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調査研究(古代山陰道)

古代山陰道特別講演会Q&Aコーナー(その2)

 このコーナーでは、11月23日に開催した特別講演会「官道がつなぐ山陰の古代社会」でいただいた質問の中から3つの質問を取り上げて、一つずつお答えしています。

 

Q2.道路工法において盛土を行う場合、ただ単に土を利用しただけでしょうか?小石などを意識的に利用したのでしょうか?

A.盛土工法でつくられた青谷横木(あおやよこぎ)遺跡や青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡の道路遺構では、石敷きの路面が見つかっています(写真1)。このうち、青谷横木遺跡では路面だけではなく、その下層にある分厚い道路盛土にも石が多用されています。現代の道路構造と同じく、表層、路盤、路床で盛土が丁寧に使い分けられていたと考えられ、路盤には路面の石よりもやや大きい、拳から手のひらほどの石が混ぜられ、路床にはさらに大型の石が敷かれています(図1)。さらに、道路の路肩から法面にかけては、道路盛土が崩落するのを防ぐために石が貼り付けられ、官道として頑丈な道路がつくられたことがうかがえます。
 道路盛土には、石や砂の他に土器や木枝、葉なども利用されました。青谷横木遺跡の路面では小石とともに土器の細片も敷かれており、不要となった土器を砕いて再利用したと考えられます。また、木枝や葉を盛土内に敷く工法として「敷葉(しきば)・敷粗朶(しきそだ)工法」が確認されています(写真2)。この工法は、軟弱地盤に道路や堤などを築く際に用いられ、盛土を補強し、排水機能を高める役割を果たしていたとみられ、朝鮮半島から伝来した、最先端、かつ高度な土木技術でした。青谷横木遺跡では、枝や葉だけではなく、木材を加工した際に生じた端材や削りくず(木端)なども敷かれています。善田傍示ヶ崎(よしだぼうじがさき)遺跡では、今年度新たに鳥取市埋蔵文化財センターが発掘調査した地点でも敷葉・敷粗朶が確認され、粗朶を縦と横の交互に丁寧に積み重ね、その両端を杭で止めて固定するなど、手の込んだつくりであることが明らかとなっています。

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写真1 青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡の石敷き路面

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図1 青谷横木(あおやよこぎ)遺跡の道路盛土構築工法模式図

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写真2 青谷横木遺跡で見つかった敷葉(しきば)・敷粗朶(しきそだ)

枝や葉の他にもヨシなどの草本類も敷かれています。


古代山陰道特別講演会Q&Aコーナー(その1)

 このコーナーでは、11月23日に開催した特別講演会「官道がつなぐ山陰の古代社会」でいただいた質問の中から3つの質問を取り上げて、一つずつお答えしていきます。

 

Q1.日置(ひおき)川・勝部(かちべ)川とも時代によって流路が変化していると思いますが、古代山陰道の渡河点は推定できますか?また、その痕跡は見つかっているのでしょうか?

A.青谷平野では、青谷横木(あおやよこぎ)遺跡や青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡、善田傍示ヶ崎遺跡(よしだぼうじがさき)の調査成果によって古代山陰道のルートを復元できるようになりました。しかし、日置川と勝部川をどのように渡ったかは、残念ながらよく分かっていません。

 そこで、奈良時代初めに編纂された「出雲国風土記」における渡河点の記載をみると、代表的な例として、島根県安来市飯梨(いいなし)川には「野城(のぎ)橋」と記された、長さ91.2m、幅7.7mの巨大な橋が架かっていたことが知られています。また、川幅が142.4mもある松江市大橋(おおはし)川には、山陰道から分岐して隠岐へと向かう枉北道(おうほくどう)と呼ばれる駅路が通過する地点に、渡り船1隻が置かれていたことが記されています。この渡河点は「朝酌渡(あさくみのわたり)」と呼ばれ、最近、島根県埋蔵文化財調査センターが行った朝酌矢田(あさくみやだ)2遺跡で、渡し場の遺構とみられる石敷きの護岸が発見されています。
 出雲国風土記の記載を参考にすると、必ずしも渡河方法が川の大きさで決まるわけではないようですが、青谷平野の日置川や勝部川程度の規模であれば、橋が架けられていた可能性が高いと考えられます。青谷平野は低湿で埋蔵環境も良いことから、もしかすると、古代に遡る橋脚などの遺構が地下に眠っているかもしれません。
 もう一つ注目されるのは、日置川の支流である露谷(つゆだに)川の渡河点に位置する善田傍示ケ崎遺跡で多量の木製祭祀具が見つかっている点です。人形(ひとがた)や馬形(うまがた)といった木製祭祀具が、古代山陰道の道路遺構に近接した範囲で、100点以上出土しています。このことから、古代山陰道の渡河点付近では祓(はらえ)を中心とした律令的祭祀が執り行われたと考えられます。木製祭祀具を水に流し、道を伝って侵入すると信じられた疫病や災いを防ぎ、往来する人々の不安を取り除くために多くの祈りが捧げられていたとみることができます。木製祭祀具の出土も、渡河点を推測するひとつの手がかりとなりそうです。

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図1 青谷平野の古代山陰道と河川

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図2 善田傍示ケ崎(よしだぼうじがさき)遺跡

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写真1 青谷横木(あおやよこぎ)遺跡から出土した木製祭祀具

 古代山陰道沿いの青谷横木(あおやよこぎ)遺跡や善田傍示ヶ崎(よしだぼうじがさき)遺跡では、人形(ひとがた)よりも乗り物である馬形(うまがた)が多く見つかっている点が特徴です。


特別講演会「官道がつなぐ山陰の古代社会」を開催しました!

 令和3年11月23日(火)に島根大学法文学部大橋泰夫(おおはしやすお)教授を講師にお招きし、特別講演会「官道がつなぐ山陰の古代社会」を開催しました。青谷町総合支所多目的ホールを会場とし、当日は定員いっぱいの50名の参加者にお越しいただきました。
 当日は、まず、センター職員が今年度の発掘調査成果を報告し、東側丘陵の養郷狐谷(ようごうきつねだに)遺跡で尾根上にまっすぐな道路をつくるために鞍部(くぼ地)を大規模に埋め立てた、全国的でも珍しい痕跡が見つかったこと、西側丘陵の青谷大平(あおやおおひら)遺跡では丘陵尾根を500mにわたって縦走する道路遺構が確認されたことなどを紹介しました。 
 大橋先生の特別講演では、『出雲国風土記』の記載や全国的な発掘調査成果から古代官道と国府や郡衙(郡の役所)、駅家などとの関係について述べられました。とくに、青谷が位置する因幡国気多(けた)郡には、郡役所である上原(かんばら)遺跡群が中央に置かれ、その支所として上光(かみみつ)遺跡群と青谷横木(あおやよこぎ)遺跡が東西に置かれたこと、駅家である柏尾駅家(かしわおのうまや)もこれらの役所施設近くに置かれた可能性を指摘されました。そのうえで、青谷の古代山陰道の調査成果が、古代道路のみならず、日本の古代社会を解明していくうえで極めて高い価値をもつことを力説されました。また、青谷横木遺跡で見つかっている柳並木に関連して、近年の備後国府の調査では山陽道と国府への進入路の側溝からハシバミ(西洋ハシバミはヘーゼルナッツとして有名)の花粉がみつかり、駅路に果樹が植えられた可能性があることや、東山道を含む古代道路の遺跡を15カ所以上調査された経験をもとに、地域毎に道路工法に少しづつ違いがみられることを指摘されるなど、興味深いお話しをたくさんお聞きすることができました。
 参加者からは「山陰地方が古代道路研究の先進的地域であることが分かった。」「古代官道の調査から郡役所や駅家など古代社会のいろんなことが分かることが面白かった。」、「青谷の古代山陰道は単に道路が発見されたことにとどまらず、古代日本の土地開発を知る重要な発見であることが分かった。」など多くの感想をいただきました。
 当日いただいた質問については、講師と調整したうえで、順次ホームページで回答していきます。今しばらくお待ちください。

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大橋先生ご講演の様子(1)

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大橋先生ご講演の様子(2)


古代山陰道の現地説明会を開催しました!

 令和3年11月7日(日)と11月13日(土)の2週連続で古代山陰道現地説明会を開催しました。両日とも秋晴れに恵まれ、地元の青谷町の方をはじめ県内外から合わせて66名の方に参加いただきました。新型コロナウイルス感染拡大防止のため、解説時間を分けて少人数ずつで行い、発掘調査状況をじっくりとご覧いただくとともに、現地形に残る古代道路の痕跡を歩いて体感していただきました。
 参加者からは、「険しい尾根を通る古代山陰道の構造がよく分かった。」、「道幅の広さや1300年経ても道の痕跡が残っていることに驚いた。」、「様々な工法で頑丈な道がつくられ、土留めの杭があったのには驚いた。」などの感想や「ぜひ観光地にしてほしい。」、「発掘した場所がつながって古代山陰道跡を体感できるウォーキングルートとして復活してほしい。」などの要望も数多くいただきました。
 今年度で東側丘陵の調査は終了予定ですが、西側丘陵は来年度も継続して発掘調査を行っていく予定です。古代山陰道の素晴らしさを、引き続き皆様にお伝えしていきたいと思います。

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11月7日、青谷西側丘陵の青谷大平遺跡では、丘陵尾根を500mにわたって縦走する道路痕跡をご覧いただきました。

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11月13日、青谷東側丘陵の養郷狐谷遺跡では丘陵の鞍部(くぼ地)を大規模に埋め立てたようすをご覧いただきました。

当日の現地説明会資料はこちら⇒令和3年度発掘調査現地公開資料 (pdf:1246KB)


第2回因幡国古代山陰道発掘調査委員会を開催しました!

 10月26・27日に第2回因幡国古代山陰道発掘調査委員会を、鳥取市教育委員会や青谷町総合支所の御協力のもと開催しました。発掘調査委員会は今年度で2年目となりますが、新型コロナウイルス感染症の影響により、委員の先生方が一堂にお集まりいただいての開催は実は今回が初めてでした。そのため、今回の委員会は現地指導が中心で、確認された道路遺構をじっくりご覧いただきながら、東側丘陵の追加調査部分と今年度新たに調査に着手した西側丘陵の青谷大平(あおやおおひら)遺跡の成果について評価をいただきました。
 まず、東側丘陵の養郷狐谷(ようごうきつねだに)遺跡では、屋根の鞍部が大規模な盛土で埋め立てられ、土留めとみられる杭の痕跡が確認されたことに対して、「もう少し調査範囲を広げて、杭が列となるのか、横板があるのかなどを確認した方がよい。」、「鞍部を埋め立てた盛土の範囲を確認できれば、古代官道としての土木量の大きさを示すことができるのではないか。」などのご意見をいただきました。
 次に、丘陵尾根を500mにわたって縦走する大規模な道路遺構が確認された、西側丘陵の青谷大平遺跡については、「道路遺構に重なって山城(青谷大平城)が重複している。山城の縄張り図を作成するなどして、両者の関係を明らかにするべき。」「青谷上寺地遺跡の道路遺構から西側丘陵にどのように取り付くかを明らかにしてほしい。」などのご意見をいただきました。
 また、会議では、鳥取市教育委員会から今年度鳥取市文化財団鳥取市埋蔵文化財センターが実施した善田傍示ケ崎(よしだぼうじがさき)遺跡の発掘調査で、古代山陰道の道路遺構が見つかっていることを報告いただき、道路盛土を補強し、排水を行うために土の層の間に枝や葉を敷く「敷葉・敷粗朶(しきば・しきそだ)工法」が保存状態良く見つかったことも紹介されました。  
 現在、委員会でいただいたご意見をもとに追加、補足調査を行っており、その成果も改めてお伝えしたいと思います。

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発掘調査委員会(会議)の様子

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養郷狐谷(ようごうきつねだに)遺跡の調査指導の様子

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青谷大平(あおやおおひら)遺跡の調査指導の様子


特別講演「官道がつなぐ山陰の古代社会」を開催します!

 令和3年11月23日(火・祝)、鳥取市青谷町総合支所多目的ホールを会場に特別講演会「官道がつなぐ山陰の古代社会」を開催します。

 古代国家の一大プロジェクトとして建設された七道駅路(しちどうえきろ)の一つ、古代山陰道。古代山陰道がつくられた古代社会はどのような様子だったのか?中央集権の国づくりを行ううえで、古代山陰道が果たした役割とは?
 令和3年度の発掘調査成果とともに最新の調査研究から見えてきた山陰の古代社会について、官衙(かんが)〔役所〕や寺院研究を牽引する島根大学法文学部大橋泰夫(おおはしやすお)教授にご講演いただきます。
 定員50名、詳しくはチラシをご覧いただき、お申し込みはお早めに。

講演会チラシ

特別講演会チラシPDF (pdf:1825KB)


2週連続!古代山陰道現地説明会&ウォークを開催します!

 令和3年11月7日(日)と13日(土)の2週連続で古代山陰道現地説明会&ウォークを開催します。これは、令和3年度の古代山陰道の発掘調査成果を解説しながら、古代道路の痕跡を実際に歩くものです。
 11月7日(日)の第1弾、青谷西側丘陵の青谷大平(あおやおおひら)遺跡は今年度新たに調査した遺跡です。丘陵尾根に沿って切通しなどの道路痕跡が500mにわたって良好に残されており、その痕跡を歩いて体感することができます。アップダウンのある全長5kmのコースで、ウォーキングやハイキングが好きな方にお勧めです。
 11月13日(土)の第2弾、青谷東側丘陵の養郷狐谷(ようごうきつねだに)遺跡は昨年度から発掘調査しており、道路をつくる際に用いられた土木工法がよく分かる遺跡です。古代の道路工法や土木技術が好きな方にお勧めです。
 もちろん、両日ともご参加いただくと、古代のハイウェイである山陰道の凄さをより感じていただけると思います。
 ぜひ、この機会をお見逃しなく!詳しくはチラシをご覧ください。

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こちらをクリックしてください↓

チラシ第1弾 11月7日(日)開催 (pdf:821KB)

チラシ第2弾 11月13日(土)開催 (pdf:816KB)


鳥取市が行う発掘調査でも古代山陰道を確認!

 新聞報道等で御存じの方もいらっしゃると思いますが、現在、鳥取市埋蔵文化財センターが行っている鳥取市青谷町善田傍示ヶ崎(よしだぼうじがさき)遺跡の発掘調査で、古代山陰道とみられる道路遺構が新たに発見されました(写真1)。今回の調査は、青谷平野の東側を流れる日置川の支流にあたる露谷川の河川改修工事に伴って行われており、当センターが令和元年度に発掘調査を行った場所から北西へ100mほどの地点です(図1)。
 令和元年度の調査では、強固な盛土で築かれた、幅5m以上の道路遺構を確認し、青谷上寺地遺跡から続く古代山陰道であることが判明していました(写真2)。今回の調査では、路面はすでに削られ残っていないようですが、道路盛土の一部などが確認されています。当センターの成果も合わせて、青谷平野における古代山陰道のルートを復元するうえで重要な成果といえます。
 また、善田傍示ヶ崎遺跡は、過去の調査で多量の木製祭祀具が見つかったことでも知られ、今回の調査でも人形などの祭祀具が出土しているようです。露谷川の渡河点に位置することから、古代山陰道を往来する人々の安全を祈り、川のほとりで祓(はら)えといった律令的祭祀が採り行われていたのかもしれません。
 道路盛土の構造などの詳細については、今後の調査で明らかにされるとのことです。当センターが現在行なっている青谷西側丘陵における古代山陰道の発掘調査とともに引き続きご注目ください。

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図1 善田傍示ヶ崎遺跡の位置図

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写真1 鳥取市の調査で確認された道路遺構の様子(東から撮影)

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写真2 令和元年度の発掘調査で確認された道路遺構(東から撮影)


【古代山陰道】青谷西側丘陵の発掘調査に着手しました!

 古代山陰道の発掘調査は、昨年度から継続していた青谷東側丘陵の養郷狐谷(きつねだに)遺跡の調査を終了し、令和3年8月6日からいよいよ青谷西側丘陵の調査に着手しました。西側丘陵では、平成30年に行った現地踏査により丘陵尾根上で大規模な切通しが見つかり、同年12月9日のウオーキングイベント「古代山陰道ウォークパート2」でご案内したことから、心待ちにしていらっしゃった方も多いかと思います(一番心待ちにしていたのは調査担当者かもしれませんが)。

 西側丘陵では、青谷上寺地遺跡で見つかった道路遺構の延長線部分を確認し、古代山陰道がどのように伯耆国との険しい国境地帯を越えていったのかを調べていく予定です。

 調査初日、繁茂する草木の伐採など、毎回の環境整備を行うと、道路痕跡とみられる大規模な切通しが現地形にくっきり浮かび上がってきました(写真1)。当然ですが、草木を伐採する前に比べると、切通しをより視覚的に捉えることができるようになり、改めてその大きさに驚かされます。

 調査地周辺には、100基程度からなり、船の線刻壁画をもつ古墳も含まれる「吉川(よしかわ)古墳群」や、山城の可能性がある「青谷大平(おおひら)城」などが存在しており、古代山陰道と古墳、中世城館との関係も明らかにできるかもしれません。

今後の調査成果をお楽しみに!

青谷西側丘陵の発掘調査地

青谷西側丘陵の発掘調査地

青谷西側丘陵に残る大規模な切通し(環境整備後)

青谷西側丘陵に残る大規模な切通し(環境整備後)


令和3年度古代山陰道の発掘調査を開始しました!

 令和3年7月13日(火)に古代山陰道の発掘調査を開始しました。前日の12日(月)に開始する予定でしたが、先週から続いた豪雨の影響もあり、1日遅れのスタートとなりました。
 前回お伝えした通り、東側丘陵の養郷狐谷(ようごうきつねだに)遺跡では、斜度20~25度前後の丘陵斜面に新たなトレンチ(調査区)を追加するため、まず、環境整備を行いました。環境整備前の斜面は草木が生い茂り、地面も確認できないほど鬱蒼(うっそう)とした状態でした(写真1)。作業員さん5名とともに雑木の伐採や草刈り等の作業を行いましたが、30度を超える暑さに加え、湿度も非常に高かったため暑さ対策をしても、汗びっしょりで大変な作業となりました。
 最後には、斜面の地形がくっきりと確認できるようになり、つづら折りの里道も姿を現しました。このつづら折りの里道は江戸時代のものとみられ、地籍図にも道として描かれていることから、数十年前までは使用されていたと考えられます(写真2)。
 昨年度の調査から、この斜面を古代山陰道が通過することは確実とみられますが、どういった道路遺構が発掘されるのか、とても楽しみです。

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写真1 環境整備前の斜面の様子

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写真2 環境整備後の斜面の様子

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センター紹介

 久松山地域は戦国時代以降鳥取城が築かれ、鳥取藩32万石の中心地でした。現在でもこの地域は県庁があり、行政の中心地となっています。

 しかし、戦国時代から遡ること約800年前の奈良時代、県庁から4キロほど離れたこの国府町に国史跡因幡国庁(現在の県庁にあたるもの)がありました。今ではひっそりとした田園地帯ですが、因幡三山(甑山(こしきやま)、今木山(いまきやま)、面影山(おもかげやま))に囲まれ、当時の面影を残す万葉の歴史と古代の出土品にあふれた万葉の里となっています。
 この歴史豊かな万葉の里の一角に埋蔵文化財センターはあります。


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