君を視ること寇讎の如し(殿様が家来をゴミのように扱えば、家来は殿様を親の仇のように見る)」という語に由来し、著者は不明だが、幕府隠密の機密報告と推測されている。この史料を使って磯田氏は、水戸黄門(徳川光圀)や、「忠臣蔵」の赤穂藩主浅野内匠頭らが、同時代にどのように評価されていたかを紹介している。

 磯田氏の著書には触れられていないが、『土芥寇讎記』の中には、当時の鳥取藩2代藩主池田綱清(つなきよ)についても記述されている。その一部を紹介してみよう。

綱清、文武共に学ばず。文盲不才にして、行跡正しからず。美女・美童を愛して昼夜を分かたず。故に政事を知らず。家老任せなり。故に老臣の威勢強く成りて、主君綱清は有れどもなきが如し。家士の善悪・忠不忠を知らず。ゆるゆるとして酔えるが如し。色を好む故に、費えも多し。家士を取り立て、かつ又加増を与える事なし。よって奉公を励まず、魯鈍の主将と風聞あり。実なるや否や。

 原文の読みを活かして引用したが、文意はほぼおわかりだろう。よくここまで悪く書けると思えるほど、ひどい評価である。

 ただし、綱清の名誉のために補足しておけば、この史料に記された他の大名への評価も、皆だいたいこのようなもので、綱清だけが悪く書かれているわけではない。また、鳥取藩の政治自体は、「国家の仕置(しおき、政治)、父光仲の時の如し。故によろし。」と記され、藩政自体はよろしく行われていると評価されている。

 また、綱清が『土芥寇讎記』の記載どおりの人物であったとしても、同情すべき点は多々ある。元禄3年、綱清は44才の壮年だが、父の初代藩主光仲は、隠居はしたものの健在で、いまだ藩の実権を握っている。また、綱清には男子がなく、後継藩主には弟仲澄の子が有力であった。現在の企業に例えれば、偉大な創業社長が会長として健在、2代目社長には後継ぎがおらず、弟の子供が次期社長に内定しているという状況であろうか。綱清が藩政に熱意を持てなかった理由もわからないわけではない。

 さらに、『土芥寇讎記』を読んで発奮したわけではなかろうが、鳥取藩では元禄4年から年貢制度の改革に着手、同9年からは、下級藩士の米村所平を登用して請免制と呼ばれる年貢制度を採用、その後しばらくの間は、一時的に藩財政の建て直しに成功する。綱清を愚昧な藩主とだけ評価するのは、適当ではないだろう。

(県史編さん室長 坂本敬司)

活動日誌:2006(平成18)年9月

4日
第3回県史編さん専門部会(原始古代)開催。
5日
国立療養所長島愛生園で資料調査(~6日、西村、鳥取県立公文書館田村専門員とともに)。
8日
古郡家1号墳出土物調査(~22日、鳥取県埋蔵文化財センター秋里分室・鳥取県立博物館、岡村、高田部会長・東方学芸員とともに)。
13日
戦争体験についての聴き取り(鳥取市青谷町、西村)。
19日
市町村現況調査(智頭町、岡村)。
22日
戦争体験についての聴き取り(東京都、西村)。
23日
オーラル・ヒストリー学会(~24日、東京都、西村)。

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編集後記

 新鳥取県史編さん事業が始まって半年、ようやく具体的な調査が進みつつあるように思います。と、言っている間にも、来年度の計画、12月3日に開催するシンポジウムの準備など、やるべきことが次々と迫ってきているのですが…。

 そんな次第で時の流れの速さを実感しているこのごろ、随分とすごしやすい気候になりました。

(大川)

  

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