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中世の因幡・伯耆と伊勢神宮

はじめに

 「お伊勢行きたや、伊勢路がみたい、せめて一生に一度でも」と伊勢音頭で唄われたように、伊勢参りは江戸時代の庶民のあこがれでした。江戸時代だけでなく、中世以前においても伊勢神宮は公家・武家を問わず多くの人々の信仰を集めてきました。
 2013(平成25)年、伊勢神宮では「式年遷宮(しきねんせんぐう)」が行われます。これは、20年に一度、内宮(ないくう:皇大神宮)・外宮(げくう:豊受大神宮)のすべての社殿・装束・神宝などを新しくするもので、7世紀後半に始まったといわれ、今回で62回目を数えます。
 今回は、この式年遷宮や伊勢御師(おんし)(注1)の活動を中心に、中世の伊勢神宮と因幡・伯耆との関わりについて取り上げてみたいと思います。

式年遷宮と因伯の役夫工米

 伊勢神宮の式年遷宮は、7世紀の持統天皇の時代に始まりました。平安時代の『延喜式』には「大神宮は20年に一度、正殿・宝殿・外幣殿を作り替えよ。皆、新材を採りて構造せよ」と書かれています。しかし、20年に1度とはいえ、全ての社殿を新しく建て替えるには多額の費用が必要でした。10世紀以降、律令制の解体とともに造営費の確保が難しくなった朝廷は、財源を確保するために、広く諸国に一定量の米を賦課する方法を採りました。これを「役夫工米(やくぶくまい)」と呼びます。
 この役夫工米は、当初は国司のもとで国衙(こくが)の役人や神宮から派遣された役人が徴集していましたが、鎌倉時代以降、幕府が寺社造営や役夫工米の徴集に積極的に関わるようになりました。

 因幡・伯耆の役夫工米に関する史料をみると、康永2年(1343)の内宮の第35回式年遷宮に際して、因伯両国に役夫工米が課せられています(注2)
 また、応永3年(1396)には、因幡国法美郡の来谷(きたに)・高岡にあった京都の祇園社領に対して賦課されているほか(注3) 、永享6年(1434)の外宮の第39回式年遷宮の際にも、伯耆国に93貫文の役夫工米が課せられています(注4) 。この頃の役夫工米は幕府の税源である段銭(たんせん)の中に組み込まれて徴収されていました。
 しかし、当時の幕府の財政は不安定であり、また戦乱の世を迎えて造営費用も思うように調達できず、その後、式年遷宮は1世紀以上にわたって中断を余儀なくされました。尼僧である清順(せいじゅん)上人の努力によって外宮の第40回式年遷宮が実現するのは130年後の永禄6年(1563)のことです(注5)

内宮宇治橋付近の写真
(写真1)内宮宇治橋付近

伊勢御師と因幡・伯耆

 伊勢神宮と地方の人々を結びつけたのは「御師」と呼ばれる人々でした。御師というのは特定の寺社に属し、参詣者をその社寺に誘導し、祈祷・宿泊などの世話をする者をいいます。中世の代表的な御師には伊勢神宮、熊野社、石清水八幡宮、賀茂社、日吉社、広峯社などがありました。御師は全国各地の信者を「檀那(だんな)」(道者(どうじゃ)ともいう)に組織し、神札を配布したり社参を代行するほか、檀那が参詣する際には宿坊を提供したりしました。
 因幡に檀那を持つ伊勢御師をみると、蔵田、来田(北)、福嶋、堤といった家が確認できます。これらはいずれも外宮の御師であり、来田家や福嶋家、堤家は、江戸時代以降も因幡の御師として活動しています(注6)
 来田家に残る文書によれば、16世紀半ばの因幡国において伊勢御師の活動が確認できる地域は別表のとおりです(注7)

旧郡名 

旧市町村 

 「来田文書」にみえる地名

 高草郡

 鳥取市

 服部

 八上郡

 河原町

 佐貫市場

 八東郡

 八東町

 小別府

 若桜町

 落折、小船、大野、岩屋堂、糸白見

智頭郡

 用瀬町

 鷹狩

 佐治村

 津無、苅地、砂原、大井、森坪、加瀬木、淵尻、高山、林泉寺、万蔵、大水、小田, 畑、下余戸、上余戸、細尾、尾際、中村野(中村?)

 不明

   前村、をせ、市は

別表:「来田文書」にみえる伊勢御師の檀那所在地


 これをみると、特に佐治川沿いの村々に伊勢御師の檀那が多く存在していることがわかります。佐治は因幡国内においても伊勢とのつながりが最も強い地域の1つと考えられていますが、そのようなつながりは中世以前からみられたものと思われます(注8)

橋村正房と伯耆南条氏

 伯耆国内に檀那を持つ代表的な御師に橋村家がありました。橋村家も外宮の御師で、中国・九州方面を中心に多くの檀那を持ち、一般民衆だけでなく、吉川氏など戦国武将とも師檀関係を結んでいました。また、宗教活動にとどまらず、戦国時代には為替の発行などを行う金融業者としての側面もありました(注9)
  東伯耆の羽衣石(うえし)城主南条氏も橋村氏と深いつながりを持つ戦国武将の1人です。 
 天理大学天理図書館には、戦国時代の橋村氏と南条氏の関わりを示す史料がいくつか残されています。それによれば、天正15年(1587)から文禄2年(1593)にかけて、御師橋村正房は、南条家の当主である元続・元忠から、数度にわたって金銀などを預けられています。その回数は天正15・17・18年、文禄1・2年の5カ年で計7回に及んでおり、預かり物の中には、皮袋に入った銀子のほか、中国から輸入された良質の金である「印子(いんす)金」や「ひし判」(天正菱大判か)、「国次の刀」などがありました。
 南条氏が橋村氏に金銀を預けた理由や背景は不明ですが、この時期が南条家の代替わりの時期に相当していることや(注10) 、九州島津攻め(天正15年)、小田原北条攻め(天正17~18年)、朝鮮出兵(文禄1~2年)といった外征の時期と重なっていることから、そのような家中の事情や軍事情勢とも何らかの関係があったのかもしれません。
 いずれにしても、南条氏が橋村氏に金銀を預けた背景には、伊勢御師と伯耆武将との日常的な結びつきや信頼関係があったものと思われます。

(写真2)正宮へ参詣する人々(内宮)
(写真2)正宮へ参詣する人々(内宮)

おわりに

 1300年の時を超えて受け継がれる式年遷宮。そして、今なお各地にみられる伊勢信仰。その長い歴史は、公家・武家をはじめ、御師や民衆など、多くの人々のさまざまな営みに支えられたものでした。移り変わりの激しい現代の社会にあっても、今なお変わらず守り継がれているものがあります。時代を生きた人々の思いや営みに目を向けながら、先人たちによって守り継がれてきた豊かな歴史にこれからも光を当てていきたいと思います。

(注1) 一般には「おし」と呼ぶが、伊勢神宮の場合は「おんし」と呼ぶ。

(注2)暦応3年12月8日太神宮内外院別院摂社所課国目録(神宮文庫所蔵「内宮暦応三年造替記」)。

(注3)応永3年役夫工米奉行衆国分注文(「八坂神社文書」)。

(注4)永享2年外宮役夫工米諸国所納分注文案(「蜷川家古文書」)。

(注5)内宮についても寛正3年(1462)の第40回式年遷宮の後、天正13年(1585)に第41回遷宮が行われるまで、120年以上にわたって式年遷宮が中断している。所功『伊勢神宮』(講談社文庫 1993年)参照。

(注6) 岡田登「伊勢の神宮と因伯二国」(霞会館資料第31輯『参宮・遷宮・伊勢神宮』所収 2009年)、伊藤康晴「鳥取藩領における伊勢御師の檀家構造について―内宮御師白鬚太夫を中心に―」(同)。

(注7) 天文14年7月吉日蔵田国恒道者売券、永禄4年8月吉日福島末国道者売券など(「来田文書」)。

(注8)例えば、近世以降、因幡一円には麒麟獅子舞が広く伝播したが、その中にあって佐治川流域だけは古来からの伊勢神楽の特徴を伝える神楽獅子舞が今なお主流を占めている(野津龍『因幡の獅子舞研究』1993年)。

(注9)小西瑞恵「戦国期における伊勢御師の活動―橋村氏を中心に―」(『中世都市共同体の研究』2000年)、久田松和則著『伊勢御師と旦那』(弘文堂 2004年)。

(注10) 南条家では天正19年に南条元続が死去し、息子の虎熊(元忠)が跡を継いでいる。

(岡村吉彦)

 

県史編さん室のスタッフ紹介

 2013(平成25)年4月1日、県史編さん室に新たなメンバーが加わりました。

専門員 前田 孝行(まえた たかゆき)

担当:近代

 今春の異動により、県立八頭高等学校から県史編さん室に参りました。15年以上にわたる学校勤務での経験も生かしながら、よりよい県史づくりに資するよう、日々精進していきたいと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。

 

非常勤 田中 由貴乃(たなか ゆきの)

担当:古文書整理

 この度、近代・現代部会の古文書整理員になりました。春から鳥取にきたばかりで、不慣れなことも多いですが、一生懸命がんばります。


非常勤 平尾 奈央子(ひらお なおこ)

担当:刊行物編集

 この度、刊行物編集のお手伝いをさせていただくことになりました。さまざまな情報を皆様にわかりやすくお伝えしていけるように日々取り組んでいます。よろしくお願いいたします。


活動日誌:2013(平成25)年3月

1日
第2回民俗部会(公文書館会議室、岡村・樫村・足田)。
2日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、渡邉)。
3日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、渡邉)。
4日
資料(旧多里村役場資料)調査(公文書館会議室、岡・清水)。
資料編執筆者交渉(鳥取県教育委員会文化財課、湯村)。
5日
資料(旧多里村役場資料)調査(公文書館会議室、岡・清水)。
6日
民俗調査(湯梨浜町泊、樫村)。
7日
民具調査(日野町歴史民俗資料館、樫村)。
8日
資料編執筆者交渉(鳥取県教育文化財団美和調査事務所、湯村)。
史料検討会(近世)(公文書館会議室、渡邉)。
9日
資料調査(公文書館閲覧室、清水・岡)。
弥生文化シンポジウム(淀江文化センター、湯村)。
10日
資料調査(公文書館閲覧室、清水・岡)。
11日
資料調査(公文書館会議室、岡)。
12日
資料調査(公文書館会議室、清水・岡)。
13日
資料(中世棟札)調査(八頭町大江神社・岩美町甘露神社、岡村)。
資料調査(公文書館会議室、清水・岡)。
14日
民具調査(日野町歴史民俗資料館、樫村)。
資料(中世棟札)調査(鹿野町加知弥神社、岡村)。
15日
県史編さんにかかる協議(鳥取県教育委員会、足田・岡村・湯村)。
18日
資料調査(公文書館会議室、清水・岡)。
中世翻刻原稿の校訂作業(~19日、東京大学史編纂所、岡村)。
19日
資料検討会・資料調査(公文書館会議室、清水・岡)。
21日
資料調査(公文書館会議室、清水・岡)。
22日
資料調査(公文書館会議室、清水・岡)。
25日
資料調査(~26日、横浜市歴史博物館、樫村)。
26日
資料調査(公文書館会議室、清水・岡)。
27日
民俗関係講演会に関する協議(東京都世田谷区、樫村)。
資料調査(公文書館会議室、清水・岡)。
28日
県史編さんにかかる協議(鳥取大学、岡村)。
資料調査(公文書館会議室、清水・岡)。

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編集後記

 平成25年度、県史編さん室は3名の新しい職員を迎え新体制でスタートしました。新メンバーは、新たな力となって事業を推進に貢献してくれるはずです。また、この「県史だより」についても新メンバーの一人、平尾刊行物編集員が主に作成していくことになります。今年度も県史編さん室をよろしくお願いいたします。

(樫村)

  

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