第68回県史だより

目次

鎌倉時代の最後の関東御教書!?

関東御教書(かんとうみぎょうしょ)とは?

 古文書にはさまざまな様式があります。それは差出人と受取人の関係や伝達する内容等によって大きく異なっており、それぞれの様式によって書出しや書止めの文言もおおよそ決まっています。

 このうち、主人の意を受けて側近が出す書状を奉書(ほうしょ)といい、奉書の中でも特に三位以上の位階を持つ人の奉書を御教書(みぎょうしょ)と呼びました (注1)。主人の意を伝えるという意味で本文の終わりを「仰せにより執達(しったつ)件(くだん)の如し」等の文言で結ぶなどの特徴がみられます (注2)

 この御教書の中でも、鎌倉時代に幕府の執権(しっけん)(注3) であった北条氏が将軍の意を受けて出した公的な文書を「関東御教書」と呼びます。1224(元応3年)年に連署(れんしょ)(注4) が置かれてからは、執権・連署の連名で出されました (注5)

 鎌倉時代の文書を網羅的に掲載した『鎌倉遺文』には814点の関東御教書が収録されています(注6)

鎌倉幕府が出した最後の関東御教書?

 鎌倉幕府が出した最後の関東御教書と思われる文書が、秋田県立公文書館が所蔵する「秋田藩家蔵文書」(注7) の中にあります。

秋田県立公文書館の建物の写真
秋田県立公文書館

先帝御坐伯耆国船上寺之間、凶徒多奉随付之候、来廿五日以前令進発可致軍忠之状、依仰執達如件、

  正慶二年四月十六日  右馬権守(北条茂時)(花押影)

             相模守(北条守時) (花押影)

     石河大炊助余四郎殿(注8)

 これは、鎌倉幕府の最後の執権である北条(赤橋)守時(ほうじょう《あかはし》もりとき)と連署である北条茂時(ほうじょう しげとき)が出した関東御教書です。江戸時代の写しですが、花押影をみる限りでは、両者ともに同時代のものとほぼ一致しており、信頼性は高いと思われます。

 正慶2年は西暦1333年に該当しますが、この年は5月に新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉を攻撃し、18日には北条守時が、同22日には茂時を含む北条氏一族870人余が自刃して、事実上鎌倉幕府は滅亡します。この文書はその約1ヶ月前に出されたものです。

 先述した『鎌倉遺文』にもこの文書は収録されておらず、他の資料集をみてもこの日以降の関東御教書は確認できていません(注9) 。検討の余地は残されていますが、現時点ではこの文書は鎌倉幕府が出した最後の御教書である可能性が高いと思われます。

鎌倉時代末期の船上山と後醍醐天皇

 次に、この文書の内容についてみてみましょう。

 これは鎌倉幕府が御家人である石河余四郎に宛てたものです。内容は「先帝」が「船上寺」にいて多くの「凶徒」が従っているので、4月25日までに出陣して攻撃するよう命じたものです。この「先帝」とは後醍醐天皇(ごだいごてんのう)のことを指しています。

 1332(元弘2年/元徳4)年、鎌倉幕府の打倒に失敗して隠岐に流されていた後醍醐天皇は、翌年閏2月24日に隠岐を脱出して伯耆国に漂着し、名和長年らに奉じられて船上山に籠もりました。史料中の「凶徒」とは名和一族や天皇側についた西伯耆の日野氏や金持(かもち)氏らを指すと思われます(注10)

…後醍醐天皇が籠もった船上山の写真
後醍醐天皇が籠もった船上山

 「船上寺」というのは、当時、船上山にあった寺院と考えられ、『増鏡』(注11) にも「ふなの上寺」と記されています。一説には、かつて山上にあり船上山の山号を持つ大山寺末寺の智積寺(ちしゃくじ:現琴浦町竹内)のことを指すと言われています。智積寺本尊の地蔵菩薩の胎内銘によれば16世紀に山上に13の寺坊があったと記されており、また山上の台地には中世のものとみられる約20の寺坊跡や鎌倉期のものと思われる宝篋印塔(ほうきょういんとう)などが残っています。このことから、当時、船上山の山上には多くの寺坊を持った船上寺が形成されていたと思われます。後醍醐天皇と名和長年らはこの船上寺に立て籠もっていたものと考えられます。

後醍醐天皇の脱出を朝廷が知ったのは?

 ところで、この後醍醐天皇の隠岐脱出や船上山での動きは、当時、朝廷にどのように伝わったのでしょうか。

 正慶2年3月9日の花園上皇(はなぞのじょうこう)書状によれば (注12)、「先帝(後醍醐天皇)のことは、さまざまな話が飛び交っているが、伯耆の大山寺の傍らに城郭を構えたようだ」「お供の武士は1000騎とも、いや2~300騎にも満たないとも言われている」「隠岐守護が追ってきて合戦したとも言われている」などと記されています。

 上皇自らが「天皇の脱出については確かな情報はないけれども、さまざまな説が巷(ちまた)に満ちている。もし事実であれば言語道断である」と述べているように、当時朝廷が入手していた後醍醐天皇に関する情報は、都で流布している話を伝え聞いたものでした。混乱している京都にさまざまな情報が飛び交っている一方で、後醍醐天皇が脱出して10日以上たっても正確な情報が朝廷方に届いていなかったことがわかります。

おわりに

 同年閏2月29日の船上山の戦いで幕府軍に勝利した天皇は、その後、山上に行宮(あんぐう:仮の御所)を置き、各地の武士に向けて鎌倉幕府打倒を呼びかけます。そして鎌倉幕府が事実上滅亡した翌日の5月23日に京都へ向けて船上山を出発し、上洛後、建武の新政を展開していくのです。

 東北の地に残された鎌倉幕府最後のものと思われる関東御教書。はからずも、それは伯耆国に関する内容を含むものでした。鎌倉時代から南北朝時代へと移り変わる時代の転換期においては、鎌倉や京都と並んで伯耆国も歴史の大舞台だったのです。

(注1)佐藤進一『古文書学入門』(法政大学出版局、1971)。ただし、三位以上を御教書とするという点については、熊谷隆之氏の批判がある。同氏「御教書・奉書・書下―鎌倉幕府における様式と呼称―」(上横手雅敬編『鎌倉時代の権力と制度』思文閣出版、2008年)を参照。

(注2)御教書は仰せの主体によって名称が異なり、綸旨(りんじ:天皇の仰せ)、院宣(いんぜん:上皇・法皇の仰せ)、令旨(りょうじ:皇太子などの仰せ)などがあった。

(注3)鎌倉幕府の職名。1213(建暦3)年に北条義時が政所(まんどころ)・侍所(さむらいどころ)の別当(長官のこと)を兼任して初代執権となった。以後鎌倉幕府滅亡まで北条氏が世襲し、幕府の実権を握った。

(注4)3代執権北条泰時の時に新設された執権の補佐役。公文書に執権と連名で加判した。代々北条氏一門が任じられた。

(注5)このほかにも六波羅探題・鎮西探題が発給した六波羅御教書・鎮西御教書がある。

(注6)竹内理三編『鎌倉遺文』(東京堂出版、1971~1997)全41巻および補遺編全5巻のうち、文書名が「関東御教書」であるものを集計。案文・写文書を含む。重複文書は除く。

(注7)江戸時代に秋田藩が藩士諸家から提出された文書を臨書し集成したもの。全61冊で3974点の文書を含む。

(注8)「秋田藩家蔵文書」巻20赤坂忠兵衛光康。

(注9)この文書の後に出された鎌倉幕府の発給文書は、「長楽寺文書」の正慶2年5月8日付の将軍守邦親王家寄進状(『鎌倉遺文』32114号、同書には「関東安堵状」とあり)が1点あるのみ。

(注10)このほか、天皇方であった伯耆国の豪族には、上神氏、巨勢氏らがある(『鳥取県史2中世』1973)。

(注11)『新訂増補 国史大系 21下』(吉川弘文館、1977)。

(注12)『鎌倉遺文』32051号。尊経閣所蔵文書。

*秋田県立公文書館の調査に関しては、鳥取大学地域学部教授の錦織勤先生、秋田県立公文書館学芸主事の加藤昌宏氏にお世話になりました。また関東御教書の位置づけについては東京大学史料編纂所助教の西田友広氏にご教示を賜りました。記して御礼申し上げます。

(岡村吉彦)

活動日誌:2011(平成23)年11月

2日
シベリア抑留聞き取り調査(八頭町、西村・清水)。
資料借用(琴浦町逢束自治公民館、清水)。
4日
中世史料調査(出雲市、岡村)。
資料調査(県立博物館、湯村)。
5日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、坂本)。
6日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、坂本)。
8日
古墳測量(湯梨浜町、湯村)。
10日
民具調査(日南町、樫村)。
11日
県史編さんに係る協議(鳥取大学、岡村)。
17日
第2回新鳥取県史編さん委員会(県立公文書館会議室)。
18日
県史編さんに係る協議(鳥取大学、岡村)。
22日
聞き取り調査協議(鳥取大学、清水)。
24日
資料調査(伯耆町溝口、清水)。
26日
鳥取地域学講座(学習院大学、湯村)。
29日
中世史料調査(~12月3日、秋田県立公文書館・山形大学附属図書館・東北大学附属図書館・仙台市博物館・新潟県立歴史博物館、岡村)。
民具調査(日南町、樫村)。
30日
資料調査(米子市淀江町中央公民館、清水)。

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編集後記

 年の瀬になりました。今回は鎌倉時代の最後の関東御教書に関する記事でした。その中にあった船上山はよいハイキングコースです。今は雪がありますが、春になったら後醍醐天皇の足跡をたどって、山頂近くの行宮跡などを散策してみることよいかもしれません。

 また年明けの1月には、待望の鳥取県史ブックレット10『鳥取藩の参勤交代』が刊行されます。詳細が決まり次第、ホームページでご案内させていただきますので、ご期待ください。

(樫村)

  

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