第1回鳥取県埋蔵文化財センター調査研究成果発表会を開催します。

調査研究成果発表会でいただいた御質問について2

 2月20日(土)、21日(日)に開催した、第2回鳥取県埋蔵文化財センター調査研究成果発表会でいただいた質問へのお答え、その2です。

 

問:〔令和2年度古代山陰道の発掘調査〕養郷狐谷遺跡から東方向はどう続いているのか?

答:来年度の調査で、養郷狐谷遺跡の丘陵から下りる斜面部分にトレンチを入れる予定なので、東側の斜面部分の様子が分かると思います。

 そこから東へは、鳥取市気高町会下(えげ)へとくだり、逢坂谷に達していたと考えられます。この部分は江戸時代の鹿野往来の一部にあたり、「会下坂(えげざか)」と呼ばれています。

 会下坂に現在ある広域農道はヘアピンカーブが連続していますが、明治期時代の地図にはまっすぐに延びる道が描かれており、これが古代山陰道を踏襲しているものと考えられます。現地踏査では明確ではないものの、部分的に切通し状の地形を確認しています。

 さらに東、逢坂谷以東についても、今後踏査を検討していきたいと思います。

 

問:〔発掘調査現場における写真計測〕最近山城等でよく紹介されている、「赤色立体地図」との違いは何ですか?

答:「赤色立体地図」は、斜面の傾斜度を赤色の濃淡・明暗で表現して作成した画像で、どの方向から見ても立体的に見え、一目で地形の特徴や傾斜の緩急が分かるという利点があります。なお、「赤色立体地図」は、正確にはアジア航測(株)が特許を持つ製作技術を用いて作られたものを指します。

 今回紹介した写真による計測は、デジタルカメラで撮影した画像データから三次元画像を作り出すものです。写真から直接三次元画像を作るため、カメラに写る(目で見た)姿をそのまま表現できる利点があります。なお、航空写真からも赤色立体図を作ることはできますが、木や構造物の表面を表した画像になります。


調査研究成果発表会でいただいた御質問について1

 2月20日(土)、21日(日)に開催した、第2回鳥取県埋蔵文化財センター調査研究成果発表会では、多くの方に御参加いただきありがとうございました。今回は、質問用紙でいただいた御質問の中から、2回に分けて三つの質問についてお答えいたします。

 

問:〔小鴨氏・南条氏の再検討およびシンポジウム1〕別人説、同一人物説、だからどうなの?

答:鳥取県中世城館再調査事業では、城館の現地調査とともに文献調査も行っています。文献調査に関しては、鳥取県の中世史を取り巻く問題点として、今回の調査事業と関わる人物について「南条元清・小鴨元清別人説」「山田出雲守複数人説」などが唱えられていますが、さらなる検証作業がなされているとは言えない状態でした。

 今回、永禄5年の松尾神社宛寄進状の「元清」については、後に宗勝を名乗る南条元清なのか(別人説)、後に小鴨家に入る宗勝の子小鴨元清なのか(同一人物説)という問題をとりあげました。

 この問題のポイントは、永禄5年に伯耆に帰還し、毛利氏から東伯耆の経略を任された南条氏(のちの宗勝)が東伯耆の国人達へどのように対していったかという、東伯耆の戦国史にとって重大なテーマです。その後の東伯耆の歴史ドラマを織り成す国人・中世城館にも関係してくる問題です。この時期の解明につながる検討ができたことが、意義深いものと考えています。

 詳しくは、3月下旬刊行予定の『山田出雲守の居所と行動から因伯の戦国史を読み解く』にも掲載していますので、併せて御確認いただければと思います。


因幡の守護所について

 2月21日のミニシンポでは、東伯耆の有力国人南條氏にかかわる元清別人説、国人山田氏にかかわる出雲守複数人説を取り上げ、いつの間にか通説化していたものを再考しました。

 令和元年度には、因幡の戦国大名武田高信天正元年死亡説について『戦国の因幡武田と鹿野城』で通説を覆す史料を掲出しています。

 そこで、今回最後に取り上げるのが、当埋文センターが所在する旧国府町にあったと考えられる中世守護所跡です。

 読者の皆様も関係資料により御一考ください。

                               (北村順一)

 

 因幡の守護所、鎌倉時代から置かれたとされ、布施天神山に移るまでの守護所はどこにあったのか。

 室町時代の軍記物『太平記』にある、山名師義が「神南合戦による亡卒の後生菩提を弔らわせた因幡国岩常谷の道場」がそれを解き明かす鍵。

 江戸時代、17世紀末の稲場民談記では、巨濃郡(現岩美町)の岩常谷、法美郡(現在鳥取市国府町)の岩常谷という人があるが、「疑わしきため両所をあげてこれを記す」とされていた。

 それが、18世紀末の『因幡志』になって「巨濃郡の岩常谷」とされ、それがいつの間にか通説化していて、『岩波文庫 太平記』の脚注で、「因幡国岩常谷の道場」が「岩美町岩常にあった時宗の満願寺」とされるに至っています。

 『因幡志』では、巨濃郡岩常には満願寺や二上城が付近にあり、耳塚伝説もあるとして、巨濃郡説を採ったように思われます。

 満願寺は、「此寺頽転の時代遠き事も聞へすされと残れる記録も無けれは委しき事知かたし太平記に神南合戦の時山名父子因幡勢討死しける者共の名字を書誌るし岩常の道場に送り其の菩提を吊はせられけるといへるは此寺の事なりとそ」と、「先に結論ありき」で「岩常道場」が時宗の寺とする徴証も何ら示されていません。「法美郡説」を採らない根拠も示されていません。

 

 地元『岩美町誌』の方が抑制的に記述されています。

 そもそも守護所とは、どのような機能を有し、そのためにどのような場所に置かれたのでしょうか。

 

 「守護所の所在地は旧来の国衙所在地ないしは宿駅要津であって、交通上の要地であった。」(1971佐藤進一『鎌倉幕府守護制度の研究』)、「鎌倉時代の「守護所」は守護が管国内の行政を行う居館で、守護が在国していない時はその管国支配を代行した守護代あるいは又代の居所である。守護所には政所・調所などの機関が存在し、国内の駅路業務や雑務裁判などを行っていたことなどが知られている(中略)鎌倉中期以降、ことにモンゴルの襲来以降は管国内の水陸交通の要所に置かれることが多く、国府に替わり国内の政治・流通・商工業の中心的役割を担うようになっていったことも知られている。(中略)いずれにせよ守護所が当初は国衙内あるいはその近傍にあり、国衙と何らかの関わりを有していたことは明らかである。」(2012小林保夫『守護所地頭』考)とされ、「諸説の中には、甲国の守護は乙であり、その本拠は丙にあったから、守護所の所在地は丙であるといった安易な論証がまま見られる。」(2010伊藤邦彦『鎌倉幕府守護の基礎的研究(論考編)』)とも指摘されています。
 こうした指摘を踏まえると、『因幡国府-発掘調査八年の概要-』(鳥取県教育委員会)が問題提起し、『国府町誌』で小坂博之氏が次のように論じたとおり、守護所は因幡府中にあったと考えるのが至当だと思われます。

 「中世都市府中は、政庁(守護所)・官衙・居館地区を中心に、大道によって町・津・寺社・城塞が結ばれ、都市的景観と農村的景観を併せもっていた。」「中世都市因幡府中の領域は、政治的・宗教的・経済的・軍事的に、特定の権益をもった特別の行政領域をなしている。これを支えたのものは荘園・公領制であり、これが崩壊する戦国時代になると、府中の機能は形骸化しつつある一宮の宗教的機能を残して、戦国大名に吸収され、戦国大名の居城に移動する。因幡守護山名氏は戦国時代に実力による直接的な領国支配上の理由から、居城を高草郡布勢天神山に築き、家臣団を集住させ、守護所を設置、町屋も形成され、いわゆる初期城下町を形成した。」

 そして、「国府は既に鎌倉末より甑山城を軍事上の要地」にしていました(建武四年七月四日付、室町幕府奉行所宛平貞泰書状に、国内の有力御家人が国府の防衛にあたり、甑山城警備中に敵の南朝勢力に攻撃されている、とある)。

 

 参考にこれまでの因幡守護所に関する論考を掲げます。

 

 (1)岩波文庫 太平記五 「神南合戦の事」条(室町時代-2014)

 右衛門佐は、淀へ打ち帰つて、この軍に討たれつる者ども、名字を一々に注して、因幡国岩常谷の道場へ送り、亡卒の後生菩提を弔はせられける。

 脚注:山名師義(師氏)。岩美町岩常にあった時宗の満願寺。
 (2)稲場民談記(上) 当国寺院名跡之事(P200)(1688)

 岩常谷道場
 其の処は巨濃郡の内、岩常村と云う処の山の上に有り。寺の名を大杉満願寺と号す。

 又法美郡国府の内、一宮のならびに小さき寺院あり。地を岩常山と号し、寺を無量光寺という。是も一谷を構えたる大地なり。

 太平記にいえる岩常谷は此所ならんという人あり。近辺なれば昔繁盛の地なること、疑い無といえり。

 されど其の地の模様、巨濃郡の岩常谷なるべし。境地の躰大小広狭格別なり。法美郡にてはあらじという人多し。

 然れば無量光寺は山号の様子満願寺の末寺か。

 疑わしきため両所をあげてこれを記す。

 無量光寺、昔は台密両宗の中の寺院か。此の寺も5、60年前退転して、住侶絶えぬる所に、浄土宗の僧来り再興住持して、今は念仏三昧の砌となる。

 (2)稲場民談記(上) 因幡国郡郷村里広狭路程等之事(P86)

 当国の府、古書に法美郡にありと有り。今その所残り、国府となづけて旧名伝れり。

其後武家の世となり、山名家国の主護の時、高草郡布施南北に城地をきづかれ、此の処国の府となる。

 近代にいたりては、布施滅亡より後は、邑美郡鳥取、国の屋形の城府となる。

 (2)稲場民談記(下) 古書之部 太平記(P197)

 岩常道場のことも、在所明ならず、今その跡を考れば、台家・密家の宗旨の様に見えたり。太平記に記すは道場とあれば、一遍の流の寺と見えたり。此谷に別に此宗の寺ありけるか知り難し。

 (3)因幡誌 巨濃郡「高野郷」(P103)(1795)

 ◯岩恒村

 此里は山名伊豆守時代数ヶ国の領主として当所二上に在城の時一国都城の下にて民家数千軒棟を竝へ寺院も多く繁昌の地なりしとかや今も谷々に其跡あり
 ●耳堂

 村の口にあり本尊薬師如来なり堂前に耳塚あり自然石の碑を建たり表に奉石書大乗妙典と書し裡に耳塚再興の四字を刻せるこれ也此は山名伊豆守時氏子息右衛門佐師氏将軍尊氏卿を恨む事ありて京都に攻上り山崎に於て合戦ありし時山名勢の内宗徒の侍八十余人一族郎従二百六十三人討死せり山名父子之を嘆き其の人々の耳を削て名字一々書注し当所満願寺へ送て万の菩提を吊はられけるなり之其時の耳を葬むりし処なり今に至て四百数十年かかる辺地に其旧跡の遺れるこそ奇特なれ今の石碑は元禄七年当村の住人小林次郎左衛門といふ者これを再興したるものなり彼は当時山名の執権小林民部之亟重長が末孫にて今に相続せり安永年中彼の討死したる者共の四百年忌に当ればとて小林が家にて追福をなしけるとぞ

 ●満願寺之廃跡

 城山の西の谷にあり今も満願寺谷といへり昔大杉山満願寺といふ大寺ありしよし今は礎のみ残れり(中略)此寺頽転の時代遠き事も聞へすされと残れる記録も無けれは委しき事知かたし太平記に神南合戦の時山名父子因幡勢討死しける者共の名字を書誌るし岩常の道場に送り其の菩提を吊はせられけるといへるは此寺の事なりとそ

 ●二上城

 二上山にあり、岩常の城といへるこれなり。文和年中山名時氏の草創なり。時氏は山名次郎政氏の次男にて建武暦応以来尊氏将軍の幕下に属し東征西伐して浮沈を倶にす。其勤労他に異なりとて始て因幡伯耆を宛行はる時に当城を築き其後又出雲隠岐を賜ふ。其後故あつて武家を背き宮方に属し備後但馬美作丹後丹波の数州を討従へ威勢強大なり。煕(右の字に、冫が付きます。)貴の子勝豊に至て城を高草郡布勢に築きて又移住ありければ郡中に首長なく当城は弥廃地となり山下の動乱止む時なし。

 (4)岩美町誌 岩常道場(P159)(1968)

 二上城との関連や、由来のある耳塚耳堂からすると、城山の西北の谷、満願寺川にそって上流が一応此の地に推定されている。

 寺の名を大杉満願寺といい、山名家の菩提寺とされている。寺領五町八反。其の頃は堂塔院宇みちみちていたといわれ、今でも真沙谷に玄海坊・大教坊、茶屋谷にマサカリ坊など僅かにその名を伝え、本庄・岩常との堺のあたりを問所といい、会下谷にも寺院があった。

 因幡志満願寺廃跡の項に「側ら古き石の手水鉢あり。長さ六尺五寸、横二尺九寸、高さ二尺一寸」とあるも、よく調べてみると、之は手水鉢でなくて往昔の古墳から出た石棺のようである。

 浜坂町誌によると、「日本全国国毎に満願寺一宇づつを建てたといわれ、当寺も又その一つと推定されている。」とあり、境内にある満願寺大悲殿大御堂は、聖武天皇天平年中行基菩薩の開く処と記されている。

 そうすると満願寺も或は山名の建立したものでなく、古くさかのぼって奈良時代のものかも分からない。岩常の満願寺谷には無数の大古墳あり、各所の山麓から石棺等露出し、当時の集落の程が推察され、併せて岩常二上神社が式内社として搭載されていることも、早くから開けた地帯であることを証している。

 (5)「二上山城址調査報告書」(1980)

 伊豆守時氏が、一族として初めての守護職を伯者の地に得たのは延元2年(1337) のことである。(中略)因幡守護となるのは遅く、貞治2年(1363) の幕府復帰までを待たねばならない。「文和年中」の築城が真実としても、名目的に守護所というのは正確ではない。文和期を境として山名氏の因幡における動向が顕著になるところから、二上山城の文和期築城も決して不可能ではない。文和期の山名氏の因幡での拠点が、直ちに二上山を意味しないのも事実である。(中略)この時期、二上山城が築城されたとしても一族の拠点は伯者であったから、次第に拡大する戦線の補給基地・勢力圏の支点といった性格の濃い城郭であったと思われる。

 (6)「因幡国府-発掘調査八年の概要-」掘り出された国府平野の中世遺跡(1980)

 国府がその機能を停止した以降も引き続きこの地区に新しい生活が営まれ、少なくとも室町時代中頃まではそれが続いていたことは明白な事実である。

 因幡国府域は、旧国庁に隣接した東側の地域すなわち大規模な庭園遺構をもった大権寺地区は出土遺物から見て、まさしくこのような(鎌倉幕府が国ごとに守護をおき、実効支配を進めていく)時期に当たっていると考えられる。

 仮にこの時期に国衙と守護所が隣接して存在したとするならば、大規模な客土を行って、国庁より一段と高い位置に建てられたこれらの大権寺地区の遺跡こそ新しくこの地域の支配者となった守護の威厳を示すものとして極めて象徴的ではないだろうか。事実、大権寺地区出土の遺物は十三世紀~十四世紀頃を中心とするものである。

国府平野の中郷~庁地区に築かれた中世の遺跡の中には、このような守護所に関係した遺跡が含まれている可能性があるのではないだろうか。検討して見る必要があろう。

 (7)鳥取県の地名(平凡社) 岩常村(P94)(1992)

 因幡民談記によれば、文正元年(1466)高草郡布勢へ移転するまで山名氏の守護所が当地に置かれたというが、つまびらかでない。

 「道場」を当地にあった大杉満願寺に比定する説が強いが、法美郡宮下村の無量光寺にあてる説もある(因幡民談記)。

 (7)鳥取県の地名(平凡社) 二上山城跡(P95)

 遺構から南北朝時代に構築されたものと推定される。

 文和年間(1352~56)山名時氏が築城したと伝え(因幡志)、もとは「岩経之城」と称された。

 (7)鳥取県の地名(平凡社) 守護山名氏(P49)

 貞治3年(1364)正式に幕府帰参を許された山名時氏は因幡守護に任じられ(山名系図など)翌4年守護職は子氏冬に伝えられ、以降も山名氏に相伝された。

 この頃の因幡山名氏の勢力拠点を巨濃郡二上山城であったとするのが通説であるが確証はない。

 守護所とは断定できないにしても、但馬山名氏との連絡上の便宜、因幡国衙と結ぶ近道があることなどから、山名氏の重要拠点であったとはいえるであろう。

 その後守護所は湖山池東岸の高草郡布施に設けられた。移転時期は文正元年(1466)ともいわれるが(因幡志)、明らかでない。

(8)国府町誌 無量光寺(P964)(2004)

 無量光寺の由来をたずねるに、その開基は実に後醍醐天皇の御代、建武年間にその源を発している。

 当国の国造であった伊福吉部第45代宿弥時任なる人が、天皇隠岐島より還幸のみぎり、因幡路よりこれに供奉して都に上り、しばし侍従職として禁裏雲上に侍った。其の間、都の学風と仏道に帰依し、やがて帰郷して弥陀王大夫侍従入道と称し、今の地に仏堂を建立し、専ら余生の全からんことを祈ると共に、地方教化の聖地とした。即ち岩常寺がこれである(現在もなお字地名として残っている)。爾来、星移り年変わり、寺門の変遷も幾多の曲折を重ねた。天正年間、尼子の士山中鹿之助が久松城と相対峙し、兵乱に災いされたことは地方文化財保護の上にも大いなる被害であった。元和3年(1617)池田光仲公当国の主となるに及んで、人心漸く安寧を得、公の采配により本蓮社善誉存當大和尚を属請して当山再建興隆をはかった。すなわち存當上人は寺門を一新して浄土宗門に帰属し、しかも総本山知恩院の門末として、従来の岩常寺の寺名を山号に替え、本尊阿弥陀仏を勧請安置して、無量光寺と改称、寺門の振興に精魂を注いだ。

「岩常山」とある無量光寺

無量光寺の近くには徳足比売墓跡があります

無量光寺から埋蔵文化財センター方面を望む


調査研究成果発表会開催しました。(その2)

 2月20日(土)、21日(日)に開催した、第2回鳥取県埋蔵文化財センター調査研究成果発表会の様子、二日目は東伯耆の中世城館特集でした。

 

 発表4 東伯耆の中世城館(大川泰広)

 「『畝状竪堀(うねじょうたてぼり)』のある城」、「文献に出ない『謎の城』」の二つの視点で天正8・9年頃に築かれたと考えられる東伯耆の城館調査の概要を報告しました。

 中世城館に興味のある参加者が多かったと思われますが、技巧的な縄張りの様子や、文献に出ない謎の城の解説で、より一層興味をかきたてられたのではないでしょうか。

 発表5 倉吉市山ノ下遺跡の発掘調査(森本倫弘)

 倉吉市山ノ下遺跡の大型掘立柱建物の構造や変遷、出土した土器・貿易陶磁を紹介し、これら大型建物を造営した有力者に迫りました。

 実際の調査担当者による具体的な報告と検討により、これまであまり知られていなかった、当時の有力者の姿が明らかになったのではないかと思います。

 講演1 小鴨氏・南条氏の再検討(眞田廣幸氏)およびシンポジウム1

 ある古文書を発給した「元清」が、後に宗勝を名乗る南条元清なのか、後に小鴨家に入る宗勝の子小鴨元清なのか、という点について御講演をいただき、その後当センター所長の進行でミニシンポジウムを行いました。

 花押や文書の記載内容などから、この「元清」は、この時点で父から家督の一部を継いだと考えられる当時の南条元清(後の小鴨元清)であることなど、眞田氏、高橋氏から解説がありました。

 講演2 山田出雲守複数人説について(高橋正弘氏)およびシンポジウム2

 シンポジウム1の後半で解説された山田出雲守複数人説の是否について、複数人とみると生じる問題点を別の視点からわかりやすく解説いただき、その後、シンポジウムで討論を行いました。複数人説の問題点、同一人物と見る方が矛盾ないことなど、参加者にも関心を持って聴講していただけたようです。

 新聞に大きく取り上げられたこともあって、25名を超える当日参加もあるなど、今回の東伯耆の中世城館に関わる発表は、関心が高かったことがわかります。当日参加された皆様、講演及びシンポジウム講師をしていただいた眞田、高橋両先生に改めてお礼申し上げます。

 なお、当センターでは、来年度も東伯耆の中世城館、大谷城(倉吉市)の発掘調査を予定しており、新たな成果が来年度の調査研究成果発表会で御紹介できると思いますので、今から御期待ください。


調査研究成果発表会開催しました。(その1)

 既に御報告しましたが、2月20日(土)、21日(日)に第2回鳥取県埋蔵文化財センター調査研究成果発表会を開催しました。両日とも春を思わせる様な陽気で、のべ111人の方に御参加いただきました。ありがとうございました。

 発表会の様子を2回に分けて御報告します。

 

発表(1) 令和2年度古代山陰道の発掘調査(坂本嘉和)

 古代山陰道の発掘調査で見つかった「つづら折り」の道路遺構のほか、調査で明らかとなった多様な道路建設技術を紹介しながら、成果を報告しました。さらに、今年度作成した「つづら折り」道路の復元イラストも大画面で初公開。参加者も当時がイメージできたのではないでしょうか。

発表(2) 発掘調査現場における写真計測(田中正利)

 昨年度から実施している写真を使った三次元計測について、計測の方法や今年度の成果等を紹介しました。

 木々に覆われた調査現場を木の無い状態で様々な角度から見ることができる、最新の技術に皆さん感心されていました。

発表(3) 遺跡・文化財で学ぶ「ふるさと教育」(中山寧人)

 今年度、県東中部の小学校で実施した、遺跡や埋蔵文化財を活用した「ふるさとキャリア教育」の様子や児童達の様子を紹介しました。

 担当者の意欲的な取り組みで、こども達が地域の歴史や遺跡に関心を持っていく様子を巧みな話術で紹介し、会場の笑いを誘っていました。


ミニシンポの宿題その2・山田民部丞の来歴について

 ミニシンポの宿題その2です。
 山田民部丞の来歴について、少し長くなりますが、説明していきます。

 

 山田出雲守「複数人説」の反証として提示した推定天正4年7月3日付け吉川元春書状写は、山口県文書館所蔵の『譜録』に収録されていたもので、『閥閲録』には掲載されていなかったものでした。

 今回の史料調査では、昭和末期に上記の書状写を初見された高橋正弘氏から、同館には「寄組山田吉兵衞家文書原本群」『閥閲録』未掲載の文書があるとの情報を得ていたので、同館所蔵の「山田家文書」を調査する中で、天文12年6月6日付大内義隆感状写しの存在を確認しました。大内軍による出雲尼子攻めに関する文書なので、2003年、島根県広瀬町(当時)が編纂した『出雲尼子史料集』に翻刻されています。

 この文書に出てくる山田氏は、長谷川論文の中で岩国系山田出雲守とは別系の萩系山田出雲守の系譜に属するとされた山田民部丞と考えられます。

この2通の史料について、ホームページ、記録集での写真掲載を申請中です。

 

【資料1】天文12年(1544)6月6日「大内義隆感状冩」(『縣史編纂所史料本』寄組山田吉兵衞家文書001)

  (上 包)

「山田九郎左衛門尉殿       義隆」

去る月八日、雲州津田において息範秀討死の由、弘中三河守隆兼注進、尤も神妙。いよいよ戦忠抽づべきの状、件の如し。

   天文十二年六月六日 花押

          山田九郎左衛門尉殿

【解説】天文11年からの大内軍による出雲尼子攻めにおいて、大内軍が総退却する数日前の合戦で、山田吉兵衛の系譜に属する山田九郎左衛門尉の息範秀(なお【資料4】参照)が討死したことに対して、大内氏から感状が出ています。なお、九郎左衞門尉=民部丞とは断定できませんが、年代的に見て同一人と見てよいのではないかと思われます。

 

【資料2】天文23年(1554)6月11日「毛利元就・同隆元連署感状」(『閥閲録巻31 山田吉兵衛』1)

去る五日、蔵重固屋切り崩しの時、敵討ち捕り候。誠に神妙に候。高名の至り感悦に候。いよいよ軍忠抽づべきものなり。仍て、件の如し。

天文廿三

六月十一日                      隆元 御判

元就 御判

山田民部丞殿

<参考>『広島県史年表』(天文23-6-5)毛利軍、佐西郡明石/蔵重固屋で陶軍と合戦(閥閲録98ほか)

【解説】天文20年の陶晴賢のクーデターに対し、毛利氏は同23年5月に陶氏と断交し、安芸南西部の諸城を陥落させましたが、山田民部丞がこの合戦に参戦しており、毛利氏から感状が出ています。。

 

【資料3】弘治元年(1555)3月24日「毛利元就書状」(『閥閲録巻31 山田吉兵衛』23)

此所一行、紙破レ、相見えず候(書写人の補記)

(石見)永安要害事、一昨廿三落去候。同春日尾の城、昨日落去候。その外所々、悉く以て相動き事行い候の条、太慶この事に候。(石見)三隅事、是れまた一途たるべし。先々所々落去の趣き申す事に〔計りに〕候。なお吉事追々申すべく候。この由、皆々へ仰せ聞かさるべく候。恐々謹言。

 (弘治元)                      右馬頭

     三月廿四日                      元就 御判

    充所紙破不相見候

【解説】毛利元就書状は充所不明ですが、この書状を寄組山田吉兵衛家が所持していること、吉川書状案中に「備藝衆相催致出張候」とあることから、天文23年に引き続き山田民部丞が芸州毛利軍として参戦していたものと考えられます。

 

【資料4】「堤城」(『伯耆民諺記』早稻田大學圖書舘所蔵明治32年書冩)

 山田は紀姓にて、當國無二の旧家大祖長田山城入道頼圓は、朱雀帝の御宇承平のころより當國に居住して、世々連綿として當城にあり。古代は長田を氏とせしか、中頃に至り山田を以て称号とす。其故は、當所今は嶋村と称すれとも、本名山田にて、昔時は山田村と号しけるに依、山田氏を改め粗流には長田を以て称せしむ。夫より年月遥にうつりて、後宇多帝の治世、弘安の頃に山田左衞門尉秀員入道眞觀と云て此處の領主たり。眞觀より二百年近くに及て、山田石見守髙直と号し、世々國主山名家の旗本に屬仕す(以下略)

【解説】山田の本姓は紀氏で、長田名字時代に山田村へ移り、山田へ改姓したとされていました。その山田一族に関し、旧鳥取県史134頁は一族が「秀」を通字としていた可能性にふれています(次掲<参考>欄)。そうすると、【資料1】九郎左衞門尉の討死した息子範秀との間に繋がりが窺えます。ただ、そうした場合「満重」の名乗りが逆に疑われます。そのそも「満重」の名は系図にあるだけで裏付けがなく、満重本来の名乗りも「秀」を通字としていた可能性も考える必要があるでしょう。

<参考>山田八幡宮の鐘銘(『鳥取県史』2中世)

 さて、問題を再び山田別宮の地にもどそう。『伯昔民談記』は、山田八幡宮の社の傍に梵鐘があり、その梵鐘の銘として、次のように記している。

  大日本国、山陰道、伯州久米郡、北条郷山田八幡宮推鏑、此鎚者、平司舎兄、左金吾紀秀員、法名真観、在主之時、以所蓄量之用途、所奉鋳也、仍大願主者、紀秀員真観

     弘安八年癸未三月十五日

 鉗銘の弘定六年(1283)は、前掲の「石清水八幡宮文書」の文永十一年(1174)の鎌倉幕府裁許状から数えて九年目のものである。この梵鎚を奉鋳した願主・紀秀員真観と、文永十一年当時山田別宮の下司であった兵衛尉秀真とは、一族関係にあったように思われる。「秀真」と「秀員」はいずれも「秀」の字を用いているし、また秀真の父の法名「真蓮」と、秀員の法名「真観」とは「真」の字を共通にしており、そこに一族関係を想定させるものがある。もし、秀員が秀真の一族であるとすれば、秀真が下司職をめぐる石清水八幡宮との相論に破れた後も、その一族の秀員が依然として山田別宮所領支配の上に重要な役割を果たしていることとなる。たとえ、一時的に相論で勝ったとはいっても、荘園本所である石清水八幡宮は、秀真・秀員らが山田別宮の現地で持つ実質的支配権を否定することはできなかったであろう。

 

【まとめ】

 これまで論考した結果、山田出雲守単数説、山田民部丞=伯耆山田一族説が至当と考えます。山田出雲守、山田民部丞、村上新次郎らは尼子氏の侵攻に伴い大内氏や毛利氏の許に逃れて保護を受けていましたが、彼らは戦国末期の伯耆で重要な役割を果たしていました。また、いずれも文書が二系統に分流していました。

注)宮本文書写しの註が正しいとするなら、村上新次郎は村上太郎左衞門尉と同一人です。

 注)この論考に当たっては、高橋正弘氏にご教示いただきました。

<参考>「宮本家文書」(『新鳥取県史 資料編』古代中世古文書編中世 上2015、鳥取県教育委員会資料)

 村上氏の系譜によれば、同氏は戦国末期には福頼氏を名乗り、その後亀井氏に仕えて元和年間(1615~1623)に石見国津和野へ移った。17世紀半ばに村上氏が亀井家から召し放たれた際、二つの家に分かれた結果、一方は姻戚関係のあった宮本家を頼って米子へ移り、もう一方は蔵田家を頼って長州萩へ移った。このとき、31点あった文書群も米子と萩に二分されている。このうち萩に移った15点については、萩藩の修史事業の中で「閥閲録」巻158に収録されている。一方、米子に移った文書16点は、宮本家文書として現在は鳥取県立博物館に所属されている。「閥閲録」に掲載されている中世文書15 点は、宮本家文書の宛名と同じ名前の人物に宛てられている。これらと、宮本家文書原本との重複はなく、元来は一つの文書群であったと考えられる。宮本家文書や「閥閲録」巻158の中世文書には、村上氏を宛名とするものと、福頼氏を宛名とするものが見られるが、「大館常興書札抄」によれば、16 世紀初期の福頼氏と村上氏は、ともに「伯州衆」として列記されており、個別の国人衆として併存していたと考えられる。なお、中世伯耆国の村上氏は、文明3年(1471)に伯耆から出雲へ攻め込んだ村上民部が井尻難波城で討死したこと、三輪神社(米子市淀江町)の棟札に、永正15 年(1518)の願主として村上源左衛門尉高晴、天文23 年(1554)の願主として村上忠左衛門宗次を確認できることにより、出雲尼子氏の侵攻に翻弄された伯耆国淀江の領主であったと推測される。

 

 山田民部丞の来歴に関する諸説について

【土豪説】村田修三氏「兵農分離の歴史的前提」(『日本史研究』118号 1971)

山田氏を符谷村の土豪とされているが、これは誤りであると思う。同氏はさらに山田氏が符谷村の散使に任ぜられたとしているが、これはおそらく永禄九年五月十七日小林藤三宛井上就重児玉就方書状の「山河之儀不及申候、散使に被申付、不残段歩被相渡旨候」という部分に拠っていと考えるが、この「散使に被申付」とは山田氏が散使に任ぜられたというのではなく、山田氏への給地配賦の実務を在村の散使に命令して実施させるという意味である。

 

【地侍説】布引敏雄「戦国大名毛利氏と地下人一揆」(『山口県文書館研究紀要2』 1973)

安芸佐東郡温井北庄の地侍山田氏の例を見ると、天文二十三年毛利元就が陶氏に反旗をひるがえした直後に、山田民民部丞は毛利方に付属したようである。山旧民部丞は、天文二十三年十一月二日に毛利氏より所領を安堵され(閥31)、この時の打渡坪付帳によれば、山田氏は北庄に自作田を所有している(閥差出原本)。山田氏は、後に周防玖珂本郷を新給されたが、そこでは自作田を持っていない(文書館蔵山田文書)。また、山代符谷村の渋谷に三十石足の地を「田畠屋敷等名切二百姓共に」与えられたが(閥31)、これは散在した田畠ではなく一箇所にまとまった田畠を百性(耕作者)とともにワンセットとして給付されたのであって、ここにあっては自作田の設定は困難であり、山田氏は毛利氏の軍事力を背景に領主として新領の支配に臨んだと考えられる。このように、地侍は本貫地以外に自作田経営を行うことができなかったから、自作田の有無は地侍の本貫地を知る手がかりとなるし、同時に地侍と村落との関係の浅深を読みとることができる(村田)。自作田を持たない給主は土着していないことを意味するし、惣村との間には大きな距離が存在した。

<参考>天文2311月2日 毛利元就宛行状(『閥閲録巻31 山田吉兵衛』56)

 田壹町九段半分米七石三斗、畠四町壹段小分銭七貫七百文、(安芸)北庄・温科・温井内坪付打渡在之爲給地宛行者也、全可知行状如件

   天文廿三

     十一月二日                      元就 御判

山田民部丞殿

 

【伯耆山田一族説】高橋正弘(『因伯の戦国城郭―通史編―』1986)

大内義隆の死は、伯耆没落後、故国を追われて周防へ奔り、義隆を頼っていた伯者衆へも影響を与えた。西伯者を地盤とする村上氏の場合、比較的早くから大内氏との関係がうかがわれる。村上新次郎は、義隆から兵粮料=軍資金交付という具体的援助を受けていた(『宮本文書』年未詳3月3日付大内義隆書状写)。新次郎は、義隆の死後も大内陣営に留まったと見え、陶氏との交流も把握できる(8月10日付「陶晴賢書状写」(『宮本文書』))。彼が最終的にどこまで同陣営に留まったのか不明だが、その後の足跡は但馬山名氏、毛利氏の下に記される。また、山田氏は前半の動向を明らかにしておらず、詳細は不明だが、当初は村上氏同様に大内氏を頼ったと思われる。天文23年(1554)には毛利氏との関係が認められるようになる。6月5日、山田民部丞(満重)は、陶方が押えていた安芸蔵重固屋を攻賂し、11日付で元就・隆元から賞されている(『山田家文書』)。翌弘治元年10月の厳嶋合戦でも、多田六郎・渡辺源内・奈良橋治部丞を討取る功を樹てている(『同』)。天正11年(1542)段階で尼子方から大内氏へ通じた南條氏のその後については確証が得られない。しかし、永禄5年(1562)には毛利氏によって羽衣石復帰を果たしている(『森脇文書』)から、山田氏(山田重直:筆者注)と同じ変転を辿ったものと思われる。但馬山名氏を早くから恃んでいたことが史料上明らかなのは長田氏だけだが、小森氏にもその可能性がある。

<参考>長谷川博史「山田出雲守」考(『戦国大名毛利氏の地域支配に関する研究』2003)

高橋正弘氏は、尼子氏の侵攻にともなって没落した伯耆国山田氏の一族が、天文末年以前に毛利氏の許に逃れて家臣化したものと推測している。

 

【水軍説】荒木清二「毛利氏の北九州経略と国人領主の動向」(『九州史学』第98 1990

山田満重は毛利氏の直属水軍「佐東衆」の出身と思われ、北九州経略や山陰経略などの「境目」経略において重要な働きをした人物である。

<参考>児玉就方・同就秋連署討捕頸注文(『閥閲録巻31 山田吉兵衛』17)

  陶(晴賢)殿討死時討捕頸注文

 陶内 頸一 多田六郎      山田民部丞討取也

 同  頸一 渡辺源内      同人討取也

同  頸一 奈良橋治部丞    同人

  天文廿四年             児玉内蔵丞

    十月十二日              就方(花押)

                    児玉若狭守

                       就秋(花押)

     山田民部丞殿まいる

【解説】水軍出身説は、毛利氏傘下の水軍である川内警固衆を率いる児玉就方から山田民部丞に対し頸注文が発給されていることから、山田民部丞を水軍「佐東衆」の出身と推測されたのではないかと思われます。ただ、民部丞が別系説に馴染まない可能性=伯耆出身が高い事からすれば、本文書を以て安芸水軍出身と速断するわけには行かないと考えます。

 

【不明説】長谷川博史「山田出雲守」考(『戦国大名毛利氏の地域支配に関する研究』2003

 萩山田家の出自は不明である。(注:高橋説、荒木説)初見は、天文23年6月11日の毛利元就・隆元連署感状(資料2:筆者注)において、安芸国佐西郡蔵重固屋(広島市佐伯区五日市)合戦の戦功を賞された、「山田民部丞」である。民部丞は、「閥閲録」の系譜に従って「満重」という実名であったとされているが、一次史料では確認できない。同年11月2日には安芸国大田川下流域の北庄・温科・温井の田畠六町余を、弘治4年閏6月4日には周防国佐波郡富海保内二町三段分を。永禄9年5月17日には周防国山代郷符谷の内三十貫足を、いずれも毛利元就から宛行われている(「閥閲録」56・57・62)。従って民部丞は、毛利氏本宗家家臣ではなく、基本的には元就直属の家臣であったことが知られ、所領規模からみても地位が高いとは言い難く、元就への帰属性が強い中級家臣と推測される。民部丞は、少なくとも永禄元年以降、毛利氏中枢の使者として対大友氏戦争の最前線に派遣され、赤間関から九州北部方面における大友方勢力切り崩しに重要な役割を果たすと、永禄6年7月頃から、対尼子氏戦争の最前線である伯耆国西部に派遣された。交渉能力・戦術ともに優れ、元就からの信頼度もきわめて高い存在であったと言える。そして、永禄10年と推定される3月14日吉川元春書状(同上27)を最後に、民部丞関係史料は見られなくなる。

 (中略)さらに推測するならば、「方宗」は、毛利氏直属水軍の将で、毛利元就直臣の、児玉就方の実名を想起させるものである。山田民部丞が早い時期から児玉就方に従って、水軍の一翼を担う存在であったことは、弘治2年の4月27日に周防国室津における警固衆の戦功を賞した就方宛て毛利元就書状(同上16)が、萩山田家に伝来していることからも窺える。そもそも厳島合戦や、九州北部方面、伯耆・因幡方面において、きわめて重要な政治的・軍事的役割を果たした山田民部丞の動向を勘案すれば、水上勢力等として広範な活動を支える基盤を有する存在であった可能性は高い。山田氏が、児玉就方の偏諱を受けることは、十分想定可能であると言えよう。以上の点は、「山田出雲守方宗」こそが、「山田出雲守A(萩系:筆者注)」に相当する人物であり、しかも「山田出雲守重直」とは別人であることを窺わせている。

(文責:北村順一)


ミニシンポ「山田出雲守再考」を振り返る

 21日のミニシンポで取り上げた「山田出雲守」。
 みなさんには無名な人物だったかも知れませんが、因伯における戦国動乱の渦中にあって、いろいろな重大な場面で重要な役割を演じていたことが少しでもお分かりいただけたでしょうか。
言い換えれば、山田出雲守の居所と動向を知ることで、因伯の戦国史が見えてくるということです。

 ミニシンポで高橋氏は「同一人説」とは、「もともと一つの山田家だったものが萩系と岩国系に分流したもの」と総括されました。
 改めて「同一人説」の視点に立って長谷川論文(複数人説)を再読してみると、これまで疑義があった点について整合性のある説明が可能になったのではないでしょうか。

ミニシンポの様子

ミニシンポ当日の様子

 それでは、ミニシンポで残していた宿題のうち、「複数人説」が論拠の一つ(当日資料2-1(1))としていた、筑前での対大友合戦から伯耆での対尼子合戦への転陣について、少し長くなりますが説明していきます。

 なお、山田民部丞の来歴などについては、次稿でご説明します。

 いよいよ春らしい気候になって来ました。
 コロナの心配もありますが、「山田出雲守ゆかりの因幡伯耆の地を巡る」などとして、市町の皆さん、地元の皆さんといっしょに伯耆や因幡の遺跡巡りができるといいねですね。

 それに間に合うよう、昨年連載した「ある戦国武将の生き様から因伯の戦国時代をみる」についても改定をはじめています。

1 萩系山田出雲守の動向

 長谷川論文では、元亀年間、萩系山田出雲守は毛利氏家臣の小寺元武と同じ場所にいて、同じ軍事行動を担っていたとされています。
 それを裏付ける萩系「山田家文書」などを引用され、「伯耆国において最後まで尼子勝久方の手にあった八橋城を、二人の調略によって開城させたことが知られる。」「この時期、小寺元武と萩系山田出雲守は、基本的には南条氏居城の羽衣石城内に在番していたと思われる。」と論じておられます。

【文書(1)】吉川元春書状
去年已来伯州在国候て、長々御辛労申茂疎候。殊今度八橋之儀、以旁気遣被引成候。誠祝着之至候。於彼表御辛労之段、至吉田披露可申候之間、可被加御詞候。恐々謹言。
 (元亀二年)
     八月廿七日     元春(花押)
     山田出雲守殿
            進之候
(『新鳥取県史』917号「山田家文書」)

【文書(2)】吉川元春書状
去年已来伯州在国候て、長々御辛労申茂疎候。殊今度八橋之儀、以旁気遣被引成候。誠祝着之至候。於彼表御辛労之段、能々至吉田披露可申候之間、可被加御詞候。恐々謹言。
 (元亀二年)
     八月廿七日     元春(花押)
     小寺佐渡守殿
            進之候
(『新鳥取県史』916号「小寺家文書」)

【文書(3)】吉川元春書状
御方之儀、従九州陣御上以来、至伯州羽衣石小寺同前ニ被差籠、数年有気遣辛労之段、更無申計候。内々此段上へ茂申伺候。於我等不可有疎意候。猶井木工可申候。恐々謹言。
  (天正二年)
     後十一月十六日  元春(花押)
     山田出雲守殿
            進之候
(『新鳥取県史』1005号「山田家文書」)

 そして、萩系山田出雲守が伯耆に派遣された時期や経緯については、文書(1)に「去年已来伯州在国」「従九州陣御上」とあることから、「(萩系山田出雲守は)元亀元年に、毛利氏が対大友氏戦争から撤退を完了し、尼子勝久勢力の一掃を図るため、九州から派遣されたと考えられる。」とされています。文書(1)が元亀2年なので、去年だと元亀元年という訳です。
 また、元亀元年と推測される次の文書を引用して、萩系山田出雲守は「南條宗勝と同道して伯耆へ入ったことが知られる。」とされています。

【文書(4)】吉川元春・小早川隆景連署書状
今度其方事、宗勝ニ相副伯州表差上候。然者別而辛労気遣之由、令承知候。自然被立御用候者、跡目之儀無疎意取立可申候。少茂不可有別儀候。可心安候。弥可被抽忠儀事肝要候。猶兼重左衛門尉・児玉三郎右衛門尉所より可申候。恐々謹言。
  (元亀元年)
     卯月九日       左衛門佐 隆景(花押)
                  駿河守  元春(花押)
       山田出雲守殿
(『新鳥取県史』863号「山田家文書」)

2 岩国系山田出雲守の動向

 一方、岩国系山田出雲守は、萩系山田出雲守とは「微妙に異なる動向を示している。」とされています。
 岩国系「山田家古文書」を引用され、元亀2年の文書(5)によって、岩国系山田出雲守は「去々年すなわち永禄12年に伯耆国羽衣石城に入り、これを持抜いた。」、そして、文書(6)によって、「(岩国系山田出雲守の)永禄12年の伯耆国への派遣は、対大友氏戦争から対尼子勝久戦争への転陣であったこと、九州陣においては南條宗勝と同陣であったこと、元亀2年8月に開城した八橋城の在番を命じられ、この時点まで引き続き在番していることが知られる。」とされています。

【文書(5)】吉川元春書状写
対小佐(小寺元武)御状披見候。御書中之趣尤候。於我等不可有疎意候。芸州へ茂具可申聞候。当国之儀(出雲国)新山能程可為一着候間、左候者其表之儀も勿論可為静謐候。
雖不及申候、弥御馳走肝要存候。誠去々年之儀ハ御方頓御下候而、(河村郡)羽衣石之事被持抜種々御行付而、於于今如此某許被任存分由旁御馳走之故候。其段淵底令存候。
猶巨曲小佐へ申入候間、可有演説候。恐々謹言。
(付箋)
『元亀二年』
     七月九日      元春(花押)
     山田出雲守殿 御返報
(『新鳥取県史』907号「山田家古文書」)

【文書(6)】毛利輝元書状写
御方之儀、最前以来別而御入魂之儀候。九州表(南条)宗勝同前御辛労之儀者不及申、上国候て其表無緩御短息之故、早速静謐候事大慶候。殊去年(八橋郡)八橋在番之儀、(吉川)元春被申候処于今被相届候。寔祝着候。仍太刀一腰進之候。表慶儀候。将亦草苅(景継)・後藤事此方一味候。其元方角之儀候条、□□可被副御心之由申入候。旁以可被成其心事所仰候。猶小寺佐渡守(元武)可申候。恐々謹言。
(付箋)
『元亀三年』
     閏正月廿二日   輝元(花押)
     山田出雲守殿 御宿所
(『新鳥取県史』929号「山田家古文書」)

3 長谷川論文の考え方

 「萩系山田出雲守は元亀元年に九州から伯耆に派遣されたが、一方、岩国系山田出雲守は永禄12年に九州から伯耆に派遣されているように、「萩系山田出雲守と岩国系山田出雲守の動向は明らかに異なっている。」「元亀・天正年間の伯耆・因幡方面の毛利氏配下に、二人の山田出雲守が存在することを確認できた。」とされています。

4 長谷川論文の問題点

 まず、「萩系山田出雲守が伯耆に派遣された時期」です。長谷川論文中「元亀元年に、毛利氏が対大友氏戦争から撤退を完了し、(中略)九州から派遣されたと考えられる。」とありますが、次の文書(7)~(9)によって毛利軍が九州から
撤退したのは、永禄12年10月15日で、南條が九州から派遣されたのはそれ以前となり、文書(4)により萩系山田出雲守は南條と同道して伯耆へ入っているので、結果的に「萩系山田出雲守が伯耆に入ったのは永禄12年」ということになります。
 なお、『森脇覚書』は『吉川元春の武将森脇春方(1621年没)』の覚書で、1618年に完成して吉川広家に提出された後、毛利輝元に進呈されたもので、精度は高いとされており、鳥取県史ブックレット4『尼子氏と戦国時代の鳥取』にも引用されているものです。また、文書(7)の年次は永禄十二年の誤記と考えられます。

【文書(7)】森脇覚書
〔九州御陳之事〕(抄)
(略)
一、雲州与州之明御隙、九州への御出張候。(略)
(略)
一、其比(永禄十二年)、雲州尼子勝久・大将ニ而、山中鹿介・立原源太兵衛・秋上庵介・三刀や蔵人・森脇市正・横道兄弟、其外諸浪人乱入候。(略)
(略)
一、(略)羽衣石へハ、立花より南条を御上せ候。(略)
(略)
一、立花陳御退候へと、長府(元就の本陣)より度々御使御座候て、十月十五日御両殿諸陳共御退候。風雨みぞれふり(以下略)

〔雲州御弓矢最後の事〕(抄)
一、悉御開陳候て、明(永禄十三年。四月二十三日改元して元亀元年)正月十六日、輝元様・隆景様・元春様・元長様・隆家様、雲州御発足候。(以下略)
(『森脇覚書』)

【文書(8)】小早川隆景書状
如承候、九州之儀先以令帰陣、山口築山二取籠候大内(輝弘)太郎左衛門尉・其外従豊州渡海之人数、一人も不洩之討果、大慶此事二候。防長末代之堅、不可過之候、仍而其表加勢之事、各国衆相催、急度打立候。閣九州弓箭上国之儀も、第一者当城(富田)干心二存故候之間、不可有油断候。弥無退窟、可被尽忠儀事専一候。尚追々可申候。恐々謹言。
(永禄十二年)
  十一月十八日         隆景(花押)
   野村信濃入道殿 進之候
(『閥閲録』)

【文書(9)】小早川隆景感状写
去永禄十三年(ママ)拾月十五日之夜、筑前立花陣取退候時、抽諸人供仕、初中後心懸之次第、無比類候。連々可令褒美候。謹言。
    元亀四年
     十月二日        隆景
       井上又右衛門殿
(『附録 浦家文書』)

なぜ、このような齟齬が生じたのでしょうか。
これは【文書(1)】【文書(2)】の年次比定に問題があると考えられます。

ここでの境目は【文書(1)】【文書(2)】にある「今度八橋之儀、以旁気遣被引成候」の「引成」をどう読むか、です。
[1]動詞単体の「引」に補助動詞「成す」の尊敬語表現を付けたもの(この場合は撤収・撤退などの意味になります)

[2]複合動詞としての「引成」(類例:引き退く・引き連れ・引き合わす等々)、このいずれかと思われます。


いくつか例をあげて検討します。
ア.推定永禄五年正月二十六日付口羽通良他二名連署書状写しに「殊彼方被引成候御両所」(「閥閲録」(3)―098 湯原文左衞門家)
イ.推定永禄七年八月二十五日付毛利元就書状に「其方種々短息・気遣いを以て、高田七郎右衞門尉引き成し、蜂塚要害切り崩し」(「寄組山田吉兵衞家文書」)
ウ.推定元亀元年五月十六日付毛利元就書状「この期相過ぎ候ハぬやうニいよいよ引き成し引きわり候樣」(「毛利家文書」(2)―581)
エ.天正五年十二月十三日付吉川元春・元長連署書状写し「但州の事、成るべきほとハ引き成し候者」(岩国徴古館所藏「吉川家中并寺社文書」巻10)

アは[1]に該当します(註:彼方=出雲冨田城、御両所=湯原右京進と大谷伊賀守/推定永禄五年二月十五日付小早川隆景書状[寄組山田吉兵衞家文書]による)。

イウエは[2]に該当すると考えられます。文脈から考えるとすれば「引き寄せる・引き付ける」に近い語感と言えます。調略や交渉によって敵方から味方へ付ける、の意味と考えてよいと思います。この内イは表記的に【文書(1)】【文書(2)】の「殊今度八橋之儀、以旁気遣被引成候」と相通じるものを感じさせます。


 それでは、八橋城は旁(小寺・山田)の気遣いによって陥落したのでしょうか。しかし、【文書(10)】に「八橋之儀茂只今懇望半候」とある点に明らかなように、この時期の八橋城は自らの意志で投降を希望していましたから、小寺・山田による調略との解釈が入り込む余地はありません。両名の働き掛けではない以上、問題の「引成」は[1]やアの意味、すなわち、小寺・山田の八橋城からの退去と受け止めるべきと考えられます。


【文書(10)】により、元亀2年8月20日に「八橋之儀も一着」とあることから、尼子党が引き退いたという[2]のような解釈をされ、元亀2年に年次比定されたのではないかとも考えられます。


ところが、これを[1]のように「撤収・撤退」と解釈できるとすると、元亀元年の年次比定も可能です。

このように【文書(1)】【文書(2)】を元亀元年に比定することで、去年が永禄12年となり、「萩系山田出雲守が伯耆に入ったのは永禄12年」となります。
結果的に「萩系山田出雲守が伯耆に入ったのは永禄12年」となり、長谷川論文にあるような「萩系山田出雲守と岩国系山田出雲守の動向は明らかに異なっている。」とは言えなくなり、「元亀・天正年間の伯耆・因幡方面の毛利氏配下に、二人の山田出雲守が存在することを確認できた。」とも言えなくなることが確認できました。

【文書(10)】吉川元春書状写
(汗入郡)末石就落去之儀示給候。披見候。仍(会見郡)寺内之儀去十八之夜明退候。追々人数指遣候而数十人討捕候。(八橋郡)八橋之儀茂只今懇望半候。今明之間可有一着候。其表(出雲国)新山之儀弥相弱之由候。尤可然候。猶追々吉事可申入候。恐々謹言。
  (元亀二年)              駿河守
      八月廿日             元春 御判
        湯原右京進殿(春綱)
        山縣善左衛門尉殿(春政ヵ)
        大垣八郎左衛門尉殿(春政ヵ)
                  御返報
(『新鳥取県史』915号「閥閲録」)

5 県史ブックレットの問題点

 鳥取県史ブックレット4『尼子氏と戦国時代の鳥取』でも、南條氏らの九州から伯耆への帰還時期について、前掲【文書(4)】と次の【文書(11)】を根拠に、「伯耆においても、元亀元年春頃に南條宗勝や杉原盛重が相次いで九州から帰国し、尼子氏への反撃を本格的に進めていく。」と書かれています。
【文書(4)】には、南條宗勝の伯耆帰還のことが書かれていますが、「今度其方事」となっているので、「今度」を文書日付である4月と直近の「元亀元年春頃」と解釈されたものと思われますが、この時点でも毛利氏は今だに尼子党と戦いを継続していて現在進行形であることから、南條氏が永禄12年10月以前に参戦していた合戦に対して、毛利氏が「今度其方事」と解釈しても違和感はないと思われます。また、こう解釈しないと前述のように齟齬が生じてしまいます。
また、【文書(11)】については、杉原盛重が尼子党との合戦に参戦していることはこの文書によって確認できますが、杉原氏の九州から伯耆への帰還時期について根拠にするには無理があるのではないでしょうか。

【文書(11)】毛利元就書状写
乍次申遣候。雲州清水山之儀、去八日富田衆-(杉原)盛重被取懸、即時切崩数百人討果之候。太慶此事候。折節其方子四郎三郎(国司元信)事、為使差遣之之処、於清水分捕仕候。誠神妙之至候。辛労ニて社候へ、昨日爰もと帰宅候条可心安候。雲州表之儀ハ太利ニて候条可心安候。猶吉事重而可申聞候。謹言。
  (元亀元年)
      十月十四日        元就 御判
        国司雅楽允殿(就信)
(『新鳥取県史』877号「閥閲録」)

(文責・北村順一)


[速報]調査研究成果発表会・ミニシンポ開催しました!

 第2回調査研究成果発表会・ミニシンポ「新出史料から東伯耆の中世史を再考する」を令和3年2月20日(土)、21日(日)に開催しました。

 両日合わせて111人もの皆様のご参加があり、好評をいただきました。ありがとうございました。当日の詳細については、後日、ホームページ等で皆様にお知らせいたします。

 また、当日ご都合でご来場いただけなかった方等には若干残っております当日資料をお渡しすることができます。ご希望の方は当埋蔵文化財センターへお問い合わせください。

受付の様子

当日の受付の様子

新刊図書の見本

新刊書籍の見本やクシナ城ジオラマの説明に見入る来場者

会場の様子

当日の会場の様子


ミニシンポ「山田出雲守再考」を理解しやすくするための基礎知識

 2月21日(日)のミニシンポジウムの参考資料ですので、お読みになるとミニシンポジウムがより分かりやすくなると思いますので、事前の一読をお願いします。

 

 永禄・元亀・天正(1570~80年頃)にかけての東伯耆・因幡の情勢

                    R3.2.19 鳥取県埋蔵文化財センター

〇永禄9年、出雲の尼子氏を毛利軍が攻略し、家臣たちは四散しました。

永禄5年からはじまったこの戦いの過程で、伯耆は尼子氏から解放され、因幡でも山名氏に代わる 毛利氏からの影響力が徐々に及ぶようになりました。

〇そして、東伯耆は羽衣石城の南条宗勝が家督の一部を元清に譲って両頭体制を敷き、因幡は鵯尾城の武田高信(後に鳥取城主)が国内掌握へ向け始動し始めます。

 

〇その後、四散した山中鹿介ら尼子残党は、毛利氏の九州出陣の虚を衝いて永禄12年から元亀2年にかけて尼子家再興戦を展開します。

山田出雲守、南条宗勝、武田高信らが尼子再興軍と戦っています。

羽衣石城や八橋城での合戦、鹿野新山(狗尸那城)合戦、鹿野荒神山合戦は、このときの戦いです。

この戦いは尼子党の出雲からの退去で終わりましたが、織田方や但馬山名の支援を受けて、第2次尼子家再興戦がはじまります。

 

〇天正元年、鳥取城主「武田高信」は山中鹿介ら尼子党や山名豊国に鳥取城を追われ、鵯尾城に退去します。豊国の襲撃を受けた高信は鵯尾城から逃走しますが、事後、徳吉城・鵯尾城は豊国方に接収されました。ほどなく毛利は両城の返還を豊国に迫り、山田出雲守を在番として派遣しています。

 

〇天正3年、尼子党掃討のために因幡に来援していた吉川軍は対策を講じた上で、加勢として先行派遣していた南条宗勝や山田出雲守らを連れて伯耆方面に帰っていきます。

 

〇その直後に、羽衣石城で南条宗勝が急死する事件が発生、慌てた遺族は次の家督として元続を認証してもらうための起請文を吉川氏へ提出しました。

 

〇翌4年、因幡では、尼子党の跳梁に手を焼く毛利氏が、豊国の斡旋で尼子家再興軍を支援する但馬山名と和睦したことで豊国株が急激に上昇した結果、武田高信はそれまで忠勤していた毛利氏に保護を求めるも見捨てられ、尼子残党も加わった豊国らに鵯尾城で襲撃され落命しました。

 

〇同年、宗勝殺害犯の内偵を続けていた吉川元春は、この事件の犯人を旧尼子家家臣の福山次郎左衛門と断定、元春から殺害を命じられた山田出雲守は福山を宅所に呼び出し殺害します。

 

〇3年後の天正7年、南条宗勝の跡を継いだ南条元続は、毛利方に見切りをつけて離反し、織田方に転じました。邪魔になった山田出雲守は元続に襲撃されます(出雲守は鹿野に難を逃れました)。


ミニシンポジウム「新出史料から東伯耆の中世史を再考する」を開催します!

 今週末、2月20日(土)、21日(日)と開催する成果発表会の一つとして、21日(日)に「東伯耆の中世」についてミニシンポジウムも開催します。

 

 ミニシンポジウムでは、県内の中世史・城館研究者お二人による2講演を行います。講演「小鴨氏・南条氏の再考」では、ある古文書を発給した「元清」は小鴨元清なのか、それとも南条元清なのか、また、講演「山田出雲守再考」では、長年別人物として二人いると言われている山田出雲守、実は同一人物なのではないか、という2つのテーマで、これまでいつのまにか通説とされてきた説について新出史料をもとに再考します。

 古文書に残る有力国人が現在の解釈と別の人物であると、歴史上の出来事の解釈も変わってくることから、東伯耆の中世史について重大なテーマです。講演の後、シンポジウムで一般の皆様にも分かりやすく史料や表を使って解説していきます。

 

 ミニシンポジウム当日の席は、もう少しゆとりがございますので、参加ご希望の方は早めのお申し込みをお願いいたします。

 

【ミニシンポジウム】

 午前10時30分~11時10分 東伯耆の中世城館(大川泰広)

 午前11時20分~正午    倉吉市山ノ下遺跡の発掘調査(森本倫弘)

 午後1時~4時      〔ミニシンポジウム〕

 講演1 小鴨氏・南条氏の再考(眞田廣幸氏)

              ミニシンポジウム(1)

 講演2 山田出雲守再考(高橋正弘氏)

              ミニシンポジウム(2)

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センター紹介

 久松山地域は戦国時代以降鳥取城が築かれ、鳥取藩32万石の中心地でした。現在でもこの地域は県庁があり、行政の中心地となっています。

 しかし、戦国時代から遡ること約800年前の奈良時代、県庁から4キロほど離れたこの国府町に国史跡因幡国庁(現在の県庁にあたるもの)がありました。今ではひっそりとした田園地帯ですが、因幡三山(甑山(こしきやま)、今木山(いまきやま)、面影山(おもかげやま))に囲まれ、当時の面影を残す万葉の歴史と古代の出土品にあふれた万葉の里となっています。
 この歴史豊かな万葉の里の一角に埋蔵文化財センターはあります。


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