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鳥取県にはいつから人が住み始めたか

旧石器時代とは

 皆さんは、旧石器時代(きゅうせっきじだい)という時代をご存じでしょうか。

 今から約1万年前に土器が発明されたのですが、旧石器時代はそれ以前の時代を指しています。土器はまだなく、金属も使用されていない時代で、木や骨は道具として使っていたようですが、もっぱら石を利用した道具(石器)を使用していた、いわゆる石器時代です。今のところ世界最古の石器は約200万年前とされていますが、人類が誕生したのは500万年前とも600万年前とも言われていますので、旧石器時代の研究者は気の遠くなるような長い時間を研究対象としているのです。

 今から3万年前を少しさかのぼる頃から土器出現までを後期旧石器時代と呼びますが、日本ではこの頃の遺跡が3,000箇所以上見つかっており、狩猟に使われた石器を中心とした、地域性のある石器文化が栄えたことがわかっています。

鳥取県の旧石器遺跡

 鳥取県でも、旧石器時代の石器またはその可能性のある石器が10箇所以上で見つかっています。これらの多くはナイフ形石器と呼ばれる石器です。割り取った石のかけら(剥片)は縁が刃のように鋭くなっていますが、ナイフ形石器は鋭い刃を先端付近に残して、そのほかは刃を潰すような加工を加えたものです。狩猟具として槍先に取り付けたと考えられていますが、場合によっては、名前のとおりナイフのようにものを切ることもあったようです。

 このほかに、縄文時代の初めにかけて使われたと思われる槍先形の石器が、大山山麓を中心に約40点出土しています。

鳥取県最古の石器は

 これらの石器は地表面に落ちていたものが採集されたり、発掘調査で出土しても本来その石器が包含されていた土層から遊離したものであったりと、時期の特定が難しい場合が多かったのですが、平成16年に発掘調査が行われた大山町(旧名和町)の門前(もんぜん)第2遺跡では、現在の鹿児島湾付近にあった火山の噴火により降り積もった姶良丹沢(あいらたんざわ)火山灰層(AT層)の直下から、ナイフ形石器を含む128点の黒曜石製石器が出土しました。AT層は今から約2万6千年前頃に降り積もった火山灰であることがわかっています。また門前第2遺跡出土の石器群は、後期旧石器時代初頭の石器群とは特徴が異なっているため、今から約2万6千年前から3万年前の間に使われたものと考えられます。現時点では、この門前第2遺跡出土石器が鳥取県最古の考古資料ということになります。

 鳥取県は大山を噴出起源とする火山灰層の堆積が、比較的良好に残っています。こうした火山灰層は噴出した年代がわかっているものが多いため、今後、年代のわかる旧石器の発見例が増加することが期待できます。それに伴い門前第2遺跡よりも古い石器も、きっと見つかることでしょう。

門前第2遺跡のナイフ形石器の写真
門前第2遺跡のナイフ形石器
『名和町内遺跡発掘調査報告書』(名和町教育委員会,2005)より

 県史編さん室では、新鳥取県史編さん事業として県内の主要遺跡や出土品を網羅した考古資料編を刊行していきます。旧石器時代の遺跡も収録しますので、鳥取県最古の住人についてご紹介できると思います。

(湯村 功)

室長コラム(その32):御蔵奉行とは、どの程度の役職か

 先日、鳥取市青谷町の歴史グループの依頼を受けて、江戸時代の青谷についてお話しさせていただく機会があった。鳥取市街地から西へ約20キロに位置する青谷は、現在、青谷上寺地遺跡で注目を集めているが、江戸時代には、藩の御蔵(おくら)が置かれ、港町としてにぎわった町だ。そこで、お話しするテーマの一つに、御蔵を取り上げることとした。

 江戸時代の年貢は基本的には米で納められたが、農民が実際に年貢を納める場所が、藩の御蔵である。鳥取藩の御蔵は、鳥取・米子・倉吉の3つの主要都市の他に、海岸部に「灘御蔵」と呼ばれる御蔵が9ヵ所に設けられていた。その位置を現在の地名で東から順に挙げると、岩本(岩美町)・浜村・青谷(以上鳥取市)・橋津(湯梨浜町)・由良(北栄町)・逢束・赤碕(以上琴浦町)・御来屋(大山町)・淀江(米子市)である。

 灘御蔵は、藩から派遣された御蔵奉行と御蔵目付によって管理された。御蔵奉行は藩の勘定方から、御蔵目付は在方から派遣されるが、これは二人が相互に牽制することによって、不正が起こらないよう配慮したものだろう。

 ところで、「御蔵奉行」と聞くと、かなりの重役のように感じられるかもしれないが、実際には御蔵奉行の身分はさほど高くない。鳥取藩の武士身分は、戦争の際に馬に乗って戦う「士」の身分と、徒歩で弓・槍・鉄砲を持って戦う「徒(かち)」の身分の2つに大きく分けられるが、御蔵奉行の身分は、「士」ではなく、「徒」の最上層あたりで、全体で見れば中程に位置すると言える。

 具体的な御蔵奉行の例として、江戸時代の中頃、元文元(1736)年10月23日の「家老日記」の中に見える、田中喜蔵という御蔵奉行の経歴を見てみよう。

 田中は、延宝8(1680)年、飛脚の仕事を行う「御早道(おはやみち)」として藩に召し出され、7年後の貞享3(1686)年、2代藩主綱清の「押(おし)」(行列の先頭で通行人を鎮める役)となり、これを17年勤めた。この間の身分は、「無苗(むみょう)」であり、苗字を名乗ることができない最末端の役人である。元禄15(1702)年、「名字附(みょうじつき)」の身分となって初めて苗字を許され、仕事も鳥取城の裏側の山を管理する「円護寺御山奉行」となり、次いでその翌年には、「名字附」から「御弓徒(おゆみかち)」の身分に上がり、鳥取城の「中ノ御丸御門上番」となる。宝永7(1710)年には、「御弓徒」から「御徒」の身分に上がり、「御本丸御酒奉行」を命じられ、6年間それを務めた後、正徳5(1715)年、「赤崎御蔵奉行」に任命される。(ここで初めて御蔵奉行となるわけだが、奉公を始めてから35年が過ぎており、年齢は50才を超えていただろう。)その後、赤崎御蔵奉行を16年勤めた後、享保15(1730)年に「青屋御蔵奉行」へ異動、さらにその翌年「由良御蔵奉行」へ異動、記録が書かれた元文元(1736)年まで6年勤めており、藩に召し出されて以降、通算57年にわたり奉公している。

 以上の経歴は、老年になった田中が、後継ぎとして息子に自分と同じ待遇を相続させて欲しいと願い出た書類に書かれたものだが、御蔵奉行を務めるような役人の典型的なライフコースを示している。若い頃、藩の下働きのような仕事を地道に務めて経験を積み、年功を積むことによって身分を少しずつ上昇させ、実務能力を買われて、御蔵奉行に任命される。考えてみれば、御蔵奉行は、近辺に武士がほとんどいない地域で、相手にするのは年貢を納める農民や米を販売する商人たちである。このような仕事は、経験豊富な、いわば「たたき上げ」の人でなければ務まらない。御蔵奉行という役職は、藩の最下層出身の役人にとって、長い経験を経て最後に上り詰めていくゴールの役職だったといえるだろう。

 ただし、先に記したように、その身分は藩全体の中では低い。「士」の身分の家であれば、基本的に家の相続は無条件で許されるが、「徒」の家は原則一代限りであり、田中喜蔵の場合も、57年も務めながら、このように願い書きを出さなければ、相続が認められなかった。

 「奉行」と名が付けば、全て偉い人のように思ってしまいがちだが、実は「奉行」という言葉は、「その任にあたる人、係りの人」の意味で、必ずしも高い身分を指すとは限らない。青谷では何とか無事に講演を済ませたが、偉いと思っていた青谷の御蔵奉行が、実はさほど偉くなかったとわかって、少しがっかりした人もいたようだ。

(県史編さん室長 坂本敬司)

活動日誌:2009(平成21)年6月

5日
第1回県史編さん専門部会(考古)開催。
6日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、坂本)。
7日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、坂本)。
研修講師(鳥取市解放センター、西村)。
10日
鳥取学講師(鳥取環境大学、岡村)。
11日
民具調査(湯梨浜町泊歴史民俗資料館、樫村)。
13日
民俗(菖蒲綱引き)調査(~14日、鳥取市気高町宝木、樫村)。
15日
史料借用(琴浦町箆津、坂本)。
民俗部会長、副部会長協議(米子市、樫村)。
16日
近代・現代部会長協議。
民俗・民具調査(米子市彦名町、樫村)。
17日
鳥取学講師(鳥取環境大学、坂本)。
18日
民具調査(湯梨浜町泊歴史民俗資料館、樫村)。
23日
第2回県史編さん専門部会(近代)開催。
中世史料調査(~26日、山口県防府市・山口市、岡村)。
民俗調査(若桜町吉川、樫村)。
30日
資料調査(大山町上万・壹宮神社、樫村)。

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編集後記

 今月号は、4月から考古担当として県史編さん室に配属となった湯村専門員が初めて執筆しました。鳥取県の考古学に関心をもたれている方は、多いと思います。これから年間3回ほど考古に関する情報を「県史だより」で、お知らせしていきます。どうぞ御期待ください。

(樫村)

  

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