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第156回県史だより

目次

  • 記事名:「亀井文書」にみる中世西因幡地域の自然環境
         ―因幡国にも朱鷺(トキ)がいた!―

  • 活動日誌:2019年4月5月

「亀井文書」にみる中世西因幡地域の自然環境―因幡国にも朱鷺(トキ)がいた!―

はじめに―亀井茲矩の発給文書について

 亀井茲矩といえば、戦国時代から江戸時代初めにかけて、朱印船貿易を行ったり、鹿野城主として新田開発や産業振興に積極的に取り組んだ武将としてよく知られています。地元鹿野では「亀井さん」「亀井公」と呼ばれて親しまれ、大井手用水をはじめとして、その業績は今なお県内各地に残されています。

 国立歴史民俗博物館が所蔵する「亀井文書」には、羽柴秀吉の因幡攻めや亀井茲矩の気多郡支配に関する史料をはじめ、戦国時代から江戸初期にかけての亀井氏に関する古文書が多数残されています。

 この中に、茲矩が大坂滞在中に「長卿(あるいは長郷)」の名で鹿野の家臣たちに宛てた書状が7点含まれています。内容的に一連のものであり、「太閤様」「秀頼様」といった記述がみられることから、慶長2年(1597)頃のものである可能性が高いと思われます(注1)。筆跡や内容からいずれも茲矩の自筆であると考えられ、署名の下には花押も据えられています。

 当時、茲矩は大坂で何らかの普請事業に従事していました。「石ふしん」「角石」「石引綱」とあることから、石垣の普請か石垣の石材の加工・運搬に関するものであったと推察されます。詳細は不明ですが、当時、畿内では文禄5年(1596)閏7月12~13日にいわゆる「慶長伏見地震」と呼ばれる大地震が発生し、伏見城が倒壊して多くの被害が出ました(注2)。秀吉は場所を木幡山に移してただちに伏見城の再建を命じ、慶長2年5月に完成して入城しています。時期的にみれば、このときの伏見城築城と関わりがあるかも知れません。あるいは、秀吉は慶長3年(1598)に大規模な大坂城の工事を行っていることから、このときの大坂城築城との関係も考えられます(注3)

 茲矩自身、かなり筆まめだったようであり、大坂滞在中も鹿野の家臣に宛てて、細かい指示を何度も送っています。その中には、領民支配や経済活動など大名としての性格を示す内容以外に、動物・植物の捕獲・採集に関するものや、漆・鉄・紙・油などの生産・加工に関するもの等々、当時の西因幡地域社会に関する情報がたくさん含まれています(注4)

 今回は亀井茲矩の書状を読み解きながら、中世の西因幡地域の(1)自然環境、(2)資源と産業、(3)亀井茲矩と地域社会の関わりについて、計3回に分けて探ってみたいと思います。

「亀井文書」にみえる鳥類の記述

 中世の西因幡地域はどのような生物が生息し、どのような景観が広がっていたのでしょうか。ここでは「鳥」をキーワードにこの地域の自然環境の一端を明らかにしてみたいと思います。

(1)タウ(トウ)

 茲矩が大坂から鹿野の家臣に宛てた書状の中に、次のような記述があります。 

・たうの子を堀内殿と約束したが、去年も風で吹き落ちたとして、高山が捕獲できなかった。高山の去年の不出来は残念なことである。(1792号)(注5)
・たうの子は、日置・勝部の奥に子を生むとのことである(同)

 この内容から、「たう(とう)」と呼ばれる鳥が西因幡地域に生息し、その幼鳥の捕獲を高山某に命じていたことがわかります。この「たう」とは何の鳥でしょうか。

 結論を言えば、この「たう」とは「朱鷺(トキ)」のことを指していると考えられます(注6)。トキは奈良時代以前から日本の地に生息しており、『日本書紀』では「桃花鳥(ツキ)」と表記され、平安時代には「鵇」「鴾」と記されて「タウ」「ツキ」と呼ばれていました。江戸時代には全国各地で生息が確認されていましたが、美しい羽を持つことから近代以降の乱獲で個体数が激減し、特別天然記念物に指定されているのは周知のとおりです。

 中世以前のトキは主に東日本を中心に生息し、西日本では珍しい鳥だったようです。因幡国にトキが生息していたことが確認できたのは今回が初めてです。

 トキは水辺や水田に住むドジョウやカエル、小さな昆虫を捕食し、繁殖期には周囲が見渡せる高い木の上に巣を作り産卵・育雛を行うことが知られています。巣が「風で吹き落ちた」という記述からは、木の上に巣を作るトキの生態がイメージできます。

 また「日置・勝部の奥に子を生む」とありますが、日置・勝部というのは、現在の青谷町を流れる日置川・勝部川流域に形成されていた日置郷・勝部郷内の地域を示していると考えられます。これらの地域の奥深いところにトキが営巣するのに適した高い木があったと推察されます。

 これらの記述から、中世の西因幡地域にトキが生息していたこと、その餌場となる水辺や水田が広がっていたこと、日置・勝部あたりを中心に営巣に適した高い木を含む山林が存在していたことなどがわかります。中世の西因幡地域にはトキが生息・営巣するのに適した自然環境が広がっていたと推察されます。

写真1
トキ(写真提供:公益社団法人 新潟県観光協会)

(2)オシドリ

・(豊臣)秀頼様は鳥がお好きなので、をし鳥をくし網にて捕獲するように。深い山に子を生むので、山深い淵に網をさすよう申し付けること。(1792号)  
・秀頼様への進物には珍しき鳥がよい。おし鳥を2番・3番捕獲して、大坂に進上するように。(1794号)

 この記述から、茲矩が「オシドリ」を網で捕獲して大坂に送るよう家臣に命じていることがわかります。 「番」とは「つがい」のことであり、茲矩は深い山中に網をさしてオシドリを雌雄のつがいで2~3組捕らえるよう命じています(注7)。当時3~4歳の豊臣秀頼は鳥に興味があったとみえ、これらのオシドリはいずれも秀頼への献上品であったこともわかります。

 現在、オシドリは秋から春にかけて主に日野町の日野川に多数飛来することが知られており、鳥取県の県鳥にも指定されています。寛政7年(1795)成立の『因幡志』によれば、湖山池にも生息していたことがわかります。おそらく江戸時代には因幡・伯耆の水辺を中心に広い範囲でオシドリが観察されたのでしょう。ただ「珍しき鳥」と茲矩が言っているように、中世の頃は全国的に珍しい鳥であったと考えられます。

 一般にオシドリは河川や湖沼で生息し、雑食性でカシやシイなどのドングリや水生昆虫などを食べ、水辺または森林の樹木の洞で営巣することが知られています。「深い山に子を産む」「山深い淵に網をさすように」と茲矩が言っていることから、気多郡の山深いところに大木があり、その樹洞にオシドリの巣があったものと思われます。

 これらの記述からは、中世の西因幡地域にオシドリがいたこと、オシドリの餌場となる水辺が広がり、餌となるカシ・シイなどの広葉樹や昆虫などの生物がいたこと、洞を持つ大木を含む山林があり、そこでオシドリが営巣していたこと等がわかります。

写真1
「オシドリ(写真提供:鳥取県)」

(3)クマタカ

・くまたかの子を鹿野にてかい立てるように仰せつけること。(1792号) 

 クマタカは大型の鷹で、中世から全国各地に生息していました。山地の森林に住み、主にウサギやキジなどの小動物を捕食していました。古くから鷹狩に用いられたほか、尾羽は矢羽としても重宝されていたようです。

 ここで茲矩はクマタカの幼鳥を鹿野で「かい立てる」よう命じています。「かい立てる」というのは、『日葡辞書』(注8)によれば「獣などを育てる」とあり、「飼う」という意味で用いられていたことがわかります。このことから、鹿野の地で養鷹が行われていたことが確認できます。このことは同時に養鷹の技能を持つ「鷹師」が鹿野にいたことも示しています。

 当時、戦国大名の間では、鷹狩が盛んに行われていました。織田信長の鷹好きは有名ですが、豊臣秀吉や徳川家康も鷹狩を好んでいたことが知られています。

 鷹狩のみならず、養鷹も戦国武将にとっては豊かさと権威を象徴するものとして重要視されていました(注9)。特に越前朝倉家の場合は、自然の山の鷹巣から下ろされたヒナを育てるのではなく、鷹を卵から人工繁殖させた例が知られています。こうして飼育された鷹は、貴重な贈答品として大事な相手に贈られ、大名たちの交流関係を支えていきました。

 茲矩も鹿野でクマタカの雛を飼育した後は、オシドリと同様に贈答品として用いる予定だったのかも知れません。

 僅かな記述ですが、ここからは、西因幡地域にクマタカが生息していたこと、クマタカの活動や営巣に適した山林が広がっていたこと、餌となる小動物がいたこと、鹿野の地に鷹師がおり養鷹が行われていたこと等がわかります。

写真4
「クマタカ(剥製:清末忠人氏所蔵)」

小括

 今回は「鳥」をキーワードに、中世の西因幡地域の自然環境の復元を試みました。亀井茲矩の書状から、この時代の西因幡地域にトキ・オシドリ・クマタカなどの鳥が生息していたことが確認できました。紙幅の関係で省略しましたが、このほかにも亀井茲矩はカリガネ(マガンのこと)、百舌(モズ)、カモ等も捕獲して大坂に運上するよう命じていることから、これらの鳥も西因幡地域にいたことがわかります。

 これらの内容から、中世の西因幡地域は、オシドリ・トキ等が生息できるような川・湖沼・水田が広がり、そこには餌となるカエルなどの小動物・昆虫・水中生物やシイ・カシなどの広葉樹などが少なからず存在していたと思われます。また山中には高い木や洞を持つ大木なども存在し、鳥たちが営巣するのに適した環境が整っていたと考えられます。このような豊かな自然に囲まれた環境の中で人々は自然と共存しながら生活していたものと推察されます。

 では、中世の人々はこの地域の自然環境とどのように関わっていたのでしょうか。次回は、西因幡の地域資源と人々の生業について考えてみたいと思います。


追:本稿は7月に鳥取市で実施した出前講座の内容の一部をまとめたものです。この地域の鳥類の生態については清末忠人先生と県立博物館の一澤圭主任学芸員に御助言をいただきました。この場を借りてあつく御礼申し上げます。

(注1)『鹿野町誌』はこれらの文書を文禄3年(1594)の伏見城築城時のものとしているが、近年の豊臣秀頼の研究では「拾」から「秀頼」への改名を文禄5年(慶長元年・1596)閏7月15日~19日の間に比定している(福田千鶴『豊臣秀頼』吉川弘文館、2014年)。本稿もこの説に従う。

(注2)この地震を契機に元号が「慶長」に改められている。

(注3)これらの文書の年代比定については『新鳥取県史資料編 古代中世1 古文書編 下』(以下『古文書編』と略す)573頁参照のこと。なお、『古文書編』は大坂城の普請に関わったと注記しているが、伏見城普請の可能性も考えられる。

(注4)ここでは旧気多郡(気高町・鹿野町・青谷町)を中心とした地域を西因幡地域と呼ぶことにする。

(注5)番号はいずれも『古文書編』の文書番号。

(注6)『図説 鳥名の由来辞典』(柏書房、2005年)、小学館『日本国語大辞典』「朱鷺」の項。

(注7)「網をさす」というのはカスミ網漁のことと考えられる(清末忠人氏のご教示による)。

(注8)日本語をポルトガル語で解説した辞典。イエズス会によって1603~04年に長崎で発行された。

(注9)宮永一美「戦国武将の養鷹と鷹書の伝授―越前朝倉氏を中心に―」(仁木謙一編『戦国織豊期の社会と儀礼』吉川弘文館、2006年)

(岡村吉彦)


156回、157回、158回県史だよりは、三部作として、それぞれ、WEB版:7月末・8月末・9月末、プリント版:8月・9月・10月初旬に館内設置となる予定です。

活動日誌:2019年4月・5月

17日
地域歴史資料所在調査(鳥取市個人宅、岡村)。
20日
占領期の鳥取を学ぶ会(鳥取市歴史博物館、西村)。
21日
東海鳥取県人会歴史講座出講(名古屋市内、岡村)。
アーカイブズ学会、国会図書館調査(~22日、学習院大学、国会図書館、西村)。
22日
資料調査(智頭町埋蔵文化財センター、東方)。
24日
デジタルアーカイブシステムにかかる協議(鳥取県立図書館、岡村)。
大阪府高齢者大学校出講(大阪府内、西村)。
26日
近世部会(公文書館会議室)。
27日
10日
青銅器調査にかかる挨拶、協議(日南町樂樂福神社、岡村)。
13日
地域歴史資料所在調査(大雲院、岡村)。
16日
災害アーカイブズにかかる協議(東京大学史料編纂所、岡村)。
17日
中世資料調査(太陽コレクション(東京都町田市)、岡村)。
18日
占領期の鳥取を学ぶ会(鳥取市歴史博物館、西村)。
21日
地域歴史資料所在調査(河本家、岡村)。
22日
『名刀「古伯耆物」日本刀顕彰連合』鳥取県担当者会議(西部総合事務所、岡村)。
25日
  

編集後記

 じめじめした長い梅雨があけ、また猛暑の夏が訪れました。県史編さん室はいま、考古編・現代編の編集の追い込みの時期を迎えています。
 さて今回の県史だよりは、戦国から江戸時代初期の鹿野城主亀井玆矩文書に現れるトキ・オシドリ・クマタカの資料から、当時の自然環境に思いをはせる内容です。私の自宅は鷲峰山から鹿野を経て宝木にそそぐ河内川沿いにありますが、早朝土手沿いを歩くとたくさんの鳥が水端に生える木にとまっているのが見られますし、水田にはシラサギやアオサギがカエルや虫を狙って静かにたたずんでいます。昭和12年鹿野生まれの母は、トキやクマタカはみたことないが、オシドリは近くに来たことがある、最近は白鳥が来るようになったと話していました。中世以前、伯耆沿岸部の潟湖が船舶の停泊地として重要な役割を果たしていたことは、第140回県史だより「中世大山寺の寺領について」でも触れています。鹿野をとりまく西因幡地方は現在、山陰海岸ジオパークの一部をなしていますが、湖山池・水尻池・日光池、河内川がおりなすラグーン地形と後背湿地に多数の水鳥が棲息していたこと、そうした自然とのかかわりのなかに人間の営みもあったことが、こうした史料を読むことで鮮やかに浮かび上がるのです。

(西村)