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見どころコラムその6

~中世城館調査のキックオフフォーラムです~

 

今や全国的にも空前のお城ブーム。県内でもお城を活用した取組みがはじまっています。
保護と活用の推進、地域づくりや観光振興が求められる文化財行政にあってはもってこいの素材です。

鳥取県埋蔵文化財センターでは本年度から中世城館を調査研究テーマに設定し取り組んでいます。

因幡、伯耆は山名氏の分国でしたが、山陰の東側は惣領家但馬山名氏、西側は尼子氏、山陽側は大内氏、毛利氏、そして天下一統をはかる織田軍の覇権争いに呑み込まれてしまいます。

因幡・伯耆で外部勢力に起因した攻防が展開される緊張状況の中で、国人又は外部勢力が関与したと考えられる中世城館が築かれていきます。

中世城館が密に築城されているエリア、大規模又は入念な防御施設が造作された城館があります。

今回のフォーラムは、中世城館に関わる調査研究のスタート、キックオフに位置付けています。

因幡・伯耆を取り巻く中国地方などの周辺地域を含めた歴史の動きや外部勢力に関わる中世城館の特徴などの一端を明らかにしていき、今後の中世城館の調査研究に役立てるのはもとより、地元の皆さまや関係者に調査研究への理解と協力、そして期待をもって応援していただけるよう願っています。

内容は盛りだくさんの半日コースですが、事例単位でのご聴講も可能です。
入場は事前申込制としておりますので、ホームページ、メール、電話、ファックスなどでお早めにお申し込みください。


見どころコラムその5

~合戦の連鎖と尼子残党の影響~

9月1日(月)のフォーラムでは、周防大内氏、出雲尼子氏、安芸毛利氏らが覇権を争った合戦について、合戦に至った背景、合戦の概要、合戦の勝敗を分けたもの、合戦が当事者や因幡伯耆に及ぼした影響について考えていきますが、合戦の結果が次の合戦や事件の原因となる、合戦の連鎖が見られます。

毛利氏が尼子氏を攻めた第2次月山富田城合戦では、籠城の末に尼子氏が降伏し、毛利氏が中国地方の雄となりましたが、戦後に残った尼子家臣団により、尼子勝久や山中鹿介らによる尼子再興戦に繰り返し悩まされることになります。

尼子再興戦は、中国地方に動乱を招き、毛利氏に大きなダメージを与えるとともに、因幡・伯耆にも大きな影響を及ぼしました。

毛利氏の因幡・東伯耆計略の要であった毛利与党に対して、尼子残党が関与したとみられる重大な事件や出来事も起きています。

因幡では鵯尾城での武田高信襲撃事件への関与、伯耆では南条宗勝の不慮の死への関与や南条元続の織田方への寝返り工作です。

詳細については、フォーラム会場にてご確認ください。

見どころコラムその4

~雑兵物語と伊藤先生~

 

今回のフォーラムの企画は、元文化庁で主任調査官を歴任され、大学教授もお勤めになっていた伊藤先生との出会いからはじまりました。

お酒の入った席での歓談なのですが、戦国時代の足軽のエピソードをいくつかご紹介いただきました。

小荷駄隊の心得として、敵の領地に入ったら、逃げ出した奴らは運びきれない物を家の外に埋める時は鍋や釜に押し込んで穴に入れて、その上に土を掛けておくから、霜の降りた朝によく注意をして辺りを探せば、物を埋めた場所だけ霜が消えているから、埋めてある物を掘り出せ。というのがありました。

17世紀中頃、太平の世で足軽たちの訓練用のテキストとして作成され、戦国時代の足軽たちの実態を示す唯一の史料とされている「雑兵物語」に出ているとのことで、鳥取県立図書館に蔵書があります。

フォーラムでは、伊藤先生からは、戦国時代の転換点のお話しのほか、戦国時代の足軽・雑兵の実態や、村町の年貢と軍役負担の実態などのお話もしていただきます。


見どころコラムその3

~南条宗勝の転身~

 

大内、尼子、そして毛利が中国地方で覇権争いをした3つの籠城戦。
県外での合戦に、伯耆羽衣石(うえし)城の南条氏らが従軍しています。
これを表にしてみました。
年 次 合戦名、対戦相手、勝者 従軍先 結 果
天文 9(1540)
   ~
天文10(1541)
吉田郡山城の戦い
(毛利・大内 対 尼子)
 毛利・大内が勝利
尼子方 負け組
天文10(1541)
   ~
天文11(1542)
第一次月山冨田城の戦い
(尼子 対 大内)
  尼子が勝利
大内方 負け組
永禄 8(1565)
   ~
永禄 9(1566)
第二次月山冨田城の戦い
(毛利 対 尼子)
  毛利が勝利
毛利方 勝ち組
ここから何が見えてくるでしょうか?

もう一つの籠城戦、中国平定をめざした織田方の秀吉軍が毛利軍の守る鳥取城
を天正9年に攻めますが、南条氏は毛利方、織田方どちらに属し、どう向き合った
のでしょうか?

因幡、伯耆は山名氏の分国でしたが、山陰の東側は惣領家但馬山名氏、西側は
尼子氏、山陽側は大内氏、毛利氏、そして天下一統をはかる織田軍の覇権争い
に呑み込まれてしまいます。

因幡、伯耆の国人たちは生き残りをかけて、どう立ち向かったのか?
県民の日(9月12日)を前に考えます。
 

 


見どころコラムその2

~籠城戦の戦力比較~

 

大内、尼子、そして毛利が中国地方で覇権争いをした3つの籠城戦。
攻城戦では、攻城側の兵力は守備側の10倍以上必要といわれたりします。
軍記等も含め諸説ありますが、戦力比較を表にしてみました。

年 次 合戦名、対戦相手、勝者 攻城軍
籠城軍
天文 9(1540)
   ~
天文10(1541)
吉田郡山城の戦い
(尼子 対 毛利)
毛利・大内が勝利(籠城軍)
【攻城軍】(尼子)
・1万騎(雲陽軍実記)
・3万也(郡山籠城日記)
・5万余(陰徳記)
【籠城軍】(毛利)
・3千(陰徳記)
・女童共に8千、軍用は2千4~5百(吉田物語)
【後詰軍】(大内)
・1万也(郡山籠城日記)
・2万余騎(陰徳記)
天文10(1541)
   ~
天文11(1542)
第一次月山冨田城の戦い
(大内 対 尼子)
尼子が勝利(籠城軍)
【攻城軍】(大内)
・4万5千余騎(雲陽軍実記)
【籠城軍】(尼子)
・1万5千(陰徳記)
永禄 8(1565)
   ~
永禄 9(1566)
第二次月山冨田城の戦い
(毛利 対 尼子)
毛利が勝利(攻城軍)
【攻城軍】(毛利)
・3万5千余騎(雲陽軍実記)
・3万騎、(陰徳記)
【籠城軍】(尼子)
・1万騎(陰徳記)

これから何が見えてくるでしょうか?

数字の上から見ると、「吉田郡山城の戦い」では、攻城軍と籠城軍が概ね10対1で攻城軍が優位ですが、戦のセオリーどおり後詰めが来てくれたことで、籠城軍の勝利となっています。でも勝利の真因は何だったのでしょうか?

「月山冨田城の戦い」はどうだったのでしょうか?

地元気鋭の研究者から、データからは見えてこない、籠城戦の実像を明らかにしていただきます。

もう一つの籠城戦、中国平定をめざした織田方の秀吉軍が毛利軍の守る鳥取城を天正9年に攻めますが、鳥取城の籠城戦では、毛利輝元や吉川元春、城将の吉川経家には何らかの勝算があったのでしょうか?

 

見どころコラムその1

~合戦の勝敗を分けたもの~

 

因幡、伯耆は山名氏の分国でしたが、山陰の東側は惣領家但馬山名氏、西側は尼子氏、山陽側は大内氏、毛利氏、そして天下一統をはかる織田軍の覇権争いに呑み込まれてしまいます。

県外で行われた覇権争いの合戦の帰趨が、因幡・伯耆に大きな影響を及ぼします。

戦国時代の終盤、周防大内氏、出雲尼子氏、安芸毛利氏らが覇権を争って合戦を繰り広げ、勝者となった毛利氏が、天下一統をめざす織田方の秀吉軍と鳥取城で対決しました。

合戦の結果が次の合戦の原因となる、合戦の連鎖も見られます。

今回のフォーラムでは、合戦に至った背景、合戦の概要、合戦の勝敗を分けたもの、合戦が当事者や因幡伯耆に及ぼした影響についても考えていく、初学者にもおススメのフォーラムです。

鳥取城攻めは兵糧攻め、吉川経家しか知らないというあなた、一緒に合戦の真実に迫っていきましょう。

内容は盛りだくさんの半日コースですが、事例単位でのご聴講も可能です。
入場は事前申込制としておりますので、ホームページ、メール、電話、ファックスなどでお早めにお申し込みください。

  

センター紹介

県の中心部は、室町時代の後期は湖山池ほとりの天神山に守護所が置かれ、江戸時代の前からは久松山(麓)に城が置かれるようになり、明治時代から現在まで県庁が置かれています。県庁から4キロほど離れた国府町に奈良時代の国史跡の因幡国庁跡があります。今ではひっそりとした田園地帯ですが、因幡三山(甑山(こしきやま)、今木山(いまきやま)、面影山(おもかげやま))に囲まれ、万葉の歴史と古代の出土品にあふれた万葉の里に埋蔵文化財センターはあります。

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