第143回県史だより

目次

伊号第16潜水艦の真珠湾攻撃
—伯耆町(溝口)出身 山田薫艦長の日誌より—

1.プロローグ

 昭和16年11月26日、わが国の機動部隊は択捉(えとろふ)島単冠(ひとかっぷ)湾を出撃しました。ハワイ真珠湾攻撃の為です。実はこれに先立つ18日、呉より五隻の潜水艦が先遣部隊の特別攻撃隊(第一潜水戦隊)として発進していたのです。後甲板(こうかんぱん)には特殊潜航艇が搭載されていました。真珠湾内に侵入し、米軍戦艦を魚雷攻撃する狙いだったのです。その内の一隻、伊号第16潜水艦(以下、伊16と略す。)の艦長が伯耆町(溝口)出身の山田 薫(かおる)でした。攻撃隊命令は「特別攻撃隊ハ隠密裡ニ真珠港外ニ進出シ開戦劈頭機動部隊ノ空襲ニ策応シ格納筒(特殊潜航艇)ニ依ル港内奇襲ヲ敢行スルト共ニ港外ノ監視ヲ厳ニシ敵ヲ邀撃 撃滅セントス」(注1)というものでした。

伊号第16潜水艦の写真
伊号第16潜水艦(写真提供:大和ミュージアム)

伊号第16潜水艦

 伊16は排水量1000トン以上で、僚艦に伊18、20、22、24号。全長109.3m、最大幅9.1m、速力23.6ノット(水上)8ノット(水中)基準排水量2184トン。魚雷発射管8、ディーゼル走行。水中はバッテリー走行。航続距離16ノットで14000海里(カイリ)。乗員数100。安全潜航深度100m。潜水艦は船体が二重構造で、外殻は海水や圧搾空気が出入りし、内殻は下段に燃料の重油タンク、弾庫、上段は兵員室、指令塔などがありました。外殻の弁を開くと海水が入り潜航、圧搾空気を送り込むと排水され浮上する仕掛けでした。潜航すればジャイロでしか進路が判らず、夜間浮上して星をみて位置を確認しました。まず潜望鏡だけ水面に出して(露頂・ろちょう)安全を確認して浮上したのです。

特殊潜航艇(「筒」「甲標的」などと呼称)

 全長24メートル、乗員2名、蓄電池走行、水中速度20ノット、小型魚雷2本搭載、潜水艦後甲板に捕縛して搭載されていた。

2.潜水艦行動経過の概要

 以下、山田艦長が提出した「特別攻撃隊A-1攻撃ニ関シGF長官ニ報告覚」(注2)に基づき内容を見ていきます。


原文は漢字とカタカナで一部を(…)で省略し表現をよみやすく改めた。A-1は真珠湾、GF長官は連合艦隊司令長官山本五十六、Xは真珠湾攻撃日のこと。

内地出発より12月6日(X-(マイナス)2)までの経過

 特攻隊は11月18日日没後各艦毎に倉橋島大入を出発、…10海里の間隔を置き、一路布哇(ハワイ)に向け東進す。天候は予想よりも悪く、全航程を通じて風速平均17~18m…風向概ね北東にして向かい浪となり、かつ長濤(最大長さ約100m高さ10m)ありて、速力を大とせば艦橋終始波浪に被われ見張り出来ざる状況となり、止むを得ず減速せしこともあり…昼間潜航は計画通りミッドウエーの600海里圏より実施し、帰投するまで各艦毎日連続潜航すること21日ないし22日に及べり。全期間を通じて潜航深度30mに於いて、尚左右動揺各4~5度を感じ、且つ露頂深度(18m付近)保持は極めて困難にて、而も波高高きを以て潜望鏡視界は狭小なりき。斯如く状況なりしも、各艦共計画通り12月6日の日没には概ねA-1の100海里圏に達せり。前述の如く海上模様極めて悪く、辛じて上甲板作業を実施し得ると認めたる日は、20日間のうち僅か2日なりき。各艦長は筒の整備には極めて大なる関心を有し、筒の発進せしめるまでは万難を排して整備を期し、夜間荒天中、而も敵飛行機警戒圏内に於いて、困難なる上甲板作業を実施。屡々作業員激浪に没し「シマッタ」と観念して目を思はず閉じたること屡々ありたり。今後は敵の警戒厳重となれるをもって、上甲板作業は一層困難となるに至るべし…筒の整備に関しては心魂を消耗し、或る艦長はこの状態、更に1週間続けば愈々の場合、精根尽き果てるに非ずやと感じたりと述懐せり…内地進発以来20日間3800余海里の大洋を横断し、怒涛と戦い、敵警戒圏を潜り、完備の状態に於いて格納筒を発進せしめたるまでの各艦長の苦心は、決して容易なるものには非らざりしなり。而して格納筒は整備上、相当の故障を惹起し、各艦共、その対策には大なる苦心を払えり。

12月7日(X-1)より8日(X)までの経過(行動図参照)

 7日18時30分には各艦共計画通りA-1の18海里圏に達し、爾後は隠密に港口に接近し、20時12分ないし23時03分の間において5海里ないし12海里の点より筒を発進せしめたり。伊16潜に於いては、7日13時35分、A-1の26海里圏に浮上す…陸上の灯火は煌々として輝き其の美観筆紙に尽し難きものあり。灯台等も平常のままなりしを以て、艦位は極めて正確に記入し得たり。此の状態にては筒侵入容易なるべしと一安心せり。警戒を厳重にしつつ港口に向け水上進撃す。此の時筒の搭乗員(横山正治中尉、上田定二曹)移乗せしめ、筒進発準備を完成せしむ。水上にて約1時間航走せるとき14時25分翼端に青白き灯を点ぜる飛行機、右舷より接近せるを認め急潜す。爾後舳(へさき、原文は舟偏に首)方向左右に商船を認め、浮上できず潜航のまま侵入す。筒進発20時12分(港口7海里)…この夜は月夜にて視界極めて良好、陸上方面の視認も良好…、筒進発後は各艦共概ね所定哨区に潜航監視に従事せり。

12月8日(X)

 03時30分機動部隊の空襲を観測する目的をもって、露頂真珠港を観測す。爆煙濛々と立ちあがれるを見て、空襲成功せるものと認めたり。続いて遠距離に炸裂音を連続聴知す。04時07分左舷28度に推進機音聴知、漸次近接、感3に至り艫(とも、原文は舟偏に尾)に行く爆雷音を連続肉耳にて聞く。爆雷防禦を令す。爾後11時05分まで殆ど連続爆雷攻撃を受く。各艦共略々同様の状況なり。爆雷音は種々雑多の音色あり。主なるもの「カン」「カラカラ」「ドン」等なり。聴音機にて推進機音を聴知せる状況より推して魚雷艇二隻対隻となりて攻撃せるが如し。又時々駆逐艦音らしきも聴知せり…当時の潜航深度は各艦共概ね50~70mとし、片舷最微速、無音潜航に努めたり…日没後浮上、味方潜水艦との混乱を避くる為め40海里圏付近まで南下、爾後収容配備点に向ふ。途中敵飛行機及艦影(後にて敵潜水艦と推定)に会い、2回急速潜航す…この日伊16潜に於いては予め本艦・格納筒との通信に関し定めたる特定略語に依る無線連絡を17時06分より20時12分まで為し得たり。(18時11分、1回のみ「奇襲に成功せり」の旨のトラ通信あり)…通信連絡により奇襲成功せしこと確実となり大いに祝福すると共に、収容可能なるべしと判定…収容点(ラナイ島)着後終夜水上待機哨戒せるも5隻とも遂に収容するに至らず…


 このように、8日より各艦で昼夜に亘り収容捜索が開始されるも、12日になって「遺憾ながら筒乗員は一名も収容し得ず、各種情況を総合するに、各筒は奇襲に成功し、所期の戦果を挙げたる後、乗員は何れも壮烈なる戦死を遂げたるものと認む」(注3)として、捜索が打ち切られた。(真珠湾はサンゴ礁や浅瀬があり、実際に湾内に突入出来たのは伊22潜のみで、攻撃成果も不明です。他艇は湾口付近で撃沈、座礁しています。)

 山田艦長は戦艦撃破を確信しつつも、「所見」として縷々大幅な筒攻撃の改善点を記しています。それは出発前に潜水艦と筒の連合訓練が無かったこと(図上訓練のみ)。筒は前進根拠地で潜水艦に搭載すべき事(出発港からの積載は大きな負担)。潜水艦から筒に出入りできる交通筒を新設の事(荒天時甲板に出れない)など。その後特潜は改良され、後にある程度成果を挙げた作戦(注4)もありました。末期には運貨筒(物資の揚陸)、特攻兵器「回天」等に特化していきました。

伊16号潜水艦行動図
伊16号潜水艦行動図 
真珠湾はオアフ島南部の湾入部である。海岸はサンゴ礁。伊16は南西から真珠湾に向かい筒発進後南下、
東のラナイ島(収容配備及び捜索)に至るルートが記載されている。実線は水上、破線は潜航部分。
各地点(○印)は分母が日付、分子は時刻を示す

3.エピローグ

 潜水艦内は狭く、出発直後は積荷が満載で、米袋や缶詰の上が通路になったり、真水が貴重で、何十日も入浴も出来ません。潜航が続くと、空気は汚れ、昼夜の感覚も乱れ何日でも日の目を見ない日々。夜間浮上し手で火を覆い喫煙したのです。しかし艦内の生活は割合家族的で制裁なども無かったといいます。攻撃を受けたら一連托生ということでしょう。

 伊16はその後昭和17年4月~7月インド洋通商破壊戦で、マダガスカル島ディエゴスワレス軍港攻撃や、10月にはガダルカナル島での弾薬や食料補給にも従事しましたが、19年5月ソロモン諸島北方海域で米駆逐艦により撃沈されました。山田艦長は17年12月退艦、海軍潜水学校教官、第一特別基地隊参謀等歴任、海軍大佐。戦後帰郷し、米子で「山陰酸素工業株式会社」の創業(昭和21年)に係わりその技術を生かしました。

 なお「A-1攻撃」については「新鳥取県史 資料編 近代6 軍事・兵事」に収録されています。ご覧ください。

(注1)「機密特別攻撃隊命令作第1号」昭和16年11月14日特別攻撃隊指揮官佐々木半九(山田薫艦長のご子息・山田俊也氏所蔵『出征日誌』に綴りこみ)

(注2)上記『出征日誌』に綴りこみ

(注3)「特別攻撃隊「ハワイ」攻撃詳報」(『出征日誌』)

(注4)昭和17年5月31日マダガスカル島ディエゴスアレス港にて英戦艦ラミリーズ撃破(甲先遣支隊 特別攻撃)『戦史叢書』98「潜水艦史」より

(岩佐武彦)

活動日誌:平成30年2月

3日
現代資料検討会(公文書館会議室、西村)。
7日
資料編にかかる協議(鳥取県立博物館、西川)。
9日
資料検討会(わらべ館、西村)
10日
第9回占領期の鳥取を語る会(鳥取市歴史博物館、西村)
12日
出前説明会(湯梨浜町泊歴史民俗資料館、樫村)。
13日
遺物撮影(鳥取県立博物館、西川)。
古墳測量にかかる協議(公文書館会議室、岡村・西川)。
県史ブックレットにかかる協議(鳥取大学、岡村)。
20日
民具調査協議(倉吉博物館、樫村)。
21日
県史ブックレットにかかる協議(鳥取大学、岡村)。
資料編掲載資料の確認作業及び口絵撮影(大神山神社・鳥取大学附属図書館、前田)。

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編集後記

 平成29年度最後の「県史だより」となります。今回は、現代部会調査委員である岩佐武彦さんに原稿を執筆いただきました。県史掲載候補となる大量の資料調査を担当した委員が選びだした、真珠湾攻撃に関する貴重な資料であり興味深いものとなっています。

 さて、人事異動(4月1日付)により県史編さん室から2名が異動となります。考古担当の西川専門員が鳥取県埋蔵文化財センターに、近代担当の前田専門員が鳥取西高等学校に転出となります。ともに3月末刊行予定の『新鳥取県史資料編』の「考古3 飛鳥・奈良時代以降」、「近代5 行政2・社会・宗教」、「近代7 産業・教育・文化」の編集、諸手続きのため異動直前まであわただしい状況にあります。県史事業には独特の重圧があると私は感じていますが、その中で無事刊行されました。身体の疲れを残したまま新たな場所で新たな仕事をされることになります。見送る立場として寂しさがありますが、新たな職場でのさらなるご活躍をお祈りいたします。

(樫村)

  

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