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明治の統計に残る天保の記憶

 少子高齢化が進み、人口統計にますます関心が集まるなか、今年、2010(平成22)年の10月1日には国勢調査が実施されます。

 日本で最初の国勢調査が行われたのは1920(大正9)年のことですが、もちろん、それ以前にも人口統計は存在しました。明治政府は、維新から間もない1872(明治5)年に戸籍編成を行い、以後、年々の出生・死亡・移動を加除することで人口を把握しています。その公表資料は、後の国勢調査に比べると精度が劣り、記載項目も年によってマチマチですが、当時の社会状況を知るための貴重な記録となっています。

 下の図は、1886(明治19)年12月31日現在の『日本帝国民籍戸口表』から作成した鳥取県の「人口ピラミッド」です。人口ピラミッドとは、男女別に各年齢の人口を横向き棒グラフにして積み重ねたもので、通常、一番下に満0歳の人口を、上にいくほど高齢の人口を表します。この図の場合、資料の記載にあわせて数え年による表示(一番下は数え年の1歳)になっていますが、知られる限り最も古い鳥取県の年齢別人口構成が描かれています。比較のため、現代の人口ピラミッドも掲げましょう。

1886(明治19)年の鳥取県の人口ピラミッド
2005(平成17)年の鳥取県の人口ピラミッド

 一見して、1886(明治19)年の人口ピラミッドは、若い年齢層ほど人口が多い「富士山型」と呼ばれる形状をしており、当時の人口が増大基調にあったことを示しています。人口減少へ転じた現代のものは、50歳代半ば以下で若いほど人口が少ない「つぼ形」をしており、ずいぶん対照的です。1886(明治19)年といえば、いわゆる「松方デフレ」が落ち着き、日本が本格的な経済発展へと歩みを進めた時期です。裾野がどっしりしたピラミッドの姿からも、当時の社会の活力を感じられるでしょう。

 とはいえ、この1886(明治19)年の人口ピラミッドのなかにも、ちょっとした膨らみやクビレの部分、つまり前後と比べて人口が多くなっている年齢層や少なくなっている年齢層がいくつか見られます。

 例えば、よく目立つのが50歳前後です。男女とも48~51歳くらいの人口が非常に少ないのです。とくに50歳の人口(男1,201人、女1,057人)は極端で、2歳上の52歳(男2,206人、女2,124人)と比べると半分程度に過ぎません。1886(明治19)年に数え年48~51歳というのは1836~39(天保7~10)年生まれの人たちですが、どうしてこれほど人口が少ないのでしょうか?

 すぐにお分かりの方も多いかと思います。理由は、「天保の飢饉」です。

 江戸三大飢饉の一つに数えられる天保の飢饉は、1833(天保4)年から東北地方を中心に甚大な被害をもたらしました。原因としては、冷夏などの異常気象による米の凶作と価格高騰、そして同時期に起こった疫病の流行も大きかったと考えられています。鳥取藩の場合、1836(天保7)年から被害が本格化、死者の数は、あまり厳密な資料に基づく数字ではないものの約2万人に達したといいます。

 江戸時代については明治以降のような人口統計は存在しませんが、幕府が命じた諸藩領人口(武士・被差別身分などは含まない)の調査結果が1721(享保6)年から断片的に残っています。それによれば、鳥取藩の人口は1834(天保5)年の調査まで増加基調にありました。緩やかながら全国的に見ると高い増加率です。ところが、1840(天保11)年の調査では、一気に約半世紀前の水準まで急落します。天保の飢饉が人口に与えた影響は、確かに大きなものでした。

江戸後期の鳥取藩の人口のグラフ

 しかし、歴史人口学者は、この時期の人口減少の要因として、死亡の増加だけでなく、出生の減少も重要だったと見ています。間引きなどの人為的な抑制と、栄養状態の悪化による出生力低下の影響です。

 実際、先ほどの人口ピラミッドのクビレは、ちょうど飢饉の被害が大きかった時期に生まれた年齢層に重なります。飢えや病が、ある程度成長した人よりも生まれたての乳児たちに大きな打撃を与えたのだとしても、少し上の年齢層と比べて極端に少ない彼らの人口は、当時の出生数そのものが落ち込んでいたことを窺わせます。

 天保の飢饉は、当時生きていた人びとの命だけでなく、新たに生まれてくる命の可能性も奪ったといえるでしょう。その記憶は、時代が明治へと大きく変わった半世紀後の人口統計のなかにも残されました。飽食の現代人のみならず、大規模な飢饉がなくなった明治時代の人びとにとっても、隔世の感だったかもしれません。

(注)天保の飢饉と人口に関しては浜野潔「気候変動の歴史人口学」(速水融ほか編『歴史人口学のフロンティア』東洋経済新報社,2001)など、鳥取県の被害状況は鳥取県編『鳥取県史 4 近世 社会経済』(1981)第3章-3を参照。

(図注)1886(明治19)年の人口ピラミッドは、内務省編『日本帝国民籍戸口表』より作図(国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」を利用)。なお、同年版の鳥取県編『鳥取県統計書』18-21丁に同様の表が収録。数え年による12月31日現在の本籍人口(年齢不詳者を含まない)。
2005(平成17)年の人口ピラミッドは、同年の国勢調査第1次基本集計より作図(政府統計ポータルサイトe-Statを利用)。9月30日現在の満年齢による翌日現在の常住人口。
江戸後期の鳥取藩の人口は、速水融「明治前期人口統計史年表:附幕府国別人口表」(『日本研究』第9集,国際日本文化研究センター,1993)第3表より作図。原資料は同論文を参照。武士・被差別身分などを含まない人口で、因幡国・伯耆国の合計値。

(大川篤志)

活動日誌:2010(平成22)年1月

2日
民俗(歳徳神信仰)調査(三朝町坂本、樫村)。
5日
民俗(弓浜半島のトンド)調査(境港市中浜地区、樫村)。
6日
資料調査(国立公文書館、西村・大川、~7日)。
7日
民具調査(湯梨浜町泊歴史民俗資料館、樫村)。
9日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、坂本)。
民俗(弓浜半島のトンド)調査情報交換会(米子市、樫村)。
10日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、坂本)。
民俗(弓浜半島のトンド)調査(境港市中浜地区、樫村)。
14日
鳥取城跡調査検討会(鳥取城跡発掘調査現場、湯村)。
民具調査(鳥取市佐治歴史民俗資料館、樫村)。
16日
おかやま歴史塾・鳥取県連携講座講師(岡山市山陽新聞社さん太ホール、岡村)。
20日
22日
鳥取城跡出土遺物検討会(鳥取市埋蔵文化財センター、湯村)。
25日
資料調査(鳥取市河原歴史民俗資料館、湯村)。
30日
学習院生涯学習センター講師・東京大学史料編纂所シンポジウム(学習院大学・東京大学、岡村)。

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編集後記

 鳥取県史ブックレット4『尼子氏と戦国時代の鳥取』を刊行し、2月から頒布を開始しました。県内はもとより、広島県をはじめ中国地方から数多くの問い合わせ、購入の申し込みがあり、遠くは関東地方からの購入申し込みもありました。お電話などでさまざまな御意見を頂戴し、改めて歴史に関心をもたれる方の多さを感じました。

 今後、ブックレットや資料編を刊行していく予定ですが、県民をはじめ多くの人々に関心を持っていただけ、利用されるものにしていきたいと思います。

(樫村)

  

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