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第12回県史だより

 新鳥取県史編さん事業が開始して1年が経過しました。県史編さん室の顔ぶれは設置当初より若干変化しましたが、近世担当の坂本(室長)以下、原始古代・中世担当の岡村(専門員)、現代担当の西村(副主幹)、民俗担当の樫村(学芸員)、近代担当の大川(主事)、デジタル化担当の足田(非常勤)、古文書解読担当の茶谷(非常勤)、計7名で活動を進めていきます。昨年度同様、よろしくお願いいたします。
  

目次

  • 山陰線開通と移出入
  • 室長コラム(その11):幕末の爆発事故と史料引用の怖さ
  • 活動日誌:平成19年3月

山陰線開通と移出入

 今年は、明治40(1907)年に山陰線の境~鳥取間が開通してからちょうど100年にあたります。鳥取県下初の鉄道である山陰線は、その5年前の明治35(1902)年に境~御来屋間が開通したのを皮切りに順次路線を拡張、明治45(1912)年には出雲今市~京都間が全通しました。


 今ではあまり顧みられることはありませんが、近代化以前において交通・運輸の主役は水運でした。県内では、日本海側有数の良港で明治16(1883)年には全国主要港湾に指定された境港が、その中心的役割を果たしました。

 しかし、「いわゆる日本海時代といわれた海上輸送の時代は、明治の終りとともに終わった」と、「旧県史」はいいます(注1)。鉄道輸送の登場が状況を一変したというわけです。


 こうした様相を伝える資料に『鳥取県輸出入統計』があります。「輸出入」といっても実際は現代の概念でいう移出入(県外との物資の販売・購入)に関する調査統計で、海運・鉄道・陸運ごと、さらには個々の港・駅・峠ごとに移出入品目・金額・数量・発着地を記載しています。最初に作成された明治42(1909)年版の調査対象は6~12月だけでしたが、以降は通年となり、昭和11(1936)年版まで作成されたようです(注2)。この資料から、山陰線開通の頃の鳥取県における移出入状況を見てみましょう。


グラフ「鳥取県の移出入額の推移」

 上のグラフからは、鉄道敷設を画期に海運と鉄道の移出入額が逆転したことが、はっきり見て取れます。

 移出入の総額に占める鉄道の割合を計算してみると、明治43(1910)年には、移出で24%、移入では20%にすぎませんでしたが、早くも山陰線全通の翌年の大正2(1913)年には、移出で71%、移入で52%に急増しています。海運はこれと対照的で、同じ時期に移出は73%から20%、移入は78%から43%に落ち込んでいます。境港をとってみれば、明治43(1910)年には一港だけで県の移出額の44%、移入の53%を占めていましたが、大正期に入ってからは移出入ともに10%を割り込んでいきました。(ただし、県域をまたがない県内地域との取引については、この資料の調査範囲外です。)


 以後の時代に目を向けると、大正3(1914)年から始まる第一次世界大戦期に鉄道移出入額が大きく増加したことがグラフから確認できます。ある程度それは好況にともなう物価上昇による見かけ上のものですが、物流の主役が鉄道に替わったことには違いありません。移出入額に占める鉄道の割合は、大戦終結の頃には約9割にまで達しています。

 この好況を支えた県の主要産業が製糸業であったことは、忘れられがちな史実です。例えば、工業生産額に占める生糸類の割合を見れば、大正3(1914)年は36%、大戦末期には46~47%程度に及んでいました(注3)。移出額に占める生糸類の割合も、明治43(1910)年は19%、5年後の大正4(1915)年は23%、10年後の大正9(1920)年は27%と増加しています。


 こうして見ると、鉄道が明治・大正の地域経済に与えたインパクトは確かに大きなものだったようです。太平洋側・瀬戸内海側に比べて山陰の鉄道敷設が遅れたことを経済格差の根源とする見方は、こうした認識に基づいています。しかし、例えば、かつて海運を担った港町と、駅が建設された町とでは、鉄道の影響は全く異なっていたはずです。他方、交通・運輸の発達は、新しい消費財や文化との接触機会を通じて、生産活動のみならず人々の暮らしぶりにも影響を与えたと考えられています。このあたりの実証は容易でありませんが、鳥取県の近代史研究に残された重要な課題の一つといえます。

(注1)鳥取県編『鳥取県史 近代第3巻経済篇』(1969)617頁。

(注2)ただし、いくつか欠年もあり、大正12(1923)年版以降は『鳥取県輸移出入統計』と改題されています。また、年によって記載項目には相違があります。

(注3)鳥取県編『鳥取県生産額』、『鳥取県統計書』の各年版より算出。

(大川篤志)

室長コラム(その11):幕末の爆発事故と史料引用の怖さ

 とっとり政策総合研究センター地域文化研究室からの依頼で、「鳥取の暮らしの文化~火と人間の歴史~」と題して講演することになった。地域文化研究室では、年間テーマを設けて毎月講師を呼んで「水曜サロン」を開催されているが、私の担当は、今年のテーマ「火」に関する第1回目。余りに幅広いテーマで、何を話すかと悩みながら『鳥取藩史』を眺めていたところ、「火薬」の項があった。「鳥取藩時代の火薬製造」についてならば、他の講師とテーマが重複することはあるまいと、これについて触れることとした。


 この問題を選んだ理由は、私自身意外に思い、きっと多くの方も意外に思われるだろう事実があるからである。火薬の原料となる硝石は、現在は輸入されているが、江戸時代は国内で生産されていた。どこで生産されたかというと、古い民家や寺の床下なのである。

 硝石(硝酸カリウム)は、くみ取り便所の壁から床下の土中に染み出した窒素に富む糞尿などから生じたアンモニアに亜硝酸細菌と硝酸細菌が作用してでき、そのため、古い民家の床下の土壌には、硝石が蓄積された。江戸時代には、それを専門の職人が村々を廻って集め、火薬の原料としていたのである。(先日、民放のテレビ番組でこのことが話題となったので、ご存じの方もあるかもしれないが、私がテーマを選んだのは放送日前であった。偶然というのはあるものだ。)

 兵器である鉄砲の火薬の原料は、普通の村の家々の床下で「生産」されていた。「軍事」につながる生産が、日常生活の文字通り「足下」で進行していたことは、現代に通じるメタファーになるのでは、というのが、私が話したいと思った一つである。


 ところが、幕末になると少し様子が変わってくる。鳥取藩では、軍事上の必要から、増産のため鳥取の近郊に何カ所か、硝石の形成を人工的に早める「煙硝場」を造る。その中のいくつかは、同時に火薬の製造を行う藩営の「製薬場」でもあった。

 その内の一つである町屋製薬場(現鳥取市国府町)で、元治元年(1864)8月12日、少なくとも6名が死亡し、施設内を全焼させた大規模な爆発事故が起きている。このことは、当時の記録からも明らかで、地元の『国府町誌』でも詳しく触れられている。ところが、私が見ていた『鳥取藩史』では、「元治元年八月、町屋製薬場爆発の事有り」と記述はあるものの、その説明として後に引用している史料は、事件の一報を現在の警察に当たる御目付に伝えた「御目付日記」のみ、その中には、けが人がいるとのみで、死者の記述はない。というのは、爆発当初、すでに6人は即死状態だったのだが、正式な死亡確認がまだなされていない段階なので、第一報は「けが人」として報告されたのである。


 『鳥取藩史』の記述のみでは、読者にはこの事故が6名の死者を出した悲惨な事故であったことはわからない。編さん者が意図的に死者発生の事実を隠したのか、単純に紙数の都合上等で、これ以上の記述の必要を感じなかったのかはわからない。しかし、『鳥取藩史』のあと、同じく池田家によって編さんされた『池田慶徳公御伝記』においては、編年体の記述であるにもかかわらず、当日の条に事故の記述はなく無視されている。ちなみに『鳥取県史』にもこの事件の記載はない。

 史料を引用する時、どの史料を使うかによって、読者に与えるイメージは大きく違ってくる。たとえ、同時代に書かれたものでも、その史料の書かれる状況によって伝える内容は違う。そのことの怖さを自覚しながら、歴史は記述しなければと、自戒を込めて感じた次第。

(県史編さん室長 坂本敬司)

活動日誌:平成19年3月

2日
民俗資料調査(日野町・日南町・南部町、樫村)。
7日
池田家墓地保存修理視察(鳥取市国府町、坂本)。
8日
民俗資料調査(境港市・日吉津村、樫村)。
13日
第3回県史編さん専門部会(民俗)開催(西部総合事務所)。
15日
中世史料調査(湯梨浜町、岡村)。
日中戦争に関する史料調査(倉吉市、西村)。
民俗資料調査(琴浦町・倉吉市、樫村)。
16日
中世史料調査(琴浦町、岡村、錦織編さん委員長とともに)。
満蒙開拓義勇軍に関する史料調査(倉吉市、西村)。
20日
民俗資料調査(倉吉市・湯梨浜町、樫村)。
22日
民俗資料調査(鳥取市青谷町・同市佐治町、樫村)。
26日
琴浦町日韓友好資料館企画運営委員会(坂本)。
29日
民俗資料調査(鳥取市用瀬町・同市河原町、樫村)。
  

編集後記

 平成19年度最初の「県史だより」です。

 ソメイヨシノが満開となった近頃の県庁周辺では、新入生を見かけたり、地方選の演説が聞こえたりと、節目の季節を迎えたことを肌に感じます。われわれ県史編さん室も、リフレッシュした気持ちで新年度の調査や研究に取り組んでいきたいと思います。

(大川)