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「節米」のススメ?

 今から約90年前、1920(大正9)年3月発行の日野郡江尾村(えびそん、現在は江府町)の広報誌に、鳥取県内各学校から募集した「節米標語」の優秀作品7点が掲載されています(注1)

混食は 毎日出来る 貯金なり

 上記の標語もその一つで、鳥取師範学校のSさんによる作品です。

 この標語が呼びかけているのは、「混食」による「節米」、つまり、米に麦や雑穀などを混ぜて食べることで米の消費を抑える、ということです。しかし、それが「貯金なり」とは、現在の若い世代が見れば、あまりピンと来ないメッセージかもしれません。

 米は日本の食文化を象徴する主食ですが、近代化以前の農村部では、麦・雑穀・甘藷などといった様々な食物も主食として食べられていました。そして、明治時代になると米食が進展、米の1人あたり消費量は次第に増えていきます。明治後半には、膨らむ米の需要に対して生産量が追いつかなくなり、安価な外国米の輸入が増加します。この頃の米は、取引が自由だったため投機対象にもなり、作柄などによって米価は大きく変動しました。

 こうした社会背景のなかで起こったのが、1918(大正7)年の米騒動です。ときの寺内正毅(てらうち まさたけ)首相は責任をとって退陣、日本初の本格的政党内閣といわれる原敬(はら たかし)内閣が発足します。原内閣は、寺内内閣に続いて外国米買付政策を打つとともに、節米の奨励にも取り組みました。

 先に見た鳥取県における「節米標語」の募集も、このような流れのなかに位置付けられる歴史の一コマなのです。

 実際、当時の鳥取県における米の需給状況はどうだったかというと、明治・大正時代を通じて、1人あたり生産量は全国平均を上回っており、移出量も少なくありませんでした。明治時代の物流統計のほとんどは主要港だけを対象としていますが、1888(明治21)年を対象に行われた悉皆的な調査によると(注2)、県内の粳米(うるちまい)生産量は約48万6千石(約7万3千トン、1石=150kgで換算)で、移出量はその4割弱に相当する約19万石(約2万9千トン)にのぼり、主に近畿地方や島根県へと輸送されていました。一方の移入量は約5千石(約750トン)でしたから、全体としては相当な移出超過だったわけです。

図1「1人あたり年間米生産量の推移」

 明治末期になると、毎年、詳細な物流統計が記録されるようになります(注3)。それによると、山陰線の登場によって境港での米の取引規模が縮小したため、県全体の米移出入量も大正時代にかけて激減しました。そのなかでも、米は一貫して移出超過でしたが、外国米の移入はとくに米騒動前後に増加、1918(大正7)年には米の県内供給量の約16%を輸入米が占めました(注4)

図2「鳥取県の年間米移出入量の推移」

 これら安価な輸入米の多くは、貧困層の食卓にあがったと考えられます。やや時代を遡りますが、1904(明治37)年発行の岩美郡美保村(みほそん、現在は鳥取市)に関する調査書は記しています。一般の常食は米1升に麦3~6合を混ぜた「半麦飯」だけれど、「最も貧賤なる者に至りては、支那米に上に述べたる割合を以て麦を加へ食するものあり」、と(注5)

 しかし、外国米の味と匂いは、容易には人々に受け入れられませんでした。この点、1993(平成5)年の不作による外国米輸入の顛末を思い起こす方も多いでしょう。また、麦と比べても、人々が国産米の風味を好んだことは、周知のところです。

 そのため、節米の呼びかけのなかには、しばしば味に関する言及が見られました。冒頭の「節米標語」のなかにも、次のような作品があります。

働いて 食へば麦でも 米の味 (米子高女、Mさん)

 具体的な解説によって麦食を勧めている例としては、1903(明治36)年発行の『鳥取県農会報』に収録された「麦を常食とすべし」という記事を挙げられます(注6)。そのなかで著者の山瀬立堂(幸人)は、米飯を上等、麦飯を下等としてきた日本人の習慣を、「蒙昧(もうまい)時代の遺物なり」と一刀両断しています。麦のタンパク質含有量が米よりも多いという栄養学的根拠を強調しつつ、若干の例示とともに麦の美味しい調理法を研究する必要を説いている点など、この記事はなかなか興味深い内容となっています。

 しかし、山瀬の最大の問題意識は、おそらく別の部分にあったと思われます。記事の最後で彼は、毎年の外国米輸入額は日本最大の輸出品である生糸の輸出額の半分に達する勢いであり、さらに(食料を必要とする)人口は増加し続けている、と指摘しています。山瀬にとって、麦食は貿易収支を改善する手段という意識があったのです。実際、第一次世界大戦期の輸出ブームを除くと、明治・大正時代の貿易収支は赤字傾向にありました(注7)

 その意味においては、麦食が「貯金」だというSさんの標語は、家計における食料費の節減だけではなく、国レベルの勘定に関するメッセージと解釈することができるでしょう。

(注1) 『江尾村月報』第18号(日野郡江尾村役場,1920,鳥取大学附属図書館所蔵)10頁。

(注2) 『鳥取県勧業雑報号外 生産力、物貨輸出入調査及農事統計表』(鳥取県第一部農商課,1890)。

(注3) 『鳥取県輸出入統計』各年版(鳥取県)。

(注4) 図1・図2の資料から、次の式によって計算(貯蔵米の変化分は捨象しています)。
県内供給量=県内生産量+移入量-移出量

(注5) 『岩美郡美保村是』(1904)6丁。

(注6) 『鳥取県農会報』第76号(鳥取県農会報,1903)2~4頁。この記事は、1902(明治35)年10月の東伯郡農会での演説を基にした投書です。投稿者名は「山瀬立堂」となっていますが、山瀬幸人は「立堂」の号を用いることがありました。例えば、金田進編『鳥取県百傑伝』(山陰評論社,1970)37頁に収録の書(倉吉市立図書館の山脇氏の御教示によります)、岡田朋治編『御大典紀念 鳥取県人物誌』(因伯社,1932)150頁。

(注7) 山澤逸平・山本有造『貿易と国際収支』(長期経済統計14,東洋経済新報社,1979)第2章。

(参考文献)米食の全国的概観についての記述は、大豆生田稔『お米と食の近代史』(吉川弘文館,2007)によります。

(大川篤志)

活動日誌:2008(平成20)年6月

1日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、坂本)。
2日
民具調査(倉吉市、樫村)。
3日
民具調査(倉吉博物館、樫村)。
4日
満蒙開拓青少年義勇軍聞き取り調査(倉吉市、西村)。
鳥取環境大学「鳥取学」講義(鳥取環境大学、岡村)。
5日
満蒙開拓青少年義勇軍資料調査(~7日、茨城県水戸市内原町郷土史義勇軍資料館ほか、西村)。
民具調査(鳥取市佐治歴史民俗資料館、樫村)。
7日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、坂本)。
9日
民俗調査(県東部海岸部、樫村)。
11日
満蒙開拓青少年義勇軍聞き取り調査(鳥取市国府町、西村)。
鳥取環境大学「鳥取学」講義(鳥取環境大学、坂本)。
12日
中世石造物調査(大山町、岡村)。
13日
第1回県史編さん専門部会(民俗)開催。
16日
満蒙開拓青少年義勇軍聞き取り調査(米子市・南部町、西村)。
19日
史料調査(倉吉市、坂本)。
民具調査(鳥取市佐治歴史民俗資料館、樫村)。
20日
第1回県史編さん専門部会(近世)開催。
満蒙開拓青少年義勇軍聞き取り調査(倉吉市、西村)。
民俗調査(北栄町、樫村)。
25日
中世史料調査(~27日、島根大学・島根県立図書館、岡村)。
近代部会についての打合せ(県庁・鳥取市歴史博物館、大川)。
民俗調査協議(岩美町教育委員会、樫村)。
27日
鳥取大学附属中学校生徒、職場体験で来室。

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編集後記

 もうすぐ北京五輪が開幕します。

 なんでも、今回の選手村の食事は過去最高という評判があるのだとか。その当否はわかりませんが、いずれにしても、厳しい試合に臨む選手団にとっては、身体面・精神面のコンディション管理の上で、食事は重要な関心事なのでしょう。われわれ応援する側の関心は、中継を観ながら何を飲んで何をつまむか、という程度のことですが…。

 ともあれ、今回の記事は、日本選手が初参加した1912(明治45)年のストックホルム五輪の頃の主食にまつわる小話です。

(大川)

  

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