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1900年の工場

 第32回「県史だより」では、1895(明治28)年に、元農商務省次官で産業運動指導者の前田正名(まえだ まさな)が鳥取県を訪れたエピソードをご紹介しました。正味5日の滞在中に県内各地で講演を重ね、地方産業の振興を訴えた前田ですが、過密日程の合間に彼が精力的にこなしたのが、工場視察でした。

 今回の「県史だより」では、前田が見た鳥取県の工場とはどんなものであったか、当時の記録を繙いてみたいと思います。

 鳥取県は、様々な統計調査の結果を集めた『鳥取県統計書』を明治10年代から刊行しており、そのなかには工場に関するデータも収録されています。ただ、初期のものは調査内容が乏しいので、ここでは1900(明治33)年版を見ていきましょう。前田正名の来県から5年後の記録というわけです。

 この統計の調査対象は、「職工十人以上ヲ使役スル工場」となっています。そのような工場は、1900(明治33)年の年末現在で県内に74か所あり、合計2,679人の「職工及徒弟」が働いていました。そのうち蒸気機関を備えた工場は28か所、ほかに水車を動力とする工場が7か所ありましたが、残り39の工場は動力を全く持っていませんでした。

 製造品種別に見ると、最も多かったのは、繭から生糸を作る製糸工場です。その数は34か所、1,687人の「職工及徒弟」が働いていました。県内の全74工場の半分弱、「職工及徒弟」の6割強が製糸業に携わっていたことになります。そのほかでは、製鉄工場の14か所、綿織物工場の13か所あたりが多いのですが、やはり印象付けられるのは製糸工場の存在感でしょう。

 江戸時代以来の主要産業であった製鉄業(たたら)や綿織物業と違い、製糸業は当時の鳥取県の新しい地方産業でした。明治時代の最も古い生糸生産量の記録は1874(明治7)年の301貫(約1.13トン)ですが、明治20年代後半には1千貫(3.75トン)を超え、大正時代の末には1万貫(37.5トン)に達します(注1)。創業時期の記録を見ると、製糸工場のほとんどは1890(明治23)年以降になっていますから、それら新しく地域に登場した工場が、明治後半における製糸業の急成長を支えたのです。

 もう一点、印象的なのが従業員の性別に関するデータです。記載された全工場の「職工及徒弟」2,679人のうち、男性はわずか530人で、約8割にあたる2,149人は女性でした。製糸工場に限れば女性の割合は約96%にのぼり、製鉄工場の「職工及徒弟」385人が全て男性だったのと好対照です。

 よく知られるように、製糸工場の主な働き手は農村出身の婦女子でした。そのことは、「一ヶ年操業日数」のデータにも表れています。製糸工場におけるその平均は221日で、200日に満たない工場も全体の3分の1を超える12か所ありました(注2)。これらのことは、農閑期だけに農家の女性を集めて操業を行う製糸工場も意外と多かったことを示唆しています。

 「工場」といえば、この時代における経済発展の主役的なイメージですが、このように見ると、それらは必ずしも近代的な装いをまとったものばかりではなかったことが分かります。また、明治時代に現れた工場の多くが男性にとって新たな就業機会ではなかったことは、県外への労働者流出の背景として見逃せないでしょう。

 しかしながら、製糸業のような新しい産業活動を行う工場が建てられ、村々の女性の就業機会となっていたことは、明治時代の社会変化として小さなものではありません。今回は単年の統計書から概観を眺めただけですが、こうした記録の整理を進めれば、近代の鳥取県の経済について、われわれの知識はより豊富となるでしょう。

(注1)勧業寮編『明治七年府県物産表』(1875,復刻版『明治前期産業発達史資料』第1集,明治文献資料刊行会,1959),鳥取県編『鳥取県治一班』・『鳥取県統計書』各年版。

(注2)1900(明治33)年中に創業した3工場を除く。

(大川篤志)

室長コラム(その30):「家老日記」に皆既日食は記されたか?

 鳥取県が毎月発行している広報誌「県政だより」に、今年度は「郷土の歴史を次の世代へ」と題して、県史編さん室が連載を担当することになり、4月号には、県史編さん協力員(ボランティア)の方々が行っている、鳥取藩家老日記の解読の活動を紹介した。

 それを読んだ鳥取市さじアストロパークの方からメールをいただいた。家老日記の中に、日食に関する記録はないだろうかというお尋ねだ。

 メールによれば、今年はガリレオが人類初の望遠鏡での天体観測を行ってちょうど400年目に当たることから、「世界天文年」と定められており、さじアストロパークでも6月から世界天文年にちなんだ特別展示を予定しており、その中に、「鳥取の天文」のコーナーを設けたいとのこと、また今年7月22日には鹿児島県南部地域で国内で46年ぶりとなる皆既日食が見られることから、江戸時代にも何度か鳥取県で起こっている皆既日食について、記録が残ってないか以前から調べたいと思っていたとのことだ。

 家老日記が残っている時代の内、鳥取県で日食があったのは次の5回だそうだ。

1. 1730年 7月15日 14時51分 金環日食
2. 1742年 6月 3日 8時49分 皆既日食
3. 1786年 1月30日 12時17分 かなり深い部分日食
4. 1849年 2月23日 10時14分 かなり深い部分日食
5. 1852年12月11日 12時43分 皆既日食

 この日付は、太陽暦であるため、江戸時代に使われていた太陰暦(旧暦)に直すと、以下の日付になる。

1. 享保15年 6月1日
2. 寛保 2年 5月1日
3. 天明 6年 1月1日
4. 嘉永 2年 2月1日
5. 嘉永 5年11月1日

 ひょっとすると、面白い記載があるかもしれないと期待しながら、早速この日付の家老日記を調べてみたが、残念ながら何れの日も日食のことは全く記されていなかった。ただし、『鳥取県史』第7巻に収録された「因府年表」の中に、1~3の日に「日蝕」があったことが記載されており(4・5は「因府年表」の対象時期外)、日食が鳥取でも確認されていたことは間違いない。おそらく、当時の人々にとっても、めったに見られない日食は大きな関心事だったと思われるが、家老日記には、藩政に関係のない日食は、記載する必要がなかったのだろう。家老日記には、多くの情報が記されているが、当然のことながら、あらゆることが記録されているわけではなく、史料としての限界を持っている。それを補うためには、その他の藩の記録や民間に残るさまざまな古文書を幅広く保存しておく必要性を再認識させられた問い合わせだった。

(県史編さん室長 坂本敬司)

県史編さん室の新スタッフ

 平成21年4月1日、これまで中世担当の岡村専門員が兼任してきた考古分野について、新しく専任のスタッフが着任、また歴史情報データベース作成員として、洲脇非常勤が着任しました。

専門員 湯村 功(ゆむら いさお)

担当:考古

 この度、埋蔵文化財センターから異動となり、考古に関する仕事を担当することになりました。鳥取県の歴史を編んでいくうえで、遺跡や考古資料の代弁者として頑張ります。よろしくお願いします。

非常勤 洲脇 匠(すわき たくみ)

担当:歴史情報データベース作成

 この度、歴史に関する史料、文献等の諸情報データベースを作成する業務に携わることになりました。私の作成するデータベースが一人でも多くの方のお役にたてるように、業務に勤しんでいきたいと思います。

活動日誌:2009(平成21)年3月

 
1日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、坂本)。
3日
史料調査(琴浦町箆津、坂本)。
出前講座(琴浦町、岡村)。
4日
第2回県史編さん専門部会(近世)開催。
5日
第2回県史編さん専門部会(現代)開催。
民具調査(鳥取市佐治歴史民俗資料館、樫村)。
6日
第2回県史編さん専門部会(近代)開催。
7日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、坂本)。
10日
民具調査(鳥取市佐治歴史民俗資料館、樫村)。
12日
第2回県史編さん専門部会(民俗)開催。
資料調査(米子市二本木、西村)。
13日
民具調査(鳥取市佐治歴史民俗資料館、樫村)。
17日
民具調査(鳥取市佐治歴史民俗資料館、樫村)。
24日
県史編さん室、本庁舎から公文書館に移転。
26日
民具調査報告会(日吉津村中央公民館、中島・樫村)。
27日
第1回新鳥取県史編さん委員会開催。
28日
民俗調査(~31日、鳥取市内他、樫村)。

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編集後記

 平成21年度が始まりました。県史編さん室にとっては、部屋が移動したり、スタッフが増えたりと、新しい環境での再スタートというところです。また、「とっとり県政だより」にコラムの連載を始めたことも変化の一つです。

 今年度もどうぞよろしくお願いします。

(大川)

  

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