第26回県史だより

目次

「大永の五月崩れ」再考

はじめに ―史料批判の重要性―

 歴史学においては、信憑性の高い史料に依拠しているかどうかが重要であることは言うまでもありません。しかし、一次史料の少ない時代や地域を対象とする場合、後世の写しや編纂物の記述を活用せざるを得ない場合もあります。そのような場合は、信用に値する内容かどうか、あるいはその根拠がどこにあるのかを検証することがまず必要となります。ところが、実際はそのような検証が十分にされないまま、後世の記述が安易に引用され、通説となっているものも少なくありません。

通説とされる「大永の五月崩れ」

 今回は、その一例として「大永の五月崩れ」を取り上げてみたいと思います。この「大永の五月崩れ」とは、大永4(1524)年5月中旬に尼子経久が大軍を率いて伯耆へ攻め込み、国内の諸城を一気に攻め崩し、有力な国人らは国外に退去して、短期間のうちに伯耆一円が尼子領になったというものです。

 これは、江戸時代の地誌『伯耆民談記』(注1)(以下『民談記』と略す)にみられる記述です。これまで『鳥取県史 2 中世』 (注2)をはじめ多くの自治体誌や歴史書において採用され、通説的位置を占めてきましたが、実はその根拠や真偽について十分な検証がなされてきたわけではありません。

史・資料に見る「大永の五月崩れ」

 ここでは、「大永の五月崩れ」の根拠について、他の史・資料との比較を中心に若干検討を加えてみたいと思います。

 まず、関係する一次史料ですが、大永4年5月に尼子氏が伯耆国内に侵攻したことを示す同時代史料は、管見の範囲では見あたりません。わずかに天文4(1535)年8月の「大山寺僧慶政勧進簿写」(注3)に「去る大永初めに俄に軍勢が蜂起し…」という記述がみられます。しかし、尼子軍のことか、また大永4年のことかどうかは定かではありません。

 次に、近世初期に書かれた他の覚書・軍記類の記述をみてみましょう。以下の表は尼子氏の伯耆進出について書かれた記述を集めたものです。これをみますと、尼子氏の伯耆侵攻に関する記述は、近世初頭の覚書・軍記類に意外と多く登場していることがわかります。

軍記等にみる尼子氏の伯耆侵攻についての記述内容

「房顕覚書」(1580年)

尼子伊与守経久、雲州・因輪(因幡)・伯耆我儘に切平け、当国に至り西条鏡の城を切り取り帰陣す…

『安西軍策』(1660年以前)

(大永四年)尼子は正月より伯耆国へ発向し、山名と度々戦い、数ヵ城を切取ければ、山名入道堪えず因州へ引退けれとも、合戦は未だ進退やまず…

『陰徳記』(1660年)

経久は当(大永四年)正月中旬より伯耆の国へ発向し、山名と数ヶ度合戦に及けるか、与土井(淀江)・天満・不動ヵ獄・尾高・羽元石(羽衣石)・泉山己下数ヶ所の城郭を責落しける間、山名入道国に堪えず、因幡をさして逃入、…

『陰徳太平記』(1695年)

経久は当(大永四年)正月中旬より伯耆国へ発向し、山名の領内与土井(淀江)・天満・不動岳・尾高・羽衣石・泉山等数ヶ所の城郭を攻め落とされける間、南条豊後守宗勝・小鴨掃部助・小森和泉守・山田・行松・福頼等の者共、国を去つて、因幡・但馬へ引退き、…

『羽衣石南条記』(1720年頃)

先年、尼子経久の為に居城を追出されたる伯州諸々の城主、流浪の身となりけるが…

「山田氏覚書」(年不明)

大永四年雲州尼子隣国之催大勢、伯耆ノ国へ乱入、数日合戦不止、終ニ山名家并幕下ノ各モ伯州を退出…

『伯耆民談記』(1742年)

大永四年五月中旬、雲州の尼子伊予守経久、大軍を卒して当国に攻入り、山名の領分、淀江・尾高・天満・不動ヶ岳の城々を切落し、又東伯耆の内に押かけ、八橋・大江・岩倉・堤の諸城を追散らし(略)、当国の諸将南条を始め、山名・福頼・山田等棊倒しの如く敗軍して、山名数代相伝の家城を立去り漂泊の身となりたり、此戦乱を五月崩れとて今に民諺に言い伝ふ

 この表から指摘できる点は、以下の通りです。

 まず、『民談記』の「大永の五月崩れ」の内容をみますと、『陰徳期』『陰徳太平記』の内容に極めて類似していることがわかります。実は、『民談記』をつぶさに調べてみますと、随所に『陰徳太平記』の書名や内容が引用されており、『民談記』が『陰徳太平記』の影響を大きく受けていた可能性が指摘できるのです。この尼子氏の伯耆侵攻に関しても、侵攻時期を除けば、攻略した諸城や国人名など重複するものが多く、両者の関係性が指摘できます。

 しかし、その一方で、尼子氏の伯耆侵攻の時期については大きく異なります。「五月崩れ」の言葉が示すように、『民談記』では尼子氏の侵攻時期を大永四年「五月中旬」としていますが、『陰徳太平記』『陰徳記』はいずれも「正月中旬」としており、「五月」という時期はどこにも見あたりません。つまり「五月」「五月中旬」という尼子の侵攻時期は、『民談記』において初めて登場したことが指摘できるのです。しかし、『民談記』中には、その根拠となりうる具体的な記述はみられません。わずかに「老民の諺」「民諺」とあるのみであり、現時点では民間伝承以外の根拠は確認できないと言わざるを得ません。

まとめ ―再検討が必要な「大永の五月崩れ」―

 長年にわたり、多くの自治体誌や歴史書で通説とされてきた「大永の五月崩れ」ですが、このように考えますと、まだ検討の余地を多く含んでいると言えます。近年、一次史料からの検証が進んでおり、尼子氏の伯耆侵攻が『民談記』にあるような短期間に電撃的に行われたものはなく、永正年間以降数多くの合戦を繰り返しながら徐々に伯耆国内に勢力を拡大したものであったことなどが明らかにされつつあります(注4)。現時点では、このような成果を着実に積み重ねて、史実に迫っていくことが大切だと思われます。少なくとも、関係史料が乏しいからといって、その根拠や信憑性を十分検証しないままに、後世の編纂物の記述を安易に史実として鵜呑みにすることは、慎まなければならないと思います。

(注1)寛保2(1742)年成立。著者は松岡布政(鳥取藩士、倉吉出身)。全15巻。「地理」「神社仏閣」「古城政所」の三部から成る。ほぼ同内容のものに『伯耆民諺記』がある。

(注2)鳥取県、1973年。

(注3)沼田頼輔『大山雑考』(稲葉書房、1961年)所収文書。

(注4)高橋正弘『因伯の戦国城郭 ―通史編―』(自費出版、1986年)、拙稿「戦国時代の伯耆国における戦乱史」(鳥取県中世城館分布調査報告書 第2集(伯耆編)』鳥取県教育委員会、2004年)。

(岡村吉彦)

活動日誌:2008(平成20)年5月

3日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、坂本)。
4日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、坂本)。
7日
満蒙開拓青少年義勇軍聞き取り調査(米子市、西村)。
10日
県史編さん専門部会長会議(公文書館会議室)。
12日
民具調査協議(日吉津村役場、樫村)。
13日
民具調査(日南町、樫村)。
15日
中世石造物調査(大山町、岡村)。
民具調査(鳥取市佐治歴史民俗資料館、樫村)。
16日
鳥取市立北中学校生徒1名が職場体験。
18日
県史巡回講座(県立図書館)。
21日
熊野神社調査(鳥取市佐治町、坂本)。
22日
民具調査(鳥取市佐治歴史民俗資料館、樫村)。
25日
県史巡回講座(倉吉未来中心・米子市文化ホール)。
26日
満蒙開拓青少年義勇軍聞き取り調査(鳥取市気高町浜村、西村)。
29日
民具調査(鳥取市佐治歴史民俗資料館、樫村)。

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編集後記

 今回の「県史だより」は中世担当の岡村専門員に、史料批判の重要性について執筆いただきました。歴史学、そして民俗学においても利用する史(資)料の検証は不可欠です。これは常に言われてきていることであります。しかし、改めて今まで「通説」とされてきたものでも、その基礎史(資)料となっているものから再検証することが重要であると考えさせられます。その検証には県史等の史(資)料編が大きな役割を果たすことが多いですが、我々の事業の責任の重さを感じさせられました。

(樫村)

  

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