第41回県史だより

目次

因幡・伯耆の戦国武将たち(その3):日野衆について

はじめに

 日野郡は鳥取県西部の山あいに位置する地域です。中世以来、この地は奥出雲と並ぶ鉄の産地であるとともに、出雲・備後・備中・美作と伯耆を結ぶ山間交通の要地でもありました。

 戦国時代、この地域には「日野衆」と呼ばれる地域領主たちがいました。当時の史料によれば、主な日野衆として、日野山名、進(しん)、日野、原、蜂塚(はちつか)といった名が確認できます。

 今回は、戦国時代の日野衆の活動についてとりあげてみたいと思います。

日野衆の出自

 日野衆の出自はさまざまですが、遅くとも鎌倉時代には日野郡内の各地に基盤を形成していたと思われます。中には、日野氏のように郡司(ぐんじ)として平安時代以前からこの地域に勢力を形成していた一族や(注1) 、進氏のように伯耆国の守護代(しゅごだい)として室町時代の政治権力の一端を担っていた者もありました(注2)

日野衆の勢力分布図
日野衆の勢力分布図

戦国時代の日野郡をめぐる動き

 戦国時代、交通の要衝である日野郡は軍事的な要地として周辺大名たちの争奪の対象となり、日野衆たちも戦乱に巻き込まれていきました。

 1510~20年代、まず尼子経久が出雲から伯耆へ攻め込みます。経久は、重臣たちを日野郡に派遣して直接的な支配を進めていきました。これは、1530年代に繰り広げられる美作・播磨侵攻へ向けた進軍ルートの確保が目的であったと考えられています(注3)

 この経久の侵攻を受け、生山(しょうやま)城(日野郡日南町生山)を本拠とする日野山名氏は国外に退去しました。そのほかの日野衆たちも、尼子傘下に降るか、国外に退去するかの選択を迫られていったと思われます。

 1562(永禄5)年、毛利元就が出雲・伯耆方面へ進出すると、国外に退去していた伯耆国人たちは帰国し、尼子方であった国人たちも次々と毛利氏に寝返りました。このとき日野衆も毛利氏に属したと思われますが、中には江尾(えび)城(日野郡江府町江尾)を拠点に反乱を起こした蜂塚氏のように、尼子氏と通じた者もいたようです。なお、この蜂塚氏の反乱は毛利軍によって鎮圧されています。

尼子再興の動きと日野衆

 その後、伯耆国は毛利氏の勢力下となり、日野衆たちも毛利氏に従っていましたが、1569(永禄12)年に尼子勝久や山中幸盛が出雲・伯耆で尼子再興の兵を挙げると、日野衆は尼子氏と手を結び、各地で軍事行動を繰り広げていきました。1570年頃の日野郡内における戦いでは、日野山名氏をはじめ、日野・進・原氏らが尼子軍として活動しています(注4)

 その後、尼子軍は毛利氏や山名氏の反撃により劣勢に追い込まれますが、日野衆は一貫して尼子氏を支え続けていきました。

 やがて、織田・毛利戦争が始まると、1578(天正6)年、羽柴秀吉は尼子勝久・山中幸盛に対し、毛利氏との最前線にあたる上月(こうづき)城(兵庫県佐用郡佐用町上月)の守備を命じます。このとき上月城に立て籠もった尼子軍の中に、日野氏や進氏の名がみえます。

 同年7月、毛利軍の猛攻を受け、上月城は落城に追い込まれました。落城直前に毛利が尼子に宛てた起請文(きしょうもん)(注5) の宛名をみると、立原久綱、山中幸盛といった重臣とともに日野五郎の名がみえます(注6) 。また山中幸盛の最後の書状と伝えられる感状(注7) は、進氏一族に宛てたものです(注8) 。これらのことから、日野衆たちが最後まで尼子軍と行動をともにしていたこと、彼らが尼子軍の中で重要な立場にあったことがわかります。

おわりに

 上月城が落城した後の日野衆の足取りは定かではありませんが、日野・進氏らは毛利氏に投降し、その後は毛利配下としての道を歩んだものと思われます。このうち、日野氏については、毛利軍とともに朝鮮へ出兵し、その後は小早川氏の配下となって筑前や美作に所領を与えられていることが史料から確認できます(注9)

 このように、戦国時代の日野衆は、毛利・尼子といった戦国大名の対立の狭間で、さまざまな活動を展開していきました。本拠を離れ、敗者となりながらも、彼らは戦乱の世をたくましく生き抜いていったのです。

(注1)郡司は郡内の政務を行う地方官。主として国造の系譜を引く有力な地方豪族が任じられた。『源平盛衰記』に「日野郡司義行」とみえる。

(注2)寛正5(1464)年5月4日山名教之遵行状(「上賀茂神社文書」)。なお守護代とは在京する守護に代わって任国の政務を行う代官。

(注3)長谷川博史著『戦国大名尼子氏の研究』(吉川弘文館、2000年)

(注4)「米井家文書」(藤井駿・水野恭一郎編『岡山県古文書集 第3輯』思文閣出版、1956年)

(注5)約束・契約事をする際に、それが真実であり、違背した場合は神仏の罰を受けることを誓約する文書。

(注6)(天正6年)7月5日吉川元春外3名連署起請文写(「譜録」天野毛利、山口県文書館蔵)。

(注7)武将が戦功のあった者に対して与える賞状。

(注8)天正6年7月6日山中幸盛感状(山口県文書館編『萩藩閥閲録』第3巻、1968年、763頁)

(注9)『萩藩閥閲録』巻29日野参照。なお、日野五郎については、上月城落城後、亀井茲矩の配下として鹿野へ赴き、茲矩が朝鮮へ出兵している隙に乱暴狼藉を働き、帰国した茲矩に誅罰されたという伝承がある(『鹿野町誌 上巻』)。鹿野町の幸盛寺には、日野五郎のものと言われる五輪塔が伝わっている。

(岡村吉彦)

室長コラム(その34):武士は税金を払ったか?

 先日、県民の方からお電話で、「江戸時代の武士は税金を払ったのか?」というお尋ねをいただいた。その方は、藤沢周平原作の時代劇映画を御覧になったそうで、その中で登場人物の一人が、「自分は本来の石高の半分程度しかもらっていない」という趣旨の話をしており、それが事実とすれば、もらえなかった分は、現在でいえば税金のようなものなのか、という御質問だ。

 私もその映画は見たはずだが、そのような場面は全く記憶がなかった。そのため、映画の中でどのような設定であったのか、正確にはわからないが、一般論として、以下のようなお話しをした。

 武士の給料の仕組みは、藩によって、また一つの藩内でも身分の上下によって、様々な違いがあるが、鳥取藩の場合は、例えば、石高が百石の武士は、米百石が生産できる土地を与えられているという意味で、その土地で収穫した米は、当然耕作者である農民の再生産のためにも必要であるから、年貢として納められるのは、百石の内の何割かである(鳥取藩の場合は、平均すると5割弱)。百石取りの武士といっても、百石の米を丸々もらえるわけではなく、年貢として納められた部分がもらえるという意味であり、したがって、石高の百石と実際の収入との差は、税金として引かれたわけではない。武士は基本的には税金を払うことはない。

 江戸時代と現代では、社会の制度や考え方が大きく異なっているため、現代人の感覚ではなかなか江戸時代のことを理解しがたいが、質問者には何とか納得いただけたようだった。ただ、これ以上説明すると、かえって混乱すると思い、お話ししなかったことがある。

 武士が領地を与えられるということは、本来はその領地の年貢が全てその武士に入るはずで、実際に江戸時代の初めまではそのように行われていた。しかし、藩内には年貢率の高い村と低い村があり、与えられた土地によっては、同じ百石取りの武士でも収入に大きな差が生じることがあった。それでは不公平だとして、鳥取藩は明暦2(1656)年、武士の取り分をその年の藩内平均の年貢率とし、同じ石高の武士は同じ量の米が支給されることとした。その結果、個々の武士が持っていた年貢徴収権は藩に移り、武士と領地の関係は薄れた。さらに藩は、寛文7(1667)年に武士の取り分を一律石高の4割と定めた。この二つの改革により、領地の違いによる不公平は無くなったが、多くの武士にとっては、実質的な減給となった。

 さらに、藩財政が悪化する中で、藩は「御借上(おかりあげ)」、つまり武士から給料を借りるという名目で、給与カットを行う。最初に行われた寛文10(1670)年の場合、石高の1割を借上げているが、現在で言えば、25%の給与カットということになる。この後、一時は4割にもどったものの、再び「御借上」が行われ、幕末には、石高の1割しか支給されない時代もあった。江戸時代初期に比べ、給料が4分の1以下という時代もあったのである。

 武士は税金を払っていたわけではないが、給与削減を受け入れるという形で藩財政に貢献したと言える。藩が武士から借りた建前になっている給与は、結局武士に返ってくることはなかった。武士の暮らしも決して楽ではなかったのである。

(県史編さん室長 坂本敬司)

活動日誌:2009(平成21)年8月

1日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、坂本)。
2日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、坂本)。
3日
近代・現代資料調査(~4日、米子市尚徳公民館、西村・大川)。
6日
民具調査(鳥取市佐治町、樫村)。
7日
人権尊重社会を実現する鳥取県研究集会(とりぎん文化会館、西村)。
9日
民俗(赤松池権現祭)調査(大山町赤松、樫村)。
11日
資料返却及び借用(琴浦町箆津、坂本)。
13日
民具調査(鳥取市歴史民俗資料館、樫村)。
19日
中世史料調査(~22日、山口県下関市・山陽小野田市・熊毛郡平生町・岩国市、岡村)。
近代・現代資料調査(米子市尚徳公民館、西村・大川)。
21日
資料調査(鳥取市あおや郷土館、湯村)。
27日
考古部会調査協議(鳥取大学、坂本・湯村)。
28日
資料借用(鳥取市あおや郷土館、湯村)。
31日
資料返却(鳥取市埋蔵文化財センター、湯村)。

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編集後記

 考古部会では、鳥取県東部最大級の前方後円墳である、古郡家(ここうげ)1号墳の墳丘測量を実施するなど、調査活動を推進しています。今後これらの調査から明らかになったことは、県史だよりでお知らせします。御期待ください。

(樫村)

  

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