令和3年11月23日(火)に島根大学法文学部大橋泰夫(おおはしやすお)教授を講師にお招きし、特別講演会「官道がつなぐ山陰の古代社会」を開催しました。青谷町総合支所多目的ホールを会場とし、当日は定員いっぱいの50名の参加者にお越しいただきました。
当日は、まず、センター職員が今年度の発掘調査成果を報告し、東側丘陵の養郷狐谷(ようごうきつねだに)遺跡で尾根上にまっすぐな道路をつくるために鞍部(くぼ地)を大規模に埋め立てた、全国的でも珍しい痕跡が見つかったこと、西側丘陵の青谷大平(あおやおおひら)遺跡では丘陵尾根を500mにわたって縦走する道路遺構が確認されたことなどを紹介しました。
大橋先生の特別講演では、『出雲国風土記』の記載や全国的な発掘調査成果から古代官道と国府や郡衙(郡の役所)、駅家などとの関係について述べられました。とくに、青谷が位置する因幡国気多(けた)郡には、郡役所である上原(かんばら)遺跡群が中央に置かれ、その支所として上光(かみみつ)遺跡群と青谷横木(あおやよこぎ)遺跡が東西に置かれたこと、駅家である柏尾駅家(かしわおのうまや)もこれらの役所施設近くに置かれた可能性を指摘されました。そのうえで、青谷の古代山陰道の調査成果が、古代道路のみならず、日本の古代社会を解明していくうえで極めて高い価値をもつことを力説されました。また、青谷横木遺跡で見つかっている柳並木に関連して、近年の備後国府の調査では山陽道と国府への進入路の側溝からハシバミ(西洋ハシバミはヘーゼルナッツとして有名)の花粉がみつかり、駅路に果樹が植えられた可能性があることや、東山道を含む古代道路の遺跡を15カ所以上調査された経験をもとに、地域毎に道路工法に少しづつ違いがみられることを指摘されるなど、興味深いお話しをたくさんお聞きすることができました。
参加者からは「山陰地方が古代道路研究の先進的地域であることが分かった。」「古代官道の調査から郡役所や駅家など古代社会のいろんなことが分かることが面白かった。」、「青谷の古代山陰道は単に道路が発見されたことにとどまらず、古代日本の土地開発を知る重要な発見であることが分かった。」など多くの感想をいただきました。
当日いただいた質問については、講師と調整したうえで、順次ホームページで回答していきます。今しばらくお待ちください。

大橋先生ご講演の様子(1)

大橋先生ご講演の様子(2)
[令和3年12月17日掲載]
令和3年11月7日(日)と11月13日(土)の2週連続で古代山陰道現地説明会を開催しました。両日とも秋晴れに恵まれ、地元の青谷町の方をはじめ県内外から合わせて66名の方に参加いただきました。新型コロナウイルス感染拡大防止のため、解説時間を分けて少人数ずつで行い、発掘調査状況をじっくりとご覧いただくとともに、現地形に残る古代道路の痕跡を歩いて体感していただきました。
参加者からは、「険しい尾根を通る古代山陰道の構造がよく分かった。」、「道幅の広さや1300年経ても道の痕跡が残っていることに驚いた。」、「様々な工法で頑丈な道がつくられ、土留めの杭があったのには驚いた。」などの感想や「ぜひ観光地にしてほしい。」、「発掘した場所がつながって古代山陰道跡を体感できるウォーキングルートとして復活してほしい。」などの要望も数多くいただきました。
今年度で東側丘陵の調査は終了予定ですが、西側丘陵は来年度も継続して発掘調査を行っていく予定です。古代山陰道の素晴らしさを、引き続き皆様にお伝えしていきたいと思います。

11月7日、青谷西側丘陵の青谷大平遺跡では、丘陵尾根を500mにわたって縦走する道路痕跡をご覧いただきました。

11月13日、青谷東側丘陵の養郷狐谷遺跡では丘陵の鞍部(くぼ地)を大規模に埋め立てたようすをご覧いただきました。
当日の現地説明会資料はこちら⇒令和3年度発掘調査現地公開資料 (pdf:1246KB)
令和3年10月26日・27日に第2回因幡国古代山陰道発掘調査委員会を、鳥取市教育委員会や青谷町総合支所の御協力のもと開催しました。発掘調査委員会は今年度で2年目となりますが、新型コロナウイルス感染症の影響により、委員の先生方が一堂にお集まりいただいての開催は実は今回が初めてでした。そのため、今回の委員会は現地指導が中心で、確認された道路遺構をじっくりご覧いただきながら、東側丘陵の追加調査部分と今年度新たに調査に着手した西側丘陵の青谷大平(あおやおおひら)遺跡の成果について評価をいただきました。
まず、東側丘陵の養郷狐谷(ようごうきつねだに)遺跡では、屋根の鞍部が大規模な盛土で埋め立てられ、土留めとみられる杭の痕跡が確認されたことに対して、「もう少し調査範囲を広げて、杭が列となるのか、横板があるのかなどを確認した方がよい。」、「鞍部を埋め立てた盛土の範囲を確認できれば、古代官道としての土木量の大きさを示すことができるのではないか。」などのご意見をいただきました。
次に、丘陵尾根を500mにわたって縦走する大規模な道路遺構が確認された、西側丘陵の青谷大平遺跡については、「道路遺構に重なって山城(青谷大平城)が重複している。山城の縄張り図を作成するなどして、両者の関係を明らかにするべき。」「青谷上寺地遺跡の道路遺構から西側丘陵にどのように取り付くかを明らかにしてほしい。」などのご意見をいただきました。
また、会議では、鳥取市教育委員会から今年度鳥取市文化財団鳥取市埋蔵文化財センターが実施した善田傍示ケ崎(よしだぼうじがさき)遺跡の発掘調査で、古代山陰道の道路遺構が見つかっていることを報告いただき、道路盛土を補強し、排水を行うために土の層の間に枝や葉を敷く「敷葉・敷粗朶(しきば・しきそだ)工法」が保存状態良く見つかったことも紹介されました。
現在、委員会でいただいたご意見をもとに追加、補足調査を行っており、その成果も改めてお伝えしたいと思います。

発掘調査委員会(会議)の様子

養郷狐谷(ようごうきつねだに)遺跡の調査指導の様子

青谷大平(あおやおおひら)遺跡の調査指導の様子
新聞報道等で御存じの方もいらっしゃると思いますが、現在、鳥取市埋蔵文化財センターが行っている鳥取市青谷町善田傍示ヶ崎(よしだぼうじがさき)遺跡の発掘調査で、古代山陰道とみられる道路遺構が新たに発見されました(写真1)。今回の調査は、青谷平野の東側を流れる日置川の支流にあたる露谷川の河川改修工事に伴って行われており、当センターが令和元年度に発掘調査を行った場所から北西へ100mほどの地点です(図1)。
令和元年度の調査では、強固な盛土で築かれた、幅5m以上の道路遺構を確認し、青谷上寺地遺跡から続く古代山陰道であることが判明していました(写真2)。今回の調査では、路面はすでに削られ残っていないようですが、道路盛土の一部などが確認されています。当センターの成果も合わせて、青谷平野における古代山陰道のルートを復元するうえで重要な成果といえます。
また、善田傍示ヶ崎遺跡は、過去の調査で多量の木製祭祀具が見つかったことでも知られ、今回の調査でも人形などの祭祀具が出土しているようです。露谷川の渡河点に位置することから、古代山陰道を往来する人々の安全を祈り、川のほとりで祓(はら)えといった律令的祭祀が採り行われていたのかもしれません。
道路盛土の構造などの詳細については、今後の調査で明らかにされるとのことです。当センターが現在行なっている青谷西側丘陵における古代山陰道の発掘調査とともに引き続きご注目ください。

図1 善田傍示ヶ崎遺跡の位置図

写真1 鳥取市の調査で確認された道路遺構の様子(東から撮影)

写真2 令和元年度の発掘調査で確認された道路遺構(東から撮影)
[令和3年9月掲載]
古代山陰道の発掘調査は、昨年度から継続していた青谷東側丘陵の養郷狐谷(きつねだに)遺跡の調査を終了し、令和3年8月6日からいよいよ青谷西側丘陵の調査に着手しました。西側丘陵では、平成30年に行った現地踏査により丘陵尾根上で大規模な切通しが見つかり、同年12月9日のウオーキングイベント「古代山陰道ウォークパート2」でご案内したことから、心待ちにしていらっしゃった方も多いかと思います(一番心待ちにしていたのは調査担当者かもしれませんが)。
西側丘陵では、青谷上寺地遺跡で見つかった道路遺構の延長線部分を確認し、古代山陰道がどのように伯耆国との険しい国境地帯を越えていったのかを調べていく予定です。
調査初日、繁茂する草木の伐採など、毎回の環境整備を行うと、道路痕跡とみられる大規模な切通しが現地形にくっきり浮かび上がってきました(写真1)。当然ですが、草木を伐採する前に比べると、切通しをより視覚的に捉えることができるようになり、改めてその大きさに驚かされます。
調査地周辺には、100基程度からなり、船の線刻壁画をもつ古墳も含まれる「吉川(よしかわ)古墳群」や、山城の可能性がある「青谷大平(おおひら)城」などが存在しており、古代山陰道と古墳、中世城館との関係も明らかにできるかもしれません。
今後の調査成果をお楽しみに!

青谷西側丘陵の発掘調査地

青谷西側丘陵に残る大規模な切通し(環境整備後)
[令和3年8月16日掲載]
令和3年7月13日(火)に古代山陰道の発掘調査を開始しました。前日の12日(月)に開始する予定でしたが、先週から続いた豪雨の影響もあり、1日遅れのスタートとなりました。
前回お伝えした通り、東側丘陵の養郷狐谷(ようごうきつねだに)遺跡では、斜度20~25度前後の丘陵斜面に新たなトレンチ(調査区)を追加するため、まず、環境整備を行いました。環境整備前の斜面は草木が生い茂り、地面も確認できないほど鬱蒼(うっそう)とした状態でした(写真1)。作業員さん5名とともに雑木の伐採や草刈り等の作業を行いましたが、30度を超える暑さに加え、湿度も非常に高かったため暑さ対策をしても、汗びっしょりで大変な作業となりました。
最後には、斜面の地形がくっきりと確認できるようになり、つづら折りの里道も姿を現しました。このつづら折りの里道は江戸時代のものとみられ、地籍図にも道として描かれていることから、数十年前までは使用されていたと考えられます(写真2)。
昨年度の調査から、この斜面を古代山陰道が通過することは確実とみられますが、どういった道路遺構が発掘されるのか、とても楽しみです。

写真1 環境整備前の斜面の様子

写真2 環境整備後の斜面の様子
お待たせしました。令和3年度の古代山陰道の発掘調査を7月12日(月)から開始します。今年度は、新たに青谷西側丘陵の発掘調査も行いますが、まず、最初に昨年度から行っている東側丘陵の養郷狐谷(ようごうきつねだに)遺跡を調査します(図1)。
養郷狐谷遺跡では、丘陵の斜面部にトレンチ(調査区)を新たに追加する予定で、この斜面部の斜度は20~25度前後を測ります(図2・写真1)。昨年度、国内初となるつづら折りの道路遺構が見つかった養郷宮之脇(ようごうみやのわき)遺跡では斜度30度を超えており、それに比べると急傾斜ではありませんが、直線的な線形を維持できたのか、もしくはつづら折りとなっているのか、とても興味深い調査地点になりそうです。
先日は、調査前の環境整備として遺跡に向かう道の草刈りを行いました。昨年度に行き来していた道も草木の繁茂により全く姿が見えない状態となっていましたが、いつでも調査に入れるように準備が整いました。
調査状況は随時お伝えしていきますので、どうぞお楽しみに。

図1 令和3年度青谷東側丘陵発掘調査地点(養郷狐谷遺跡)

図2 養郷狐谷遺跡の新たに調査を行う斜面部の地形断面

写真1 発掘調査を行う斜面部の様子(草刈り後)
[令和3年7月掲載]
令和3年6月26・27日に古代交通研究会第21回大会が開催され、古代山陰道の発掘調査成果について報告しました。古代交通研究会は2年に1回開催され、古代の交通や交易・交流等を研究するために、歴史地理学や考古学、文献史学、土木史学等のさまざまな分野の研究者が全国から集まる学際的な研究会です。今回は新型コロナウィルス感染拡大防止のためオンライン開催となりましたが、参加者は2日間で計400名を数えました。
研究会では「古代・中世移行期の交通と祭祀-北陸道・山陰道の水上交通・陸上交通を中心に―」をテーマとして、近年調査成果が著しい北陸道や山陰道にスポットが当てられました。この中で、「鳥取県鳥取市養郷遺跡群・善田傍示ケ崎遺跡」として、青谷地域の古代山陰道の調査成果を報告しました。
報告に対して参加者からは、「丘陵斜面部における側溝がもつ意味、機能は何か?」、「因幡国気多郡の「気多」は北陸(石川県)の気多大社と関係があるのか、「気多」の地名は何から来ているのか?」「青谷はラグーンに面し、膨大な木製祭祀具が出土しており港湾における祭祀遺跡としても注目に値する。」などの質問や感想をいただき、青谷地域での古代山陰道の調査研究に対する注目度や関心の高さが窺われました。
いただいた意見を参考に、引き続き古代山陰道の調査研究に邁進していきたいと思います。

国内初の発見となったつづら折りの古代山陰道イラスト(作:山本正治)
※研究会の内容や資料については、こちらをクリックしてください。
⇒古代交通研究会ホームページ
令和3年6月8日(火)に、第1回因幡国古代山陰道発掘調査委員会を開催しました。当初は4月下旬に開催予定でしたが、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて延期し、今回は県外の委員の先生方だけではなく、県内の関係者を含めてリモートで開催しました。
委員会では、まず、昨年度の追加調査成果について報告しました。養郷狐谷遺跡では、丘陵の鞍部を埋め立てて道路を敷設する新たな道路工法が確認されたこと、養郷宮之脇遺跡では頑丈なつづら折りの道路を築くために道路盛土にさまざまな工夫が施されていることを確認したことなどを報告しました。
続いて、今年度の調査計画について説明、報告しました。今年度は養郷狐谷遺跡のほか、青谷上寺地遺跡で見つかった道路遺構の延長線上にあたる青谷西側丘陵でも尾根上で大規模な切通しを確認していることから、新たに発掘調査を実施することなどを説明しました。また、4~5月に行った鳥取市気高町から鹿野町にかけて実施した現地踏査では、推定ルート上で切通しなどの道路痕跡を確認し、気多郡内の古代山陰道は行く手を遮る丘陵をものともせず、直線的なルートをとる可能性が高まってきたことを報告しました。
委員の先生方からは、「養郷狐谷遺跡の鞍部を埋め立てた道路盛土は土嚢(どのう)を使っている可能性もあるのではないか。今年度の調査で盛土構造をしっかり解明してほしい」、「青谷についてはほぼ路線が確定しつつあるが、踏査により気多郡内のさらに広範囲におけるルートも推定できるようになった」、「山間部の調査は他には例のない重要な成果であり、古代道路研究に新たな視点を提示している。古代道路研究だけではなく、古代道路の保護という観点でも他地域に与える影響は大きく、引き続き県と市が協力して調査研究を継続してほしい」などの評価や助言をいただきました。
いただいた意見をもとに、今年度の発掘調査は7月から開始する予定です。発掘調査情報は随時お伝えしていきますので、お楽しみにお待ちください。

委員会の様子
令和3年5月14日に古代山陰道の第5回踏査を行いました。今回の踏査地点は、鳥取市気高町下光元(しもみつもと)地内で、古代では気多(けた)郡と高草郡の境界に位置する丘陵地帯です(図1)。標高は160mほどで青谷東側丘陵と同じくかなり険しい峠道といえます。この峠は、現在は中坂(なかさか)峠と呼ばれていますが、江戸時代の絵図には「猫岩峠」と記されています。
古代山陰道は従来、中坂峠から谷を下って、気多郡衙(ぐんが:郡の役所)の出先機関とされる戸島・馬場(としま・ばば)遺跡に達するルートが想定されています。しかし、今回の踏査では、中坂峠から北に分岐し、下光元の集落に達する里道に注目して踏査しました。この里道は「下坂」と呼ばれ、航空レーザ測量図でも丘陵尾根を縦走する道路痕跡をはっきりと確認することができます(図2の赤い三角印部分で示した部分)。
踏査では、下光元の集落内から山に入り峠を目指しました。丘陵尾根にとりつくと、大規模な切通しを確認しました(図2地点ア、写真1)。切通しの底面幅は5mから6mほどあります。尾根筋をさらに進むと、より幅広い切通しが残っている地点を確認しました(図2地点イ、写真2)。里道部分は深く掘り下がっていますが、本来の幅は9mから10m前後と推定されます。
今回踏査した部分は、従来古代山陰道として想定されて来なかったルートですが、切通しの規模や形状に加え、尾根伝いに縦走するあり方からも一つの候補地となりそうです。

図1 踏査位置図

図2 航空レーザー測量図に残る道路痕跡

写真1 地点アに残る切通し

写真2 地点イに残る切通し
[令和3年6月掲載]