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第154回県史だより

目次

  • 記事名:近世鳥取の出土遺物の記録あれこれ
  • 活動日誌:平成31年1月

近世鳥取の出土遺物の記録あれこれ

はじめに

 考古学にはロマンがあるとはよく言われることで、発掘作業で、自分の手で遺物を取り上げる時は嬉しさや感動を覚えるという話もよく聞かれることです。江戸時代の鳥取では、現在のような遺跡の発掘作業は行われなかったと思いますが、偶然遺物が掘り起こされることはあったようで、その場合は、今と同じく人々の注目を集めたようです。

 今回は、鳥取藩士岡島正義(1784~1859)が晩年に編纂した「因府歴年大雑集」(鳥取県立博物館蔵)という史料から、鳥取藩における遺物発見の事例をいくつか紹介したいと思います。

享保4年、気多郡山田村雲昌寺の出土品

 まず、気多郡山田村(現鳥取市青谷町山田)の雲昌寺(うんしょうじ)の出土品を紹介します(注1)

 享保4年(1719)正月25日、雲昌寺で壺が掘り出されました。壺の中には、銀10枚、切羽(せっぱ)(刀の鍔(つば)の部分に挟む物)、縁、鵐目(しとどめ)(刀の鞘につける金具)、木牌(もくはい)が収められていました。遺物は寺社奉行森官右衛門宅へ持ち込まれ、誰かがそれを図で記録したようです。岡島は、その図を模写したと思われるものを「大雑集」に載せています。それが図1です。

図1
図1

 岡島は、木牌に「天正九年六月十七日」(注2)と記されていることに注目し、なぜ銀などが壺に収められて土中に埋められたのかを考察します。岡島の考察を簡単にまとめてみると以下の通りです。


天正9年(1581)は鳥取落城の年である。「民談記」(注3)には、天正9年は、士民百姓は濫妨(らんぼう)に怖(お)じ恐れ、或いは他国へ逃げ散り、或いは山籠りをして田作もせず、在々村々には人もなく、田畑は荒れわたり、草深き野となったと記されている。羽柴秀吉が当国(因幡)に攻め入ったのは六月下旬と聞いている。この事を恐れて貨を土中に隠したものが、そのまま遺ったものだろうか。

 岡島の指摘は正しく、秀吉が因幡方面への進攻(第二次因幡攻め)を開始したのは天正9年6月下旬で、秀吉本隊は7月12日に太閤ヶ平(たいこうがなる)に着陣、10月25日に毛利方の吉川経家の切腹により鳥取城は落城しました(注4)

 雲昌寺の遺物については、他に関連史料がなく、これ以上は不明ですが、木牌から、埋蔵されたのは天正9年6月以降とみてよさそうなので、その動機が、長引く戦乱による兵士たちの濫妨や秀吉の攻撃から財産を守るためという岡島の仮説は、説得力のあるもののように思えます。

文政11年、邑美郡立川村竹島天神の出土品

 続いて、文政11年(1828)、邑美(おうみ)郡立川村(現鳥取市立川町)の竹島天神(天満宮)の事例を紹介します(注5)

 竹島天神の別当不動院は、泉水(せんすい)や庭石に造詣がありました。北側の山に「形よき大石」があるということで、近所の若者を集めて掘らせたところ、花立のような陶器が、その廻りからも様々なものが出てきました。実際に見物に行ったのかは分かりませんが、岡島は、図2のように出土品の記録を載せています。

図2
図2

 またこの件は、不動院から寺社奉行へ報告されたようで、「家老日記」にも、不動院が提出した覚書が記録されています(注6)

 さて、上記の出土品を、現代の考古学の知識から見るとどうなるでしょうか。当室の考古専門員の力を借りて簡単に見てみると、(1)の穴のある白と青の水晶は管玉(くだたま)、(2)は不明(水晶の原石?)、(3)~(5)は須恵器の可能性が高く、(6)は轡(くつわ)(馬具)と考えられます

 そしてこれらの遺物は、古墳時代のものの可能性が高いと思われます。恐らく竹島天神のあたりには古墳があり、「形よき大石」は石室(天井石)で、描かれた遺物は副葬品だったのでしょう。

天保5年、邑美郡八坂村の出土品

 続いては、天保5年(1834)、邑美郡八坂(はっさか)村(現鳥取市八坂)の事例です(注7)

 春頃に、八坂村の土橋を石橋にするための材料として、山にある「石がま(石かま)」を掘り崩すと、その中から図3のようなものが出てきました。

図3
図3

 岡島は見物に出かけたようですが、遺物は既に役所に提出された後で、直接見ることは出来なかったようです。したがってこの図は、岡島が遺物を実見して描いたものではなく、誰かが記録したものを写したのではないかと思われます。

 さて、図3にみえる遺物について、再び考古専門員の助けを借りてみてみると、(1)は把頭(つかがしら)(刀剣の柄の頭部)、(2)は鉄製の鍔(つば)、(3)~(5)、(7)、(9)は刀や刀子(とうす)(短刀)、(6)は不明(飾り金具?)、(8)は刀のように見えますが、断面から、刀ではなく鞍(くら)(金具)(馬具)、(10)は吊金具、(11)~(13)はいずれも須恵器で、(11)は提瓶(ていへい)と呼ばれるもの、(12)は高坏(たかつき)(坏に足台があるもの)、(13)は壺となります。これは、古墳時代後期、6世紀後半のものと考えられます。また、(1)は獣面が描かれていますが、獣面のある把頭は県内では例がなく、もし現在まで遺っていれば貴重なものだったようです。

 図に記したもののほか、二三寸から四五寸(6~15cm程度)に砕けた様々な形のものは多々あったといいます。

 現在では、八坂山には八坂古墳群と呼ばれる古墳群があり(注8)、隣村の橋本村(現鳥取市橋本)には橋本38号墳と呼ばれる古墳があるなど(注9)、この辺りは古墳の集中地帯であることが分かっています。おそらく「石がま」は石室で、図3の刀などは副葬品だったのでしょう。江戸時代では、石室は石材として利用されることがあったようです。

鳥取城の古瓦

 最後に、鳥取城下で出土した瓦に関する記録を紹介します。

 弘化4年(1848)春、権現堂中(なか)の丁(ちょう)(現鳥取市中町)辺りにある鳥取藩士野間鹿蔵屋敷の南堺で土を取っていると、三尺(約90cm)余り掘り進めたところで、揚羽蝶の紋が入った瓦を掘り出しました(注10)。揚羽蝶紋は池田家の家紋で、これは鳥取城で使用された瓦だと思われます。岡島は、この瓦の拓本(写真1)を載せ、「これは近代のものには見えず、天保の末年に松の丸下から出た瓦より少し後のものかと思う」、「どういう理由でここに遺ったのか考え難い」と記します。

写真1
写真1

 続けて、御城代沢百平から投ぜられたという、松の丸(鳥取県立博物館横の久松山北側の出鼻辺り)から出た瓦(写真2)を挙げ、「これは池田備中守(長吉、1570~1614)の時代のものだと人々は評するが、信疑は半々である。他日識者に糺すべきだ」と即断を避けています(注11)

写真2
写真2

 岡島はさらに続けて、「校考ノ一助」として、ある家に伝わる、興禅院(池田光仲、1630~1693)から拝領した兜の吹き返しにみえる紋の拓本(写真3)を掲げます(注12)

写真3
写真3

 この事例からは、ある事柄について、関連史料を出来るだけ収集し、なお考察に慎重を期す、岡島の歴史家としての姿勢が垣間見えます。

 なお、鳥取城出土の瓦については、近年文様による編年が進み(注13)、それに照らすと、写真1は17世紀前半(池田長吉、光政期)の瓦に、写真2はそれ以前の瓦に近いように見受けられます。

おわりに

 今回は、「大雑集」にみえる近世の出土物の記録をいくつか紹介しました。

 当時においても出土遺物は人々の注目を集め、また村々で出土した場合は、藩に届け出ていたことがうかがえます。今回の事例はほかの史料にも記録があるものもありますが、図が描かれている事が「大雑集」の価値のひとつです。

 「大雑集」を丸ごと1冊収録した『新鳥取県史 資料編 近世6』、その中からいくつかのトピックを紹介するブックレット『因府歴年大雑集を読む』は4月下旬から販売予定です。是非ご活用ください。

(注1)『新鳥取県史 資料編 近世6 因府歴年大雑集』4―123。以下同書に拠った場合は『近世6』見出し番号と記す。

(注2)木牌には「十七日」と記されるが、「十一日」とも見えたようで、その旨が注記されている。

(注3)「因幡民談記」。元禄元年(1688)頃成立した因幡国の地誌。

(注4)鳥取県史ブックレット1『織田VS毛利―鳥取をめぐる攻防―』(鳥取県、2007年)49~76頁。

(注5)『近世6』11-52。

(注6)「家老日記」文政11年4月14日条。

(注7)『近世6』12―17。

(注8)『鳥取県の地名』201頁。

(注9)『鳥取県の古墳』(鳥取県埋蔵文化財センター、1986年)42頁。

(注10)『近世6』14-6。

(注11)『近世6』14-7。

(注12)『近世6』14-8。

(注13)『新訂増補 鳥取城跡とその周辺』(鳥取市歴史博物館、2013年)30~31頁。

(八幡一寛)

活動日誌:平成31年1月

11日
資料返却、資料借用(県埋蔵文化財センター・八頭町教育委員会、東方)。
12日
占領期の鳥取を学ぶ会(鳥取市歴史博物館、西村)。
17日
資料返却(鳥取大学、東方)。
18日
資料借用(鳥取県立博物館、東方)。
19日
資料調査(公文書館会議室、西村)。
24日
泊漁業関係資料調査(湯梨浜町泊中央公民館、樫村)。
27日
伯耆町文化講座(出前講座)(伯耆町溝口公民館、樫村)。
30日
資料返却(米子市埋蔵文化財センター、東方)。
  

編集後記

 今回の記事は、近世の史料「因府歴年大雑集」をもとにした記事です。この平成31年3月末には、この史料を全文翻刻した『新鳥取県史資料編 近世6 因府歴年大雑集』と、その興味深い記事をダイジェスト的に紹介する『新鳥取県史ブックレット20 因府歴年大雑集を読む』が刊行されます。ブックレットは資料編を読む前の入口として最適なものとなっておりますので、資料編は難しいと思う方はまずこれを読んでいただけばと思います。

 またこの3月には『資料編 現代1 政治・行政』と『民俗2 民具編』も刊行されます。こちらもぜひご覧いただければと存じます。

 さてこれをもって近世部会と民俗部会の資料編刊行事業は終了となります。さまざまな方々のご協力によって終了まで辿り着くことができました。この場をお借りしてお礼もうしあげます。

(樫村)