第138回県史だより

目次

鳥取県で見つかった「和同開珎」について

はじめに

 突然ですが、皆さんに質問です。お店で商品を買ったとき、商品代はどのように支払いますか。現金払い?それともクレジットカ-ド払い?最近ではスマートフォンを利用したモバイル決済が普及して、財布が必要ないという方も増えているようですが、やはり「いつもニコニコ現金払い」という方が多いことでしょう。私たちの生活と切っても切れない関係にある「お金」。では、日本ではいつからお金が使われるようになったのでしょうか。知っているようで知っていないお金の話です。

日本最初の貨幣は?

 それでは、日本で最初の「貨幣」は何だったのでしょうか。この問いに対しては、最近まで辞書や学校の教科書にも「和同開珎(わどうかいほう(ちん))」と記載されていましたので、そう習ったという方もいらっしゃると思います。これは、平安時代初期に編纂された『続日本紀(しょくにほんぎ)』(注1)

慶雲5(708)年1月11日に武蔵国(現在の埼玉県西部)から「和銅(注2)」が朝廷に献上された。元明天皇(在位707~715年)はこれを大いに喜ばれ、この慶事を祝して慶雲5年を和銅元年と改元された。…同年5月11日、始めて銀銭を鋳造した。…同年8月10日、始めて銅銭を鋳造した。

という記事が記載されているからです。改元が行われるほどのめでたい出来事があった年に初めて鋳造された貨幣であるから「和銅」の年号に合わせて「和同開珎」という銭文が選ばれた(注3)というのが従来の説明で、聞き覚えのある方も多いことと思います。また、同年の5月と8月に初めて鋳造されたという銀銭と銅銭は、「和同開珎」に銀銭と銅銭があることとうまく対応することも根拠の1つです。しかし、同じ『続日本紀』には、文武天皇2(698)年3月に因幡国から、同年9月にも周防国(現在の山口県西部)から銅鉱が献上されたという記事が記載されています。武蔵国は「和銅」、因幡国と周防国は「銅(あかがね)の鉱(あらかね)」と表現されているため自然銅と銅鉱石という違いはありますが、武蔵国からの「和銅」献上が必ずしも朝廷への初めての銅の献上ではなかったことになります。

 さて、この「和同開珎」は朝廷が政策として流通を促進しましたが、地方の農民が目にする機会がどれほどあったかは疑問です。それでも、石川県金沢市の三小牛町サコ山(みつこうじまちさこやま)遺跡からは600枚以上の和同開珎が見つかっていて(注4)、かなり広範囲に流通していたのは間違いないようです。

皇朝十二銭の図
皇朝十二銭(鈴木2002より。一部改変)

 一方、『続日本紀』の前の正史である『日本書紀』(注5)には、天武天皇12(683)年4月15日のこととして、「今より以後は、必ず銅銭を用いることにして、銀銭を用いることが無いように」という詔(天皇の命令)が出されたと記載されています。和銅元年よりも25年も前にすでに銀銭・銅銭が存在してしたことになります。ここでいう銀銭に該当するのではないかと考えられているのが「無文銀銭」と呼ばれる直径3cm程度、重さ10グラム前後の円盤形で、中心に小さな孔があけられた銀製品です。この銀銭には古いお金の特徴である四角い孔が無く、また「和同開珎」のような文字も入っていません。さらに銀の小片を貼り付けたもの、「×」や「田」のような印が付けられたものも見つかっています。これは、のちの貨幣が鋳型に融けた金属を流し込んで造った鋳造(ちゅうぞう)品のため形が揃っていたのに対し、無文銀銭は銀板をたたいて成形したもののため形が不揃いであり、重さを調整しようとして銀片を貼り付けたのではないかと考えられています。

 無文銀銭は7世紀後半頃に造られてある程度は流通していたようで、現在までにおよそ30点あまりの出土例がありますが、奈良県や滋賀県・大阪府など近畿地方に集中しています(注6)。このうち、滋賀県大津市の崇福寺(すうふくじ)推定地の塔心礎(とうしんそ)跡からは、昭和15(1940)年の調査によって無文銀銭が11枚見つかっています(文献1)。『扶桑略記(ふそうりゃくき)』(注7)によると、崇福寺は天智天皇7(668)年に建立されたと伝えられています。塔がいつ建てられたのかは明確ではありませんが、崇福寺の建立とそれほど時間的な隔たりは無いと考えられるので、天武天皇12年の「銀銭を用いることが無いように」という詔が出された時点には「無文銀銭」が存在していたことはほぼ間違いないと考えられます。

崇福寺跡出土無文銀銭の図
崇福寺跡出土無文銀銭(長戸2007より。一部改変)

 しかし、詔でいう銅銭に該当するものが見当たらないために記事を疑問視する意見もありましたが、その有力候補として一躍注目を集めることになったのが「富本銭」です(注8)。この「富本銭」は、奈良国立文化財研究所が平成10(1998)年に実施した奈良県の飛鳥池遺跡(注9)の調査結果により「和同開珎」よりも前に鋳造されていた銅銭と結論づけられたもので、現在では日本最古の銅銭という評価がほぼ定着しています。ただし、その発見例はわずかであり、流通していたのは当時都が置かれていた現在の奈良県周辺に限られていたと考えられます。

平城京出土の富本銭の図
平城京出土の富本銭(松村1990より。一部改変)

鳥取県では

 鳥取県では今のところ「無文銀銭」や「富本銭」の発見例はありませんが、「和同開珎」は発見例がありますので以下で紹介します。

○良田平田(よしだひらた)遺跡(鳥取市)

 湖山池南岸の狭い谷部に位置する遺跡です。平成24(2012)年に財団法人鳥取県教育文化財団が実施した発掘調査により、4区の 溝の埋土最上部から、7~9世紀の須恵器や土師器、木簡を含む多種多様な木製品などに混じって、遺存状態が非常に良好な和同開珎1点が出土しました。また、3区の 溝からも7世紀~10世紀前半の須恵器や土師器、木簡や斎串(いぐし)などの多様な木製品とともに、皇朝十二銭(注10)の1つである富壽神寳(ふじゅしんぽう)(818年初鋳)が1点出土しています。良田平田遺跡からは多数の墨書土器や古代の木簡が出土しており、木簡の中には「前白木簡(ぜんぱくもっかん)」と呼ばれる7世紀末を中心とした時代に多用された書式で書かれているものや「孔王部(あなほべ)」氏の姓が記載されたものなどがあり、官衙に関連する施設が存在したと考えられています(文献2)。

○大桷(だいかく)遺跡(鳥取市)

 千代川の支流である野坂川によって削られた谷底平野に位置する縄文時代から中世にかけての複合遺跡です。平成26(2014)年に公益財団法人鳥取県教育文化財団が実施した発掘調査により、9世紀前半~11世紀の耕作溝群から和同開珎が1点出土しました。また、11世紀後葉頃に掘削された水路と考えられる溝の最上部付近からは、皇朝十二銭の1つである承和昌寳(じょうわしょうほう)(835年初鋳)が1点出土しています(文献3)。

○伯耆国庁跡(倉吉市)

 平成22(2010)年に倉吉市教育委員会が実施した発掘調査により、中心建物がある政庁南門前に位置する柵列(東西4間で長さ8.9m)の東端にある柱穴上層から和同開珎1点が出土しました。全体の半分以上を欠損していますが「和同」の2文字が確認できます(文献4)。

○諏訪西山ノ後(すわにしやまのうしろ)遺跡(米子市)

 会見郡衙と推定されている長者屋敷遺跡(伯耆町)の北側約1kmに位置する遺跡で、昭和56(1981)年に米子市教育委員会が実施した発掘調査によって、奈良時代の掘立柱建物4棟と多数の柱穴が見つかっています。掘立柱建物のそばのあった胞衣(えな)埋納遺構(注11)と考えられる穴の内に土師器の甕があり、甕の内部から和同開珎3枚、鉄製刀子1本、鋤先片2点、墨状炭化物1点が出土しました(文献5)。

鳥取県出土の和同開珎の図
鳥取県出土の和同開珎(文献2~5より。一部改変)

 以上のように、鳥取県内で見つかった和同開珎は、4遺跡から計6枚です。いずれも銅銭で、銀銭は見つかっていません。ちなみに、山陰地方から見つかった銀銭には、松江市の出雲国府跡から表面採集された1点(文献6)と、西ノ島町の黒木山6号横穴墓から人骨・貝殻・鉄製刀子などに伴って出土した1点(文献7)の計2点があります。銀銭は和銅元(708)年5月に鋳造が開始され、翌年の和銅2年8月には廃止されました。わずか1年あまりの鋳造期間のため鋳造された数は多くなかったと考えられますが、そのうちの2点が出雲国と隠岐国から見つかったことになり、将来的には因幡国・伯耆国からも見つかるのではないかと夢が広がります。

おわりに

 鳥取県の最古の「貨幣」をご紹介します。

 鳥取県で見つかった最古の貨幣は、鳥取市青谷町の青谷上寺地遺跡から見つかった貨泉(かせん)(注12)になります。これまで平成10(1998)~平成13(2001)年に県道整備事業に伴って実施された発掘調査(文献8)で出土した4点が知られていましたが、今年度の第17次調査(文献9)で新たに1点が見つかり、合わせて5点になりました。

青谷上寺地遺跡出土の貨泉の図
青谷上寺地遺跡出土の貨泉(文献8より)

 この貨泉は中国で造られて日本に持ち込まれたもので、日本と大陸との交流を物語る貴重な遺物ですが、物を売り買いするためのいわゆる「お金」として使用されたとは考えにくく、当時の人々にとっては、海の向こうから持ってこられた珍しい物、貴重な物という認識だったのではないかと考えられます。つまり、物を入手するための「手段」ではなく、入手すること自体が求められた「目的物」だったのでしょう。

 鉄の斧や刀子であれば、初めて見たとしても使い方を聞けば石の道具などに置き換えて理解することはできたでしょうが、「お金」の概念の無い弥生時代の青谷上寺地遺跡にいた人々は、丸くて四角い孔がある小さな金属の塊(貨泉)を一体何だと思ったのでしょうか。

(注1)『日本書紀』に続く公式な歴史書に位置づけられるもので、延暦16(797)年に完成。文武天皇元(697)年から桓武天皇の延暦10(791)年までの95年間について記述されている。

(注2)「日本の銅」の意味ではなく製錬する必要のない金属の状態で産出した自然銅のこと。

(注3)年号は「和銅」であるが、貨幣の銭文は音が共通するものの「和同」となっている。

(注4)昭和31(1956)年発見。和同開珎は整理数558枚、未整理(破損品)を合わせると600枚以上になる。現在は京都国立博物館が所蔵。萬年通寳(760年初鋳)が含まれていないことから埋納時期が8世紀後半に下る可能性は低いと考えられている。近接する山寺(8世紀中頃~9世紀前半)に関連する地鎮供養が行われた可能性が高い。

  芝田悟1994「金沢市三小牛町サコ山の「和同開珎」」(『出土銭貨』創刊号 出土銭貨研究会)。

(注5)養老6(720)年に成立した日本初の公式の歴史書。神代より持統天皇の代までが記述されている。

(注6)江戸時代の宝暦11(1761)年に現在の大阪市天王寺区で約100枚が見つかり、番所へ差し出したと言われているが確実なことは分からない。

(注7)12世紀末の成立した歴史書。神武天皇から堀河天皇の寛治8 (1094)年までを記述。

(注8)直径約24mmの円形で、中央に一辺約6mmの正方形の孔が存在する円形方孔の形式である。この形式は、唐の初代皇帝李淵(高祖)の武徳4(621)年に初鋳された開元通寳を模したものと推定されている。表面には、縦に「富夲」と書かれており、横には7つの点が亀甲形に配置された七曜星という文様がある。「夲」は「本」の異体字であると考えられている。

(注9)奈良県明日香村の飛鳥寺東南の谷間で発見された飛鳥時代の遺跡。ガラス製品や金・銀・銅製品などを製作していたことが判明しているほか、数千点にも及ぶ木簡が出土している。

  奈良国立文化財研究所2000『奈良国立文化財研究所年報2000-2.』

(注10)和銅元(708)年初鋳の和同開珎から天徳2(958)年初鋳の乾元大寳までの律令期に朝廷が鋳造した12種類の貨幣の総称。いずれも形は円形で中央に正方形の穴が開いている円形方孔の形式。

(注11)生まれた子供の健やかな成長や立身出世を祈り、胞衣(えな)(胎児を包んでいた膜や胎盤など)を埋めた跡。胎盤などとともに銭貨を埋める場合もあった。

(注12)中国で、前漢と後漢の間に短期間存在した王莽が建国した新 (8~23年)の天鳳元 (西暦14)年に鋳造が始められた青銅製の貨幣。形は円形で、中央に方形の孔があり,表に孔を挟んで「貨」と「泉」の銘がある。中国本土をはじめ、朝鮮半島や日本からも出土する。日本では弥生時代の遺跡から出土するため、弥生時代の年代推定に役立っている。

(文献1)長戸満男2007「無文銀銭試論」(『研究紀要第10号』財団法人京都市埋蔵文化財研究所)

(文献2)鳥取県教育委員会2014『良田平田遺跡』

(文献3)鳥取県教育委員会2017『大桷遺跡1.』

(文献4)倉吉市教育委員会2012『史跡伯耆国府跡国庁跡発掘調査報告書(第12次~第14次)』倉吉市文化財調査報告書第141集

(文献5)米子市教育委員会1982『米子市諏訪遺跡群発掘調査報告書3.』、米子市史編さん協議会1999「西山ノ後遺跡」(『新修米子市史』第七巻 資料編考古 原始・古代・中世 米子市)

(文献6)島根県教育委員会2008『史跡出雲国府跡5』風土記の丘地内遺跡発掘調査報告書18

(文献7)西ノ島町教育委員会2010『黒木山横穴墓群』

(文献8)財団法人鳥取県教育文化財団2002『青谷上寺地遺跡4』鳥取県教育文化財団調査報告書74

  鳥取県埋蔵文化財センター2011『青谷上寺地遺跡出土品調査研究報告6 金属器』

(文献9)鳥取県埋蔵文化財センター2017『平成29年度 国史跡青谷上寺地遺跡 第17次調査現地説明会資料』

(参考文献)

・今村啓爾2001『富本銭と謎の銀銭 ―貨幣誕生の真相―』小学館

・鈴木公雄2002『銭の考古学』吉川弘文館

・松村恵司1990「富本銭について」『平城京右京八条一坊十三・十四坪発掘調査報告』大和郡山市教育委員会

(西川 徹)

活動日誌:2017(平成29)年9月

9日
軍事編刊行記念講座(米子市立図書館多目的研修室、西村)。
14日
古墳測量の事前挨拶(15日・20日、西川・岡村)。
16日
第4回占領期の鳥取を語る会(やまびこ館、西村)。
20日
古海36号墳の現地確認(鳥取市内(古海36号墳)、西川)。
資料調査(湯梨浜町中央公民館泊分館、樫村)。
25日
古墳測量にかかる現地説明会(県民体育館第2研修室、古墳現地、西川・岡村)。
28日
資料調査(智頭町旧山形小学校林業資料室、樫村)。
30日
現代部会(公文書館会議室)。

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編集後記

 朝晩に冷え込むようになり、秋が深まってきました。県史編さん室の窓から見える若桜通り沿いのケヤキの葉は赤く染まり、イチョウの葉は黄色が深まりました。

 今回は「和同開珎」についての記事です。「和同開珎」は円形の銭に四角の穴がある「穴あき銭(あなあきせん)」ですが、同じ穴あき銭では江戸時代を通じ使用された「寛永通宝」もよく知られます。時代劇の「銭形平次」が、下手人に向かって投げつけるあの銭です。「和同開珎」が鋳造された708年から明治維新の1868年を基準にしても1160年間も同じような形式の「穴あき銭」が日本では使用されてきました。

 また古い神社仏閣の境内には、現在も紐に通された「穴あき銭」が奉納されているのを見ることがあります。お賽銭には「ご縁(五円)」があり、穴から見通しがよい「五円玉」がいいとよく言いますが、伝統的な穴あきの系譜を引いていることも関係あるかもしれません。

(樫村)

  

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