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第160回県史だより

目次

  • 記事名:戦後占領下の災害救助体制の成立
  • 活動日誌:令和元年11月 12月、令和2年1月

戦後占領下の災害救助体制の成立

はじめに

 猛暑や風水害など毎年のようにどこかで大規模自然災害が発生しています。鳥取県でも平成30年の台風7号による大雨被害で倉吉市・湯梨浜町・北栄町が災害救助法の適用をうけ、避難所の設置等の対策がとられました。

 本年度の占領期の鳥取を学ぶ会が解読した昭和23年3月から5月までの鳥取軍政部活動報告の中には、県の災害救助に関する制度設計の記事が散見されます。当館所蔵の公文書も照らしあわせ、戦後の災害救助体制の成立過程と占領軍の関与を振り返ります。

災害救助法の成立と県の対応

 明治32年制定の罹災救助基金法は、罹災者救済のための基金設置を定めたものでしたが、救助活動全般にわたる規定は設けられず、支給基準にも地域格差があり、敗戦後の物価高騰で財源不足に陥るという問題が生じていました。22年10月に制定された災害救助法は、救助責任者を国とし、非常災害時には知事の強権発動を可能とし、救助隊の結成、災害救助対策協議会の設置、災害救助計画の策定などを定めました(注1)

 鳥取県では、23年1月27日に災害救助法施行細則(鳥取県規則第2号)を定め(注2)、1月31日には仁風閣で、2月14日には県庁で関係部課長をあつめた災害救助法運営協議会を開き、鳥取県災害救助対策協議会の組織と救助隊の編成について議論を重ねました(注3)

 「法第23条の規定による救助の程度、方法及び期間」(鳥取県規則第16号)の公示と副知事を隊長とする鳥取県災害救助隊規程(鳥取県告示第130号)を定めたのは、年度末が押し迫った3月26日のことでした(注4)

GHQ鳥取軍政部の関与

 前述の1月31日の会議には鳥取軍政部隊長が出席して挨拶を行っています。昭和21年12月の南海地震被害に対する英連邦軍の支援(注5)や、22年9月の「関東大水害」(カスリーン台風)にGHQ埼玉軍政部が救援活動を行ったことが知られています(注6)

 国力が十分に回復していない当時の日本にあって、占領軍の災害支援は重要な役割を担っていました。また、地方軍政部にとっても災害救助体制の実現と活動の円滑化は災害時の治安確保と早期復興のためにも重要な関心事でした。

 しかし、県の動きは軍政部の期待に沿わなかったようで、鳥取軍政部活動報告書(23年3月分)には、「災害救助隊の結成はこれまで遅々として進んでいなかったため、福祉担当将校が部隊結成を急ぐことの必要性について、県の幹部に力説した」と記されています(注7)。3月26日に成立した2つの規程の背景には、こうした鳥取軍政部の執拗な働きかけがありました(注8)

 その後、軍政部「福祉担当将校」の意向はさらに踏み込んだかたちで表れます。県厚生課瀧田主事の5月24日付復命書には、「鳥取県災害救助隊活動計画」の作成段階で鳥取軍政部厚生係アリマ中尉から2時間にわたって細部条項を追加するよう指示があり、29日午前中までに修正し英文も添えて提出するよう求められたと記されています。追加の内容は、(1)連合軍への報告はすべて鳥取軍政部を通じること、(2)災害が発生し又は重大災害の予知されるときは、災害の場所・範囲、被害の程度・種類、救助隊活動の状態、応援を要する人員・物資、被害状況(死者、負傷者等)を報告すること、(3)災害と措置の状況を4時間おきに報告することなどで、「連合軍え(ママ)の応援は日本政府で何とも出来ないときに限る」とされました。こうした軍政部の指示を盛り込んだ「鳥取県災害救助隊活動計画」は5月28日に起案され、6月1日に「至急施行」されました(図1)(注9)

写真1
写真2
図1「災害救助隊活動計画の起案文書」
(昭和23年5月28日立案、6月1日に施行)
朱書きで「部隊アリマ中尉指示 提出期限 5月29日午前中」
「至急施行」「(翻訳は6月4日の予定)」などと記載されている。

軍隊なき時代の災害救助

 災害救助の重要性について西尾愛治知事は日本赤十字社鳥取県支部長の立場から発出した1月14日付の通知で次のように述べています(注10)

軍備撤廃後の日本が広範囲な非常災害に際していかにして救済するかと云ふ事は重大な問題であり、真剣に画策万全の準備をなすべきであります。ましてや、日本は天災地変の多いことを思へば痛切なものを感じます。去る鳥取の大震災、近くは南海震災の記憶も消えやらぬうち、あの東北関東の大水害、鳥取の油槽会社の爆発、尚、最近の鳥取駅構内の椿事(ちんじ)で現実はあまりにも生々しく悲惨であります。何人もこの惨禍を視ればいかに災害救助が重大であるかを思ふのでありませう。

 戦時中の人手不足と物資供給不足の影響で震災の復興は進まず、鳥取市内には昭和18年の「鳥取の大震災」の影響が残っていました。21年12月の「南海震災」も弓浜地方を中心に建物被害が発生しました(注11)。「東北関東の大水害」は前述のカスリーン台風被害のことで、災害救助法の国会審議がなされていた22年9月に関東地方を中心に豪雨災害をもたらしました。

 敗戦にともない日本赤十字社も戦傷病兵の救護から平時救護へとその使命を転換していく過渡期にあり、災害救助法のなかに役割を与えられました。西尾支部長の発言からはそうした日本赤十字社地方支部の戦後のあり方を伺うことができます。

 昭和23年2月23日開催の鳥取県災害救助対策協議会第1回委員会の挨拶でも、知事は次のように述べています(注12)

思いまするのは日本が平和国家といたしまして軍備を撤廃することになったのでありますが、大きな非常災害発生の場合には従来軍が保有しておりましたところの物資を放出し、或いは軍の力をもって必要なる仕事に従事して来たことは皆様御承知のところでありますが、今後に於きましてはそういうことが望まれなくなりました。今日は占領下でありまして過半の関東大水害におきましても占領軍が非常に活動を与えられましてこの水害の拡大を防がれ、その救助に協力して頂いたことは既に周知のことでありますが、この占領軍もいつかは撤退する時期が来るのでありますが、そのような時代を考えますと、ふだんからこういう組織として準備と用意をして行くことが当然必要であるということが痛感せられる次第であります。

 鳥取大震災には、岩倉兵営の中部四十七部隊(鳥取歩兵第121連隊)が出動し、埋没者の発掘や消火、道路の開通作業にあたったほか、工兵隊による橋梁等の応急修理も行われました(注13)。しかし、軍隊なき時代、占領期という時代の災害救助のあり方が模索されながら、県の災害救助計画は造られていきました。

 ところで、先の通知の「鳥取の油槽会社の爆発」とは、昭和22年8月10日鳥取市棒鼻の津山油槽鳥取支店ガソリンスタンドからの出火による石油タンク大爆発事故で、重軽傷者約400人にのぼる惨事でした(注14)。また「鳥取駅構内の椿事」とは、戦後初となる昭和天皇の地方巡幸が行われた昭和22年11月27日、午後4時40分頃に鳥取駅で発生した群衆事故のことで、お召し列車が上井駅に向けて発車した後、帰宅を急ぐ人々が駅ホームに溢れ跨線橋から転落、高校生1名を含む死傷者33名の被害が発生しました(注15)。いずれも鳥取赤十字病院が救護活動を行っています。

鳥取大火の米軍救援活動「ハヤク作戦」

 サンフランシスコ講和条約の発効を11日後に控えた昭和27年4月17日、鳥取大火が発生します。大火発生と同時に17日午後3時西尾知事は部課長を緊急招集して善後策を協議し、即刻災害救助法第22条の規定に基づいて鳥取県災害救助隊及び災害救助対策本部を設置し10部(総務厚生、公安、消防、衛生、経済第一、経済第二、技術、輸送、協力、労務)に分かれて活動を開始。鳥取市長に対して災害救助隊鳥取支隊設置命令を発しました。

 一方で鳥取大火には米軍の支援がありました。米軍在日兵站司令部南西司令官中佐が19日午前伊丹飛行場を発し、鳥取上空を偵察したのち知事を見舞い、翌20日には神戸キャンプからトラック80台、貨物車輌45輛分の救援物資(レーション:戦闘糧食42,000箱、ミルク500、釜75、毛布550等)が被災地鳥取に届けられました(注16)

 在日兵站司令部(Japan Logistical Command)は、それまで占領行政を担っていた米第八軍司令部が昭和25年6月の朝鮮戦争勃発にともなって朝鮮半島に移動後の同年8月に横浜に創設された組織でした。極東海軍・空軍・司令戦務団を包括し、主たる任務は兵站業務(軍事物資補給)の遂行で、朝鮮派遣国連軍に対する兵站も担当しました(注17)。被災地鳥取に届けられた物資は、この兵站物資の一部として神戸に備蓄されていたものが配給されたものと考えられます。

 神戸から鳥取への物資輸送業務が昼夜を徹して大急ぎで行われた様子は、星条旗新聞に記載されています(注18)

神戸物資補給処では、被災した鳥取市民への救援物資を大急ぎで積み込こもうと数百人の兵士および陸軍の日本人雇用者が必死に働いており、さながら巨大な蟻塚のようだった。この補給処では、トラック80台と45両の慈善列車に、50万ドル分以上の軍用毛布と食品の積み込みが行われている。(中略)補給処で大急ぎで作業をしていた兵士が名付けた「ハヤク!作戦」という名前は、日本語の「急いで!」という意味の言葉に由来する。(中略)第二次世界大戦のB-29による空襲以来最悪の大火となった現場へと飛行し、火災で真っ黒になった地域を個人的に視察し、医薬・救援物資の追加に関する必要性を確認した。

 東日本大震災で米軍は「トモダチ作戦」(Operation Tomodachi)と名付けた救助・救援活動を展開しましたが、鳥取大火の救援活動は「ハヤク作戦」(Operation Hayaku)と名付けられました。戦時中、鳥取県内には爆撃機による空襲被害はありませんでしたが、鳥取大火は「B-29による空襲以来最悪の大火」として認識されていたことがわかります。

 なお、大火翌日未明に急派された警察予備隊(米子部隊(現:陸上自衛隊第8普通科連隊)も、米第八軍の朝鮮への移動で軍事的空白となる国内の治安維持のため25年12月に結成された部隊でした。米軍や警察予備隊の派遣が迅速に行われた背景には、朝鮮戦争下という時代状況も反映していました。

おわりに

 震災・大火・風水害・豪雪など鳥取県はこれまでも幾多の災害に見舞われながら、復興をとげてきました。大規模災害が頻発する現代にあって、そうした過去の災害を教訓として災害の防止と迅速な救助・復興につなげていくことは、ますます重要になります。今回は、現代の災害救助の枠組みの歴史的形成過程を振り返ってみました。

(注1)『鳥取県史 近代 第4巻 社会篇』、内閣府「災害救助の概要」http://www.bousai.go.jp/taisaku/kyuujo/pdf/siryo1-1.pdf

(注2)「鳥取県公報」昭和23年1月27日付http://www.pref.tottori.lg.jp/secure/658218/1877.pdf

(注3)厚生課『災害救助対策協議会に関する文』(鳥取県立公文書館所蔵No.000229900128)、公衆衛生課『災害救助関係綴』(同、No.000249900175)

(注4)「鳥取県公報」昭和23年3月26日付http://www.pref.tottori.lg.jp/secure/658216/1894.pdf

(注5)「徳島新聞」2017年12月21日付https://www.topics.or.jp/articles/-/4672。また、同時期の英連邦軍新聞British Commonwealth Occupation News(国会図書館所蔵)にも地震被害を伝える記事が掲載されている。

(注6)内閣府「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書1947年カスリーン台風」http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1947_kathleen_typhoon/index.html

(注7)1948年4月5日付鳥取軍政部活動報告添付書類B-2,7,g

(注8)5月6日の第2回鳥取県災害対策協議会の開催通知には、「追て本協議会については軍政中隊において非常な関心をもち委員の出席に関しては特に注意を受けておりますので御含みの上御支障の場合は必ず代理者を御派遣下さるよう御依頼致します」と付記されています。県は出席者の確保に余念がありませんでした。

(注9)昭和23年5月24日付「災害救助活動に対する鳥取軍政部の指示について」(厚生課『災害救助例規通牒文』)、昭和23年5月28日鳥取県災害救助隊活動計画の立案に関する起案)

(注10)「災害救助計画に関する件」昭和23年1月14日付(大山村役場『昭和23年災害救助関係綴』、鳥取県立公文書館所蔵)

(注11)第81回県史だより「戦後初の震災-昭和南海地震と鳥取県-」

(注12)「二月二十三日開催災害救助対策協議会第一回委員会に於ける会長挨拶(要旨)」(厚生課『災害救助対策協議会に関する文』、鳥取県立公文書館所蔵No.000229900128)

(注13)『鳥取県震災小誌』1944年

(注14)「日本海新聞」昭和22年8月12日付。なお、出火原因は内務省事務官の視察に同行した県職員がライターにガソリンを入れたことによる。

(注15)「日本海新聞」昭和22年11月28・29日付

(注16)『鳥取市大火災誌』(災害救護篇)

(注17)荒敬『日本占領史研究序説』、1994年

(注18)‘Operation Hayaku’ Races To Aid Tottori Refugees(「ハヤク作戦」、鳥取の被災者救助へ急行)、Pacific Stars and Stripes(「星条旗新聞」昭和27年4月20日付)

(西村芳将)

活動日誌:令和元年11月・12月、令和2年1月

11月

1日
青銅器調査にかかる打ち合わせ(公文書館会議室、岡村・東方)。
7日
全国都道府県史協議会(~8日、沖縄県立図書館、岡村)。
9日
民具学会講師(~10日、桜美林大学、樫村)。
10日
現代部会(公文書館会議室)。
11日
北栄町の副教材作成にかかる協議(公文書館会議室、岡村)。
16日
占領期の鳥取を学ぶ会(鳥取市歴史博物館、西村)。
18日
民俗部会(西部総合事務所第3会議室、田中・岡村・樫村)。
19日
「愛知県史」総括シンポジウム(ウィルあいち(愛知県女性総合センター)、岡村)。
20日
『名刀「古伯耆物」日本刀顕彰連合』鳥取県担当者会議(西部総合事務所、岡村)。
24日
中世資料調査(・25日、大山寺霊宝閣、岡村)。
26日
新屋銅鐸サンプリング立ち会い(奈良文化財研究所、岡村)。
28日
文化財活用にかかる意見交換(議会棟会議室、岡村)。
29日
新鳥取県史総括シンポジウムにかかる協議(東京大学史料編纂所、岡村)。

12月

7日
占領期の鳥取を学ぶ会(鳥取市歴史博物館、西村)。
18日
地域歴史資料所在調査(福田正八幡宮(南部町)、岡村)。
19日
青銅器調査にかかる打ち合わせ(公文書館会議室、岡村・東方)。
20日
地域歴史資料所在調査(大雲院、岡村)。
21日
資料調査(公文書館会議室、現代部会)。
24日
資料調査(~25日、防衛研究所・国会図書館、西村)。

1月

14日
18日
占領期の鳥取を学ぶ会(鳥取市歴史博物館、西村)。
28日
出前講座(河原町コミュニティセンター、岡村)。
  

編集後記

 今回の「県史だより」は、占領下における鳥取県の災害救助体制について取り上げたものです。終戦直後の鳥取県の災害に対しては、GHQ・日本赤十字・在日米軍などさまざまな人たちの支援があったことがわかります。現在、県史編さん室では、鳥取市歴史博物館と共催で月1回「占領期の鳥取を学ぶ会」を開いており、高校生も含めた県民参画の形で英文の「GHQ軍政レポート」を解読していますが、今回の「県史だより」には、この「学ぶ会」の成果も盛り込まれています。

 また、鳥取県では本年度から「災害アーカイブズ事業」を開始しました。これは過去の歴史資料から鳥取県内の災害に関する記事を抽出し、その時期・地域・種類等をデータベースにまとめて、県民の皆様に広く活用していただこうという取り組みです。歴史は我々にさまざまな教訓を与えてくれます。過去の災害事例や当時の人々の活動に学ぶことは、これからの鳥取県の防災を考えていく上で大事なことだと思います。

 さて、平成18年度に始まった新鳥取県史編さん事業も今年度末で終了となりました。調査・研究で得られた成果や身近なふるさとの歴史を県民の皆様へわかりやすく紹介しようと始まった「県史だより」も今回で160号となります。14年間、多くの県民の方々に読んでいただき、さまざまなご意見を寄せていただきましたことに、心より感謝申し上げます。この「県史だより」が今後もさまざまな場面で活用され、県民の学びを支える一助となることを祈ってやみません。長い間、ご愛読いただきありがとうございました。

(岡村)

  

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