第90回県史だより

目次

  • 記事名:秀吉の但馬・因幡進攻と垣屋氏
  • 資料紹介:【第5回】
  • 活動日誌:平成25年9月

秀吉の但馬・因幡進攻と垣屋氏

はじめに

 戦国末期の山陰東部は織田・毛利戦争の戦線に置かれ、数多くの合戦が繰り広げられました。

 その狭間において、この地域の戦国武将たちは、数々の戦いに巻き込まれつつも、戦線地域の事情に精通した武将として、さまざまな役割を担っていました。

 今回はそのような戦線地域の武将の事例として、羽柴秀吉の但馬・因幡進攻下における垣屋豊続(かきやとよつぐ)の活動に注目してみたいと思います(注1)


戦国期の垣屋氏について

 垣屋豊続は但馬国の竹野(兵庫県豊岡市)を本拠とする国人です。

 竹野は兵庫県北部を流れる竹野川の下流域に位置する地域で、中世には日本海に面して竹野郷が広がっていました。地形的にも良港の条件に恵まれており、江戸時代には国内有数の北前船の寄港地であったことが知られています(注2)

 中世の垣屋一族も竹野を拠点に日本海水運に関わっていたものと推察されます。

現在の竹野海岸の景観
現在の竹野海岸の景観(山陰海岸ジオパーク推進協議会ホームページより)

織田・毛利の対立と但馬国

 天正3年(1575)、毛利氏と但馬山名氏が同盟を結びました。これにより毛利氏の勢力が但馬方面まで及ぶようになりますが、当時の但馬は「半国ほどは羽柴へ申し通じ候(注3) 」とあるように、反毛利・山名の勢力も多く存在し、毛利・織田両勢力の対立の「境目」となっていました。


 そのような中、同5年に羽柴秀吉が但馬へ進攻します。これを受けて、多くの但馬国人たちが秀吉の傘下に下りました。その中にあって、豊続は但馬における毛利勢力の中心として秀吉軍に対抗しています。しかし、十分な戦力を確保することができず、毛利軍の支援が不可欠な状況となっていました。これに対して毛利氏は、古志重信(こししげのぶ)を派遣するなど、可能な限り豊続の軍事的支援に努めています(注4)


吉川元春の戦略転換と因幡・但馬

 天正7年(1579)6月、それまで毛利方であった宇喜多直家(うきたなおいえ)が織田方へ寝返りました。宇喜多氏は備前・備中・美作・播磨西部に大きな勢力を持っていた一族です。これによって、山陽側が大きな危機に直面することになりました。


 この事態に対応するため、毛利氏は家中の主な者たちを新見(岡山県新見市)に集めて軍議を開くことになり、山陰方面の担当であった吉川元春にも新見に参集するよう声がかかります。

 これに対して、元春は「自分たちは新見へ行かず、但馬への支援を優先したい」と毛利側に伝えています (注5)

 このときの元春書状には、次のように書かれていました。「今自分たちが山陰を離れれば、但馬は敵の手に落ちるであろう。今、但馬の沿岸部は諸寄(もろよせ・兵庫県美方郡)から竹野までを垣屋豊続が押さえているから、丹後半島の海賊衆も動けず因幡~石見は安心なのである。もし垣屋を見捨てれば、敵が船を仕立てて水陸両方から因幡へ攻め込むだろう。そうなれば伯耆・出雲も危ない。そのため今、但馬を見捨てる訳にはいかない」(注6) と。当時の吉川元春の戦略は、山陰の毛利領国を守るために但馬を重視しようというものでした。そのため因幡に軍勢を派遣して但馬を救援することが最優先であると考えていたのです。


 しかし、吉川軍の但馬救援が実現することはありませんでした。
 同7年9月、東伯耆最大の国人勢力であった南条元続(なんじょうもとつぐ)が織田方へ寝返ったのです。この南条氏の寝返りによって、但馬・因幡と伯耆・出雲の間は大きな「壁」で分断されることとなり、吉川元春は山陰における戦略の立て直しを余儀なくされました。

 結果として、元春は山陽側を重視する毛利方の作戦に同調し、杉原盛重(すぎはらもりしげ)に西伯耆の守備を任せて山陽側に移動していきます。このとき元春は小早川隆景に対して「丹後・丹波は言うまでもなく、但馬も捨て置くことにした。因幡についてもどうなるかわからない 」(注7)と書き送っています。

 南条氏の毛利離反は、因幡・伯耆だけでなく、但馬国人たちにとっても、その命運を決定づける極めて大きな動きだったのです。


秀吉の但馬・因幡攻めと垣屋豊続

 こうして毛利軍の戦略構想の外に置かれる形となった但馬国は、その後、秀吉軍の攻撃に晒(さら)されることになりました。

 天正8年(1580)4月、秀吉は姫路城を出発し、但馬・因幡方面への進攻を開始します。この羽柴軍の攻撃により、八木豊信(やぎとよのぶ)ら毛利方の但馬国人は秀吉に次々と降伏しました。垣屋豊続も最後まで奮闘しますが、ほどなく秀吉に降伏しました。こうして5月中には但馬一国が羽柴軍に制圧されていきます。

 秀吉に降伏した但馬国人たちは、国内の所領を没収され、次の戦場となる因幡国へ送りこまれていきました。秀吉の書状によれば、若桜鬼ヶ城(八頭郡若桜町)には八木豊信を、私部(きさいち)城(同八頭町)には山名氏政を、岩常城(鳥取市国府町)には垣屋光政を城番として配置したとあります(注8)


 では、豊続はどうなったのでしょうか。1995年の阪神淡路大震災の際に発見され、現在は神戸市立博物館に寄託されている「垣屋文書」には、この時期に秀吉が豊続に宛てた書状が残されています。

 それによれば、但馬沿岸部の美含郡は宮部継潤(みやべけいじゅん)に与えるとした上で、その中から竹野を含む2000石の地を垣屋豊続に与えるので、今後は宮部の配下として働くようにと記されています (注9)

 他の但馬国人がいずれも所領を没収されて因幡に派遣されたにも関わらず、豊続だけがこのように優遇されたのはなぜでしょうか。これについて、秀吉は次のように述べています。

  但州の内はいずれへも遣わさず候へども、
  その方の儀は役に立たれるべき身の上 に候間、此の如く候

 つまり、但馬国内の領地は他の但馬国人には与えないけれども、その方(垣屋豊続)については「役に立たれるべき身の上」であるので特別扱いとするということです。

 このとき秀吉が何を以て「役に立たれるべき身の上」と言ったのか、その真意は明らかではありませんが、想像を逞(たくま)しくするならば、日本海水運との関わりなど但馬沿岸地域における豊続の地域領主・海洋領主としての性格を重視したのではないかと考えられます。


但馬・因幡関係略図

秀吉の鳥取城攻めと豊続の活動

 その後、垣屋豊続は秀吉軍の一員としてさまざまな軍事作戦に加わっていきました。天正8~9年には岩常城を支援するため、日本海に面した桐山(きりやま)城(岩美郡岩美町)を構築しているほか (注10)、同9年7月の秀吉の鳥取城攻めにおいては、宮部継潤とともに鳥取城近くの雁金(かりがね)山に在陣しています。


 このほかにも、豊続が関わったと思われる動きをいくつかあげてみましょう。

 天正9年の鳥取城攻めは「兵糧攻め」が有名ですが、当時の因幡国内は、鳥取城だけでなく鹿野・私部・若桜・岩常・雨滝などの秀吉方の城においても兵糧が著しく欠乏していました(注11) 。秀吉自身が「鳥取廻りは不作」と言っているように(注12) 、因幡やその周辺は当時不作に悩まされていたため、現地において自力で兵糧を確保することは困難だったと思われます。

 秀吉はこれらの因幡の城に対して、ひとまず但馬に兵糧を集め、そこから因幡各地へ兵糧を運び込む作戦を取りました。天正9年5月頃には私部城に対して但馬から兵糧が運び込まれているほか(注13) 、桐山城へも300人分の兵糧が送られています(注14) 。また鹿野城(鳥取市鹿野町)の亀井茲矩(かめいこれのり)に対しても「但馬より八木(はちぼく=米)1000石を鹿野へ船で届ける」と伝えています (注15)

 また、天正9年の鳥取城攻めの際に、秀吉本隊は但馬から陸路で因幡へ入っていますが、羽柴秀長(ひでなが)や宮部継潤の軍勢は但馬から船で因幡へ渡っています。


 具体的な内容を明らかにすることはできませんが、垣屋氏が竹野から諸寄あたりまでの但馬沿岸部を押さえていたことを勘案するならば、このような但馬からの兵糧や兵員の海上輸送に豊続が大きく関わっていた可能性は十分考えられると思われます。


おわりに―その後の垣屋氏―

 天正9年10月25日、吉川経家らの切腹により鳥取城は落城し、因幡国は秀吉の支配下に置かれました。

 では、その後但馬の国人たちはどうなったのでしょうか。

 因幡に派遣された八木豊信・垣屋光成らの但馬勢は因幡国内に知行地を与えられ、但馬国に復帰することはありませんでした(注16)


 しかし、垣屋豊続の一族は、慶長8年(1603)に有子山(ありこやま)城(兵庫県豊岡市)の城主小出吉政(こいでよしまさ)から3000石余りの知行地を与えられていることなどから(注17) 、その後も但馬国内における領地を安堵されたと考えられます。(注18)


 このように、織田・毛利戦争下の戦線となった但馬国において、垣屋豊続は織田・毛利の両勢力から重視される存在でした。その背景には、但馬沿岸地域における豊続の地域領主・海洋領主としての性格や機能があったと考えられます。

 戦国時代の大規模戦争においては、垣屋豊続のような固有の役割を持った「境目」の地域領主たちが、戦局を大きく左右する重要な鍵を握っていたのです。


(注1)但馬における戦国期の合戦と但馬国人の動向については、山本浩樹氏「戦国期但馬国をめぐる諸勢力の動向」(科研報告書『戦国期西国における大規模戦争と領国支配』2007年)に詳しい。

(注2)竹野は中世においても但馬における海上輸送の拠点であったと考えられる。戦国期には竹野の古刹(こさつ)である円通寺の年貢米や造営用の材木が因幡から海路で竹野へ送られている(「円通寺文書」)。県史だより第79号参照。

(注3)天正元年12月12日付安國寺恵瓊書状(『大日本古文書 家わけ第9 吉川家文書』610号。以下、大日本古文書は「『吉川家文書』610号」と略記する)

(注4)(天正6年)5月19日山名氏政書状(「古志家文書」)など

(注5)天正7年7月27日吉川元春他四名連署状案(『吉川家文書』1338号)

(注6)天正7年7月27日吉川元春他四名連署状案(『吉川家文書』1338号)

(注7)(天正7年)9月7日付吉川元春書状(『小早川家文書』386号)

(注8)(天正8年)6月19日羽柴秀吉書状(「利生護国寺文書」)

(注9)(天正8年)6月8日羽柴秀吉書状(「垣屋文書」)

(注10)年不詳9月25日羽柴秀吉書状(「反町文書」)

(注11)(天正9年)5月19日吉川経家書状(『石見吉川家文書』143号)

(注12)(天正9年)11月4日羽柴秀吉書状(「間島文書」)

(注13)(天正9年)5月19日吉川経家書状(『石見吉川家文書』143号)

(注14)年不詳9月25日羽柴秀吉書状(「反町文書」)

(注15)(天正9年ヵ)9月11日羽柴秀吉書状(「亀井文書」)

(注16)このうち八木豊信はその後九州に渡り、島津氏の右筆(ゆうひつ)となっている(県史だより第31号参照)。

(注17)慶長8年1月23日小出吉政知行宛行状(「垣屋文書」)

(注18)寛永年間頃までには、龍野脇坂家の家臣になったと考えられる。(『兵庫県史 史料編 中世9』解題)

(岡村吉彦)

資料紹介【第5回】

甘く安く栄養ある代用食 = 馬鈴薯飯

馬鈴薯飯の記事 

 今回は、以前紹介した「翼賛因伯」の第21号(昭和16年8月5日号)の記事です。当時、次第に食糧事情が悪化する中で、県の当局も「県民の健康維持」と「食糧の節約」という二律背反の課題に苦慮していました。各家庭に「代用食の研究」を求めつつも、より一歩踏み込んで、手本としてのこの馬鈴薯飯の普及を企図したようです。鳥取高等家政女学校(現鳥取敬愛高校)の協力で、材料・分量、特徴、調理方法、栄養所見などがわかりやすく説明してあります。

活動日誌:平成25年9月

 

1日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、渡邉)。
2日
新鳥取県史編さん専門部会(民俗)・調査報告会(西部総合事務所第2会議室)。
3日
共同民俗調査(~5日、米子市・大山町他、樫村)。
4日
史料調査(米子市立山陰歴史館、渡邉)。
7日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、渡邉)。
10日
遺物借用(倉吉博物館、湯村)。
資料調査(尚徳公民館、前田)。
11日
鳥取藩政資料研究会(県立博物館、渡邉)。
12日
史料調査(伯耆町、渡邉)。
13日
遺物借用及び資料調査(県立博物館、湯村)。
18日
史料調査(~19日、神戸市、渡邉)。
19日
古墳の現地確認(小枝山12号古墳ほか現地、湯村)。
24日
近世ブックレット打ち合わせ(県史編さん室、渡邉)。
25日
資料編刊行に伴う関係者会議(倉吉市歴史民俗資料館研修室、岡村・湯村)。
26日
史料調査(鳥取市歴史博物館、岡村)。
民具台帳の納品(日野町教育委員会、樫村)。
倉吉千刃調査データに関する協議(倉吉博物館、樫村)。
30日
古墳測量の現場説明会(むきばんだ史跡公園、岡村・湯村・樫村)。
  

編集後記

 10月に入って4回も台風が日本列島を襲い、秋の嵐が吹き荒れました。戦国時代もまさに嵐の時代であり、今回登場する武将たちも、秀吉をはじめとした織田勢と対峙しながら、必死であったに違いありません。

 また資料紹介は、戦時下の代用食「馬鈴薯飯」に関する記事です。精米3升(5.4リットル)とジャガイモ1貫200匁( 4.5 キログラム)ですから、ほぼ飯とイモが半々程度のようです。どのようなものか、一度試してみたいです。

(樫村)

  

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