第136回県史だより

目次

  • 記事名:戦後の警察職員の健康管理
  • 活動日誌:平成29年7月

戦後の警察職員の健康管理

 平成29年6月2日、鳥取県内の企業・団体などに所属する保健師で組織する鳥取県産業看護研究会の研究会が行われました。当日講師を務めたのは元鳥取県警察本部の保健師田中郁子さん。警察職員の健康管理に日々尽力された歩みを振り返り話されました。その後に行った聞き取りの結果を交えて、一保健師の歴史を振り返ってみたいと思います。

学徒勤労動員体験で従軍看護婦を志望

 田中郁子さんは昭和4年3月日野町根雨の生まれ。昭和19年根雨高等女学校4年生に在学中に勤労動員が始まり、米子駅近くにあった日曹米子工場(製鉄)の「理財部」で圧延作業用の手袋の縫製をしました。

田中郁子さん講演写真 
講演する田中郁子さん

 学徒勤労動員とは、国内の労働力不足を補うために実施された学校在籍者の強制動員で、鳥取県では昭和19年8月から中等学校3年以上の生徒が県内の工場や農場へ動員されました。田中さんが動員された日曹米子工場(日本曹達株式会社米子製鋼所)には、根雨高等女学校のほかに、鳥取師範学校(現鳥取大学)、倉吉中学校(現県立倉吉東高等学校)、米子中学校(現県立米子東高等学校)、米子高等女学校(現県立米子西高等学校)の生徒も動員され、陸海軍の管理工場として大砲の弾倉、艦船の大型クランクシャフト、爆弾等を製造し軍部に納品しました(注1)

 工場で一生懸命働いた田中さんは、男子の工員が怠けているのを見て、「女でも御国のためになる仕事をしたい」と思い、戦地で働く従軍看護婦を夢見て昭和20年4月鳥取赤十字病院看護婦養護訓導養成所に入学します。

終戦前後の鳥取赤十字病院

 鳥取赤十字病院看護婦養護訓導養成所は、病院看護師と学校養護教諭を養成する機関で、入学資格は甲(女学校卒)・乙(高等小学校卒)二種に区分されていましたが課程は同一で、時局を反映し二年制に短縮されていました。授業に教科書はなく、病院の医師・婦長から指導を受けました。教室はバラック建てで、寄宿舎に一学年100人、8畳部屋に8人が居住しました。当時の鳥取赤十字病院は舞鶴の海軍病院の分院だったため患者は海軍の将兵が多く、空襲警報が鳴ると敷地内にあった防空壕に患者を運び入れました。鳥取駅に着いた患者を担架で病院まで運んだこともあります。負傷した兵隊さんの足が化膿してウジが出ているのを水洗いした記憶もあります。

 昭和20年8月15日は非番で寄宿舎にいましたが、病院の玄関二階の講堂に全員集まるよう指示があり玉音放送を聞きました。何をいっているかさっぱりわからず、寄宿舎に帰ってから日本が負けたという話を聞きました。患者の中には敗戦と知り狂ったようになった人もいました。2年生の先輩たちは広島に行き原爆の救護にもあたりました。被爆の体験は戦後もなかなか話されませんでした。

 昭和22年3月に卒業し、4月からは甲種救護看護婦として鳥取赤十字病院で働きました。併せて国民学校養護訓導(教員)の資格も取得しました。保健婦資格は昭和22年に県の資格試験を受けて合格、助産婦は鳥取赤十字附属産婆養成所に2年学んで資格をとりました。昭和23年に成立した保助看法(保健婦助産婦看護婦法)により三職が国家資格となったため、昭和26年2月に行われた第一回看護婦国家試験を松江で受験、合格。26年3月まで鳥取赤十字病院で看護師を務めたのち、日野病院、名和町国保直営診療所に勤務し、昭和32年に鳥取県警察本部の保健師として採用されました。

警察では結核対策が喫緊の課題

 警察では警務課厚生係(のちに厚生課健康管理係に改組)で、警察本部と県内11警察署の職員あわせて約1300人の健康管理を行いました。「警察職員健康管理規程」をもとに、検診計画の策定、各所属への通知、検診機関への連絡、結果のとりまとめなどの業務をすべて一人でこなしました。結核対策を重点にして、当時は全警察職員の13パーセントが罹患し、うち33人が入院治療中でした。33人といえば小規模の警察署1つの閉鎖に相当する大問題でした。結核患者の病気休職期間は3年間でしたが、幸いなことに結核による死亡者はなく、3年すぎても復職できなかった人もいませんでした。結核患者がゼロとなるのに26年間かかりました。

 結核患者が少なくなった頃、職員在職中の死亡原因は胃がん、脳卒中、心臓病(成人病)が多く、疾病予防、早期発見を重点に、胃の検診、循環器検診をはじめました。異常者は精密検診を実施し、事後指導も行い、人間ドックも他の職場より早く始めました。その後、特殊な勤務者に対する検診もつぎつぎ始めました。警察というところは上からの指示がストレートに下りる組織なので検診受診率は高く、その点はよかったと感じています。ただ、手を広げすぎて、一人で検診屋をして来たことに気づき、保健婦本来の保健指導を増やしたいと思い、検診や事務処理の合理化、予防接種の中止等、業務の見直しをして保健指導を多くするよう努めました。昭和57年、田中さんは鳥取県警察初の女性係長に登用されました。

業務を記録し伝える、共有する

 周囲から保健師とはどんな仕事をしているかと聞かれて答えられるように、田中さんは業務記録をつけることにしました。日報をつけ、月報として整理し、年報にまとめました。同じ保健師でも、保健所や市町村に所属する保健師が一般の市民を対象にするのと異なり、「産業保健師」(以前は「事業所保健婦」ともいった)は所属する企業・団体の職員・社員の健康管理をするのが仕事です。管轄は労働省で労働安全衛生法に基づく活動でした。そのため市町村の保健婦とは話があわず、鳥取市内の事業所保健婦3人で集まって月1回水曜日の夜におしゃべりや勉強をする会をすることとし、後に10人程度になりました。これが現在の鳥取産業看護研究会の発足につながります。

 昭和63年3月の退職時には自身の活動と警察職員の健康状態の推移をまとめた「健康管理30年のあゆみ」を執筆し、1部は後任に引継ぎ、1部は自宅に保管しています。30年間警察職員の保健指導の仕事をして、後輩に伝えたいことは3つ。1つは検診・相談・事務の記録を残すことの大切さ。2つ目は保健師同志のヨコのつながりを大切にすること。3つ目は仕事の効果を追求して機会があれば研究発表をすること。発表することで自信がつき仕事にもプラスになるといいます。

 田中さんは退職後も人の役に立ちたいと思い、鳥取赤十字病院でガーゼ畳みをしている先輩にすすめられて参加し、「鳥取看護赤十字奉仕団」を立ち上げ、介護用品の縫製や人がたくさん集まるイベントの救護の手伝いをしました。また、その5年後には「病院ボランティア赤十字奉仕団」をたちあげ、病院の受付付近で来院者を案内する活動を続けています。

健康管理30年のあゆみの写真
田中さんが退職時にまとめた「健康管理30年のあゆみ」
職員の健康に関する記録が表やグラフを用いて丹念にまとめられている。

おわりに

 警察官が健康にその職務を全うできることは、県民の暮らしと安全に直結することで、田中さんの保健師としての30年はこれを根本から支えました。病院看護師や市町村保健師と異なり、一人職場の企業内保健の活動には相談相手がいないという苦労も多く、それは現在の産業看護の現場にも通じる課題といえます。また、日報・月報・年報をつけ、30年の記録誌を作られたことは、業務の内容を対外的に示すとともに、戦後の警察職員の健康管理に関する貴重な記録史料となっています。

集合写真
聞き取りを終えて。
左から西村、田中さん、四井幸子さん(元看護師)、渡部一恵さん(保健師、鳥取産業看護研究会)

(注1)「戦時下、日本曹達株式会社米子製鋼所への学徒勤労動員」(大嶋陽一・木下収・巽新、『鳥取地域史研究』第19号、2017年)

(西村 芳将)

活動日誌:平成29年7月

 

1日
2日
近代部会(公文書館会議室)。
4日
古墳測量協議(公文書館会議室、岡村・西川)。
わらべ館資料収集委員会(わらべ館、西村)。
5日
資料調査(~6日、公文書館会議室、西村)。
10日
12日
民具調査(湯梨浜町中央公民館泊分館、樫村)。
18日
民具調査(~20日、鳥取県東中部、谷阪委員)。
19 日
GHQ打合せ(やまびこ館、西村)。
民具調査(湯梨浜町中央公民館泊分館、樫村)。
21日
歴史資料所在状況調査(鳥取市大雲院、岡村)。
26日
民具調査(湯梨浜町中央公民館泊分館、樫村)。
29日
第2回占領期の鳥取を語る会(やまびこ館、西村)。
  

編集後記

 今回は保健師として活動されてきた田中郁子さんに関する記事です。田中さんは看護師から保健師になられました。恥ずかしながら改めて考えますと、看護師と保健師は同じ医療にかかわる職業ですが、具体的にどう違うのかよく分かりません。調べてみると保健師になるには看護師国家試験の合格した上で保健師国家試験に合格しなければならなく保健師は看護師よりも資格取得が難しい職業です。そして看護師の役割は、病気やケガをした人の世話や医師の治療補助で、患者の治癒を助けます。一方の保健師の重要な役割は、子どもからお年寄りまで、病気にならないように指導することです。今回の報告は孤独になりがちな産業保健師の情報管理や共有、公開の工夫について貴重な事例で、公文書館の課題とつながり見える貴重な情報だと思います。

(樫村)

  

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