第62回県史だより

目次

西伯耆の戦国武将と神社―米子市八幡神社の唐櫃をめぐって―

はじめに

 鳥取県内には戦国武将にゆかりのある神社が多くあります。

 戦の激しかったこの時代、武将たちは神社に戦勝祈願をしたり、社領の安堵(あんど)や寄進を行って一族の繁栄を願ったり、戦火に見舞われた社殿を再興して人心の掌握を図ったりしました。今でも県内各地の神社には、古文書や棟札(むなふだ)をはじめ戦国武将にまつわる多くの文物が残されています。

 今回は米子市の八幡神社(はちまんじんじゃ)に伝わる唐櫃(からひつ)を中心に、戦国武将と神社との関わりについて考えてみたいと思います。

米子市八幡神社について

 米子市東八幡に鎮座する八幡神社(内藤和比古宮司)は、武運の神である誉田別尊(ほんだわけのみこと=応神天皇)を主祭神とする神社です。古くは相見八幡とも呼ばれ、相見庄の鎮守として8世紀初めに宇佐八幡宮から勧請されたと伝えられています。また一説によれば西伯耆の長者原(現伯耆町)に勢力を持っていた紀氏一族の巨勢(こせ)氏がこの地に建立したとも言われています。

八幡神社社殿の写真
八幡神社社殿

 江戸時代には藩主の祈願所として信仰を集めていました。また戦国末期から神主を勤めている内藤家は西伯耆一帯の幣頭(へいとう)(注1)に任じられていました。現在でも内藤家には幣頭の活動に関する貴重な近世文書が数多く残されています。

 このほか、同神社には朝鮮出兵の恩賞として豊臣秀吉から拝領したと伝えられる三番叟(さんばそう)翁面(おきなめん)や、初代米子藩主の中村一忠が奉納したとされる三十六歌仙額、江戸時代の漢籍・和歌関係資料、慶長年間以降の棟札などの貴重な歴史資料もあり、今日まで大切に守り伝えられています。

唐櫃と朱書について

 この八幡神社に写真のような一棹の唐櫃が伝わっています。黒漆塗りで大きさは幅67.3×奥行き50.5×高さ57.5(センチメートル)、かぶせ蓋と脚の一部に補修が施されていますが、極めて良好な状態を保っています。

八幡神社所蔵が所蔵する唐櫃の写真
八幡神社所蔵が所蔵する唐櫃

 言い伝えによれば、この唐櫃は地元の戦国武将が鎧などの具足(ぐそく)を入れて八幡神社へ奉納したと言われています。

 この伝承に関わるものとして、唐櫃の側面には、次のような朱書がみられます。

唐櫃側面の写真
唐櫃側面
唐櫃側面の朱書の文字「奉寄進八幡宮 永禄拾年丁卯九月吉日」
唐櫃側面の朱書の文字
唐櫃側面(反対側)の写真
唐櫃側面(反対側)
唐櫃側面(反対側)の朱書の文字「施主紀朝臣 久貞 河岡山城守」
唐櫃側面(反対側)の朱書の文字

 この朱書によれば、この唐櫃は1567(永禄10)年9月に河岡山城守なる人物が八幡神社に寄進したものであることがわかります。久貞というのは河岡山城守の実名と思われ、「紀朝臣」とあることから河岡氏が紀氏の流れを引く一族であることが窺えます。

 では、この朱書からどのような歴史像を描き出すことができるのでしょうか。以下ではここにみえる「河岡山城守」という人物名と「永禄拾年九月」という年月を手がかりにこの唐櫃が八幡神社に寄進された背景について考えてみたいと思います。

河岡山城守とは?

 まず、ここにみえる「河岡山城守」について考えてみましょう。

 「河岡山城守」は永禄年間の史料にしばしば登場する実在の人物です。その実名はこれまで不明でしたが、この朱書により「久貞」であることが初めて明らかになりました。

 河岡氏は河岡城(米子市河岡)を本拠とする国人で、16世紀初めの尼子経久による西伯耆進攻の際に尼子氏に降ったと考えられています。「久貞」の「久」は尼子一族の「久」を与えられた可能性もあるでしょう。

 その後、1562(永禄()年に毛利氏の勢力が西伯耆に及ぶと、河岡久貞は尼子氏を離反して毛利方に味方します。当時の史料によれば、久貞は「出雲に置いていた人質が死去したため尼子との縁は切れた」として毛利氏に忠誠を誓っています(注2)

 その後、久貞は毛利軍の一員として河岡城を拠点に尼子軍と戦います。当時、河岡城は尾高城と並んで西伯耆北部における毛利軍の重要拠点でした。そのため、しばしば尼子軍の攻撃に見舞われています。特に永禄6年7月の戦いは激しく、河岡城に置かれていた毛利方の兵糧が尼子軍の攻撃を受けて焼失しました。そのため、毛利元就は出雲国杵築(きづき)から米300俵を船で淀江へ運び河岡城へ入れるよう命じています(注3)

記載された年月について

 この永禄年間における毛利と尼子の攻防戦は、毛利軍が優位に戦いを進め、1566(永禄9)年11月に尼子義久が降伏して富田城は落城します。

 このことをふまえて、改めて唐櫃の記載に注目してみましょう。

 この唐櫃に記された年月は永禄10年9月であることから、富田城落城のわずか10ヶ月後であることがわかります。

 推測の域を出るものではありませんが、八幡神社が河岡城に隣接していることや寄進された時期が富田城落城からさほど離れていないことを考えるならば、この唐櫃は尼子との戦いで激戦の末に河岡城を死守した河岡久貞が、戦勝を謝して何らかの記念の品を唐櫃に入れて地元の八幡神社に奉納したものである可能性が極めて高いと考えられます。

 また、河岡氏が同神社の創建に関わった紀氏一族の末裔であることを考えるならば、あるいは河岡氏が八幡神社を氏神としていた可能性も否定できないと思われます。

おわりに

 戦国時代の西伯耆は毛利と尼子の戦いの狭間に置かれ、激しい戦闘に見舞われました。そのような激戦地において、河岡久貞は毛利方の要衝である河岡城を死守し西伯耆における毛利軍の勝利に貢献しました。

 八幡神社に伝わる唐櫃は、富田城が落城した後、久貞が神の加護に感謝しつつ戦勝のしるしを入れて同神社へ奉納したものであると考えられます。八幡神社が武運の神として信仰を集めていたことを考えるならば、出陣前にも戦勝を祈願したであろうことは想像に難くありません。

 わずかな文字数ですが、この唐櫃は戦国時代の武将と神社の関わりを探る上で第一級の資料であるといえるでしょう。

(注1)幣頭:江戸時代に藩内の神職の取り締まりや取次を行う役職。1~2郡に1名が郡内の由緒ある社家から選任された。幣頭を管轄するのが総幣頭で、東照宮禰宜を兼任した長田社の永江氏が任命され幕末まで世襲した。

(注2)(永禄5年)11月2日毛利元就書状写(『萩藩閥閲録』巻33 粟屋)

(注3)(永禄6年)7月24日毛利元就・吉川元春・小早川隆景連署書状(「山田家文書」)

*資料の調査・撮影・掲載に際しましては、八幡神社の内藤和比古宮司に多大な御配慮を賜りました。あつく感謝申し上げます。

(岡村吉彦)

最近の活動から:日南町にて出前講座を開催

 2011(平成23)年6月8日(水)、『わたしたちの町のお宝を発掘しよう~日南町の郷土資料をみんなで考えるワークショップ』(日南町教育委員会主催)に樫村専門員が出前講座として出張し、講師としてワークショップを行いました。会場となった日南町総合文化センター多目的ホールには、約20名の皆様にお集まりいただきました。

 講座は、「新鳥取県史編さん事業と民具調査―日南町での取り組みについて―」として、地域の暮らしの特徴を示す、例えば炭焼きや花田植などのテーマをもって資料収集することの重要性を説明しました。そして炭焼き、花田植関係資料の提供や、情報提供などの協力をお願いしました。

 参加者の皆様からは、「家に花田植に使った農具がある」などの情報や、「昔の様子を知るためには写真資料が重要だ」などのご意見をいただきました。

ワークショップにて民具に集る参加者の写真
ワークショップにて民具に集る参加者
民具の計測実習をする参加者の写真
民具の計測実習をする参加者

 講演の後は、日南町内の花田植に使用された太鼓やマグワ(現地名:マンガ)、エブリなどの民具の計測し、民具資料台帳に記録する実習を行いました。参加者の方々には、熱心に作業していただきました。

活動日誌:2011(平成23)年5月

1日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、坂本)。
7日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、坂本)。
9日
古墳測量地元協議(湯梨浜町橋津、坂本・湯村)。
10日
古墳測量地元協議(湯梨浜町野花・長和田、坂本・湯村)。
民具調査(松江市八束支所、樫村)。
11日
出前講座(日南町総合文化センター、坂本)。
古墳測量結果報告(鳥取市面影、湯村)。
12日
古墳測量結果報告(鳥取市桜谷・面影、湯村)。
13日
古墳測量地元協議(県中部総合事務所、坂本・湯村)。
14日
新鳥取県史巡回講座「古代因幡の豪族と采女」開催(鳥取市国府町中央公民館)。
16日
古墳測量地元報告(鳥取市今在家、湯村)。
17日
中世史料調査(若桜町西方寺、岡村)。
民具調査(~18日、日南町立郷土資料館、樫村)。
18日
遺物整理協議及び古墳現地確認(八頭町教育委員会・鳥取市河原町等、湯村)。
19日
鳥取市文化財審議会(鳥取市役所、樫村)。
20日
ロシア兵漂着事件資料調査(岩美町、清水)。
25日
資料調査(湯梨浜町宇野地区公民館、清水・大川・足田)。
資料返却(湯梨浜町泊歴史民俗資料館・鳥取市佐治町、樫村)。
26日
中世史料調査(三朝町曹源寺、岡村)。
ロシア兵漂着事件資料調査(大山町、清水)。
30日
空山古墳測量協議・現地確認(鳥取市空山、湯村)。

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編集後記

 今回は、いつも反響の大きい戦国時代の記事です。唐櫃にある、わずか28の文字ですが、他の史料からわかるその時代の状況と照合することで、様々なことが判明し、また推測がでるものだと改めて思いました。

 私事、この記事を読んで、恩師の一人である中世史研究者、網野善彦先生が、襖(ふすま)の裏張りになっている小さな一切れの文書から重要な事実が明らかになることもあると、地道な史料の調査と整理、そして史料批判の重要性を学生にいつも諭していたことを思い出しました。

(樫村)

  

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