これまで令和3年度に行った古代山陰道の追加調査成果をお伝えしてきましたが、その他に注目されるトピックスをご紹介します。
今回は、今年度新たに大規模な道路遺構が発見された青谷西側丘陵の青谷大平(あおやおおひら)遺跡で出土した土器についてです(写真1)。土器は道路遺構の路面部分を調査中に出土したもので、須恵器の平瓶(ひらか、もしくはひらべ)と呼ばれる容器です。破片を接合し復元すると、図2のような形になります。年代は奈良時代と考えられます。
決して珍しい土器ではありませんが、住居跡などとは異なり、道路遺構は生活空間ではないことから土器がほとんど出土しないため、見つかった瞬間は、発掘作業員さんととても喜んだのを覚えています。また、それと同時に土器の少なさから推定が難しい道路遺構の年代を知る手がかりとなる貴重な発見として期待が膨らみました。しかし、残念ながら6その後の調査で、土器は道路遺構と偶然に重なる位置に掘られた新しい時代の穴から出土したことが明らかとなり、道路遺構から出土したとはいえなくなりました。
では、この土器は本来どこにあったのでしょうか?山の上なのでわざわざ遠くから持ち込まれたとは考えられず、近くに存在した何らかの遺構に伴っていたとみて間違いありません。ただし、遺跡周辺は険しい山の上のため集落が営まれるような立地ではなく、また、お墓なども見つかっていません。そのため、やはり、道路遺構との関連性を考えたくなります。実は古代の道路遺構を発掘すると、交差点などの要所には地鎮のために道路に穴を掘って土器を埋納するケースがあります。今回の土器も、ちょうど峠の頂部付近で出土した点は興味深く、もしかすると、因幡と伯耆の国境付近の険しい峠道を往来する人々の安全を祈願して地鎮が執り行われ、その際に埋納された土器だったかもしれません。
青谷大平遺跡の調査は、来年度も継続する予定であり、さらに道路遺構の年代や構造を解明していく予定です。

写真1 青谷大平遺跡で出土した須恵器片

図2 復元された青谷大平遺跡・出土の平瓶
[令和4年3月18日掲載]
令和4年3月刊行の鳥取県総合情報誌『とっとりNOW』vol.133に「青谷の古代山陰道」が特集されました。
『とっとりNOW』は、鳥取県の自然や歴史、人、産業、文化、スポーツなどの幅広い分野からさまざまな魅力を発掘し、発信する季刊情報誌です。今回は『今によみがえる弥生のWonderライフ』と題し、青谷上寺地遺跡と古代山陰道が取り上げられました。記事では、国内初のつづら折りの道路遺構など最新の調査成果や古代山陰道の魅力について、イラストや写真などをふんだんに使って紹介いただきました。
お近くの観光施設等で無料で配布されていますので、是非ご覧ください。また、下記サイトからもPDFデータでご覧いただけます。
『とっとりNOW』(外部サイト)←こちらをクリックしてください。

[令和4年3月掲載]
最終回となる4回目も、前回と同じく養郷宮之脇(ようごうみやのわき)遺跡の調査成果です。古代山陰道に直接関わるものではありませんが、興味深い出土品に古銭があります。古銭は養郷宮之脇遺跡のトレンチ10の表土から出土し、径2m前後の近接した範囲内で7枚がまとまって出土しました。出土した古銭を持ち帰り、泥をていねいに落として調べたところ、すべて中国銭であることが分かりました(写真1)。同じ種類のものはなく、最も古いものが621年に初鋳された開元通宝(かいげんつうほう)で、最も新しいものが1411年に初鋳された永楽通宝(えいらくつうほう)でした。いずれも日本では、中世から江戸時代初頭にかけて広く流通したお金といえます。
これらの古銭は年代からみて、古代山陰道を踏襲して後の時代につくられた古道との関係が注目されます。養郷宮之脇遺跡では古銭が出土した地点から20mほど登った古道沿いで、塞ノ神((さいのかみ)、道祖神(どうそじん)とも呼ばれます。)を祭ったとみられる石積みが見つかっています(写真2)。ちょうどこの地点に道祖神が描かれた絵図もあります。道祖神は、村境や峠などの路傍に祭られた神で、疫病や悪霊が侵入するのを防ぎ、通行人を保護するものと信仰され、供え物として古銭が出土することがしばしばあります。古銭の出土地点では、石積みなどの遺構は確認できませんが、峠における祭祀を考えるうえで重要な出土品といえるかもしれません。

写真1 養郷宮之脇遺跡で出土した古銭

写真2 養郷宮之脇遺跡の古道沿いに残る塞ノ神の積み石
[令和4年3月3日掲載]
3回目の今回は、国内初のつづら折りの道路遺構が発見された養郷宮之脇(ようごうみやのわき)遺跡についてです(図1)。養郷宮之脇遺跡については、当初の計画では、今年度の調査は予定していませんでしたが、つづら折りの部分の線形や道路規模などをさらに詳細に検討する必要性が生じたことから追加調査を実施しました。
調査は、昨年調査したトレンチ9周辺のヘアピンカーブ部分に残る道路痕跡にトレンチ10・11を追加して行いました。その結果、予想通り古道に沿って急カーブを描く道路遺構の側溝を確認することができました(写真1)。また、つくられた当初の道幅が約9mで、その後、道幅約6mに縮小する道路変遷も改めて確認することができました。
さらに、今回、古代道路を踏襲し、現地形に切通し状に残る古道に関しても新しい知見を得ることができました。古道がつくられた年代は不明ですが、江戸時代終りごろの絵図には里道として描かれていないことと、古道がその絵図に描かれた里道に壊されているため、それ以前の古い道と考えられます。
調査で路面部分を掘り下げたところ、石敷きの路面をもつことが明らかとなりました(写真2)。石敷きはまばらにしか残っていませんでしたが、1.5m前後の幅で敷かれていた可能性があります。また、古道の両端には路肩を保護するためか、大型の石が貼り付けられていることも分かりました。山中の峠道であるにも関わらず、石敷きの立派な道がつくられていることは、古代山陰道が廃絶した後もこのルートが、重要な交通路として使われ続けたことを示していると考えられます。

図1 養郷宮之脇遺跡の位置図

写真1 養郷宮之脇遺跡トレンチ10・11で見つかった道路遺構
(赤色のラインが当初つくられた幅約9mの道路遺構の側溝、黄色のラインが幅約6mの道路遺構の側溝)

写真2 古道の路面に敷かれた石と路肩を保護したとみられる大型の石
[令和4年2月22日掲載]
その2は、養郷狐谷(ようごうきつねだに)遺跡のトレンチ7についてです。トレンチ7は、鞍部に平行する方向に設定した調査区です(図1)。横断面に加えて縦断面を確認することで、鞍部の規模を推定し、土木事業量を推し量るとともに、古代山陰道を建設する以前の旧地形の復元を試みました。
この調査で最も難しいのは、どこに調査区を設定するかです。トレンチ1、4などのこれまでの調査成果に加え、航空レーザ測量なども参考に微地形を詳細に観察することで調査地点を選定しました。調査結果としては、想定どおり鞍部の肩部分を確認することができました(写真1)。これをもとに埋め立てた鞍部の範囲を復元すると、およそ長さ30~35m、幅20m前後と推定され、相当量の土を用いて埋め立てられたことが明らかとなりました。埋め立てに使われた盛土は、おそらく周囲の尾根を切通した際に生じた切土を利用したと考えられます。
アップダウンの激しい急峻な峠道ですが、尾根の高い部分を切り崩し、低い部分を埋め立て、高低差を最小限に抑えることで、駅路の高速性を維持しようとしたようすがうかがえます。

図1 養郷狐谷遺跡トレンチ7の位置と鞍部の関係

写真1 養郷狐谷遺跡トレンチ7道路盛土の断面
[令和4年2月14日掲載]
その1でお話しした養郷狐谷(ようごうきつねだに)遺跡のトレンチ4で見つかった、もう一つの注目すべき土木工法について紹介します。
丘陵尾根の鞍部(くぼ地)を埋め立ててつくられた道路遺構ですが、鞍部に土を直接盛るのではなく、一度表土などの盛土に適さない土をていねいに取り除いていることが分かりました。また、その際に地盤を階段状に整形(加工)していることが判明しています(写真1)。こうした工法は現代でも用いられ、「段切り」と呼ばれています。段切りは、斜面に盛土を行う際に階段状に地盤を削る工法で、上部に施される盛土との摩擦力を高め、盛土が崩落するのを防ぐ役割を果たしたとみられます。実は、同様の工法は養郷宮之脇(ようごうみやのわき)遺跡で見つかったつづら折りの道路遺構や、今年度新たに見つかった西側丘陵の青谷大平(あおやおおひら)遺跡の道路遺構でも用いられています。また、道路遺構ではありませんが、福岡県筑紫野市の前畑(まえはた)遺跡では大宰府周辺に築かれた土塁(防塁)遺構でも確認されています。
段切りは、古代の盛土工法に伴う土木技術として評価することができ、抑止杭とともに現代に通じる土木工法として注目されます。

写真1:養郷狐谷遺跡トレンチ4道路盛土断面
(黄色ラインが階段状に地山整形した部分)
[令和4年2月8日掲載]
今年度も重要な発見があった青谷の古代山陰道。昨年11月に開催した現地説明会や特別講演会などでその成果を発信してきましたが、その後も発掘調査委員会など有識者の指導をもとに追加調査を進めてきました。そこで、追加調査成果を4回シリーズで、いち早く皆様にお伝えします。
その1は、東側丘陵の養郷狐谷(ようごうきつねだに)遺跡のトレンチ4についてです(図1・2)。この調査区では、丘陵鞍部(尾根筋の低い部分)で大規模な道路盛土が確認され、盛土の両側に土留めとみられる杭の痕跡が見つかっています。追加調査では、杭が土留めとして列をなすのか、また、杭と杭の間に横板やしがらみ(杭と杭の間に木の枝や竹などを絡ませたもの)が存在するのか、を確認しました。
調査の結果、太さ20~30cmと推定される杭の痕跡が多数確認され、杭が密集して打ち込まれていることが明らかとなりました(写真1)。予想とは異なり、杭はきれいに並ばず、横板やしがらみの痕跡も確認できませんでした。そこで、土木工学の先生に見ていただいたところ、「抑止杭(よくしぐい)」の可能性があるのではないか、とのご指摘をいただきました。抑止杭とは、現代でも用いられる土木工法の一つで、杭のみを法面に打設し、盛土の流出を防ぐ工法です。杭の間隔を密にする場合は、互い違い(千鳥状)に打設することで、見つかった杭群も互い違いに配置されたように見えます。
道路遺構は、何度も改修され長期間にわたって使われていることから、すべての杭が一度に打ち込まれたものではない可能性もありますが、抑止杭の存在は、たいへん興味深い見解といえます。単に盛土を積むだけではなく、その盛土が崩落しないように杭を打設することで頑丈な道路盛土が築かれたことは、国家によりつくられた官道の性格を物語る成果として期待されます。

図1 養郷狐谷遺跡位置図

図2 養郷狐谷遺跡トレンチ4位置図(太い赤線が古代山陰道推定ルート)

写真1 養郷狐谷遺跡トレンチ4で見つかった杭跡
丸いくぼみ部分が杭跡で密集してみつかっています。
[令和4年2月掲載]
このコーナーでは、令和3年11月23日に開催した特別講演会「官道がつなぐ山陰の古代社会」でいただいた質問の中から3つの質問を取り上げて、一つずつお答えしています。
Q3.駅家(うまや)で出土した瓦は、寺院の瓦とどのような違いがあるのでしょうか?
A.駅家にどのような瓦が葺かれていたかは、駅家を推定していくうえで重要な視点です。平安時代初期に編纂された『日本後紀(にほんこうき)』は、山陽道の駅家は外国からの使節をもてなすために『瓦葺粉壁(がしゅうふんへき)』、つまり瓦葺きで白壁の立派な建物であったことが記されています。駅家は、国司が責任者となって設置した役所の一つであることから、山陽道では駅家の瓦も国司の主導で作られたと考えられており、国府や国分寺と同じ瓦窯で焼かれた瓦が屋根に葺かれました。例えば、播磨国布勢(ふせの)駅家とされる兵庫県たつの市小犬丸(こいぬまる)遺跡でみつかった瓦葺き建物には、播磨国府とよく似た文様の軒瓦が用いられています。
一方、豪族が造営した寺院の場合、独自に瓦工人を集めて瓦を作るため、国府や国分寺とは違う瓦が用いられることが多くなります。したがって、国府や国分寺と同じ瓦が駅路沿いの駅家想定地付近で出土すると、瓦葺きの駅家が存在した可能性が生じてきます。ただし、豪族が造営した寺院の中でも有力なものは、古代においては定額寺(じょうがくじ)と呼ばれる国分寺に準ずる寺院となり、国家のために法要を行うこともありました。そうした有力な寺院では、国府や国分寺と同じ瓦が用いられる場合もあり、注意を払う必要があります。
山陽道以外では駅家の実態がよく分かっていませんが、山陰道では島根県大田市中祖(なかそ)遺跡で瓦葺きの礎石建物が見つかり、石見国樟道(くすち)駅家の可能性が指摘されています。また、伯耆国芴賀(くつが)駅家の可能性がある湯梨浜町石脇(いしわき)第3遺跡でも大型建物跡とともに多量の瓦が出土しています(写真)。いずれの遺跡も国府や国分寺と同じ瓦は見つかっていませんが、山陰道の駅家も瓦葺きの格式高い建物が存在した可能性があります。

写真 石脇第3遺跡でみつかった建物跡などのようす
[令和3年12月22日掲載]
このコーナーでは、令和3年11月23日に開催した特別講演会「官道がつなぐ山陰の古代社会」でいただいた質問の中から3つの質問を取り上げて、一つずつお答えしています。
Q2.道路工法において盛土を行う場合、ただ単に土を利用しただけでしょうか?小石などを意識的に利用したのでしょうか?
A.盛土工法でつくられた青谷横木(あおやよこぎ)遺跡や青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡の道路遺構では、石敷きの路面が見つかっています(写真1)。このうち、青谷横木遺跡では路面だけではなく、その下層にある分厚い道路盛土にも石が多用されています。現代の道路構造と同じく、表層、路盤、路床で盛土が丁寧に使い分けられていたと考えられ、路盤には路面の石よりもやや大きい、拳から手のひらほどの石が混ぜられ、路床にはさらに大型の石が敷かれています(図1)。さらに、道路の路肩から法面にかけては、道路盛土が崩落するのを防ぐために石が貼り付けられ、官道として頑丈な道路がつくられたことがうかがえます。
道路盛土には、石や砂の他に土器や木枝、葉なども利用されました。青谷横木遺跡の路面では小石とともに土器の細片も敷かれており、不要となった土器を砕いて再利用したと考えられます。また、木枝や葉を盛土内に敷く工法として「敷葉(しきば)・敷粗朶(しきそだ)工法」が確認されています(写真2)。この工法は、軟弱地盤に道路や堤などを築く際に用いられ、盛土を補強し、排水機能を高める役割を果たしていたとみられ、朝鮮半島から伝来した、最先端、かつ高度な土木技術でした。青谷横木遺跡では、枝や葉だけではなく、木材を加工した際に生じた端材や削りくず(木端)なども敷かれています。善田傍示ヶ崎(よしだぼうじがさき)遺跡では、今年度新たに鳥取市埋蔵文化財センターが発掘調査した地点でも敷葉・敷粗朶が確認され、粗朶を縦と横の交互に丁寧に積み重ね、その両端を杭で止めて固定するなど、手の込んだつくりであることが明らかとなっています。

写真1 青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡の石敷き路面

図1 青谷横木(あおやよこぎ)遺跡の道路盛土構築工法模式図

写真2 青谷横木遺跡で見つかった敷葉(しきば)・敷粗朶(しきそだ)
枝や葉の他にもヨシなどの草本類も敷かれています。
[令和3年12月21日掲載]
このコーナーでは、令和3年11月23日に開催した特別講演会「官道がつなぐ山陰の古代社会」でいただいた質問の中から3つの質問を取り上げて、一つずつお答えしていきます。
Q1.日置(ひおき)川・勝部(かちべ)川とも時代によって流路が変化していると思いますが、古代山陰道の渡河点は推定できますか?また、その痕跡は見つかっているのでしょうか?
A.青谷平野では、青谷横木(あおやよこぎ)遺跡や青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡、善田傍示ヶ崎遺跡(よしだぼうじがさき)の調査成果によって古代山陰道のルートを復元できるようになりました。しかし、日置川と勝部川をどのように渡ったかは、残念ながらよく分かっていません。
そこで、奈良時代初めに編纂された「出雲国風土記」における渡河点の記載をみると、代表的な例として、島根県安来市飯梨(いいなし)川には「野城(のぎ)橋」と記された、長さ91.2m、幅7.7mの巨大な橋が架かっていたことが知られています。また、川幅が142.4mもある松江市大橋(おおはし)川には、山陰道から分岐して隠岐へと向かう枉北道(おうほくどう)と呼ばれる駅路が通過する地点に、渡り船1隻が置かれていたことが記されています。この渡河点は「朝酌渡(あさくみのわたり)」と呼ばれ、最近、島根県埋蔵文化財調査センターが行った朝酌矢田(あさくみやだ)2遺跡で、渡し場の遺構とみられる石敷きの護岸が発見されています。
出雲国風土記の記載を参考にすると、必ずしも渡河方法が川の大きさで決まるわけではないようですが、青谷平野の日置川や勝部川程度の規模であれば、橋が架けられていた可能性が高いと考えられます。青谷平野は低湿で埋蔵環境も良いことから、もしかすると、古代に遡る橋脚などの遺構が地下に眠っているかもしれません。
もう一つ注目されるのは、日置川の支流である露谷(つゆだに)川の渡河点に位置する善田傍示ケ崎遺跡で多量の木製祭祀具が見つかっている点です。人形(ひとがた)や馬形(うまがた)といった木製祭祀具が、古代山陰道の道路遺構に近接した範囲で、100点以上出土しています。このことから、古代山陰道の渡河点付近では祓(はらえ)を中心とした律令的祭祀が執り行われたと考えられます。木製祭祀具を水に流し、道を伝って侵入すると信じられた疫病や災いを防ぎ、往来する人々の不安を取り除くために多くの祈りが捧げられていたとみることができます。木製祭祀具の出土も、渡河点を推測するひとつの手がかりとなりそうです。

図1 青谷平野の古代山陰道と河川

図2 善田傍示ケ崎(よしだぼうじがさき)遺跡

写真1 青谷横木(あおやよこぎ)遺跡から出土した木製祭祀具
古代山陰道沿いの青谷横木(あおやよこぎ)遺跡や善田傍示ヶ崎(よしだぼうじがさき)遺跡では、人形(ひとがた)よりも乗り物である馬形(うまがた)が多く見つかっている点が特徴です。
[令和3年12月20日掲載]