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罪と罰と…

 明治初年の日本で行われた死刑は年に何件?

 少々どぎつい話題から始まって恐縮ですが、第14回「県史だより」に続き、今回も明治初年の罪と罰について歴史を振り返ってみたいと思います。ただし、ここでの関心は、死刑制度そのものではなく、それを通して見える当時の社会背景にあります。

 冒頭の問いに戻ると、正確な数字は得難いのですが、1870(明治3)年頃には年間1千人以上に死刑が宣告、執行されていたようです(注1)。現在の死刑執行は年間数人程度ですし、当時の人口が約3千4百万人だったことを考えても(注2)、これは相当の数といえます。

 鳥取藩については、明治3年に14人に死刑が宣告されたという記録が残っていますが(注3)、注目したいのは彼らの罪状です。14人のうち9人(6件)に共通するその罪とは、実は通貨の偽造もしくは行使なのです。

 大政奉還直後、日本は未だ統一的な刑法体系を持たず、犯罪に対する処罰は各府藩県で従前の方法が踏襲されました。一方で、明治新政府による法整備も進められ、明治3年には初の全国的刑法典「新律綱領(しんりつこうりょう)」が各府藩県に頒布されました。ところが、この新律綱領には通貨偽造に関する条文はありませんでした。代わりにその処罰を定めたのが、同年に公布された「偽造宝貨律(ぎぞうほうかりつ)」なる単独法です。

 同法では、通貨を偽造して使用した場合、その金額を問わず、首謀者は「梟(きょう)」と規定されました。「梟」とは、斬首の上で晒し首にされる刑罰で、晒しを伴わない斬首刑・絞首刑とあわせて三種あった当時の死刑のうち、最も重いものとされました。通貨偽造は、まさに厳罰をもって戒められたわけです。

 この頃の日本では、江戸時代以来の金・銀・銭という「三貨」や、諸藩が発行した地域紙幣の「藩札」等が依然として使われており、非常に複雑な通貨体系にありました。これらに加え、財源確保を図る新政府は、1868(慶応4)年に「太政官札(だじょうかんさつ)」、翌年には「民部省札(みんぶしょうさつ)」という不換紙幣を発行しましたが、実際の流通価値は額面を下回りました。さらに、紙幣の未熟な印刷技法は、偽造の横行を許していました。

 この混乱を整理して近代的通貨制度を築くことは、新政府にとって最重要課題の一つでした。通貨偽造罪に対する新政府の厳しい姿勢には、こうした背景があったのです。

 一方、罪を犯した側の背景は一様でなかったようです。ただ、先に紹介した鳥取藩の通貨偽造犯9人の口書(くちがき=供述記録)による限りでは、彼らの共通点として、現金収入で生計を支える貧しい階層にあったことが窺われます。その職業は、6人までが職人や雑業者と見られ、2人は農家、残る1人は藩士家来(おそらく下級)の妻でした。農家の2人も、1人は姫路から鳥取県中部の村へ移り住み「畑作間ニハ網漁仕相暮」というので、田を所有せず、余業の方が生活の中心だった可能性を思わせますし、もう1人も農間に紺屋職をしていました。

 幕末~明治初年の日本は激しいインフレの下にありましたが、近年の研究は、1860年代に労働者の実質賃金率が急落したことを示しています(注4)。彼ら通貨偽造犯は、その荒波を最も強く受けた層だったといえるのかもしれません。

 彼らが処刑された翌年の1871(明治4)年には、日本の貨幣史上に残る大きな出来事がありました。新しい通貨「円」の誕生です。その後、紆余曲折を経て、1881(明治14)年に始まる松方正義(まつかた まさよし)大蔵卿のもとでの緊縮財政と紙幣整理の断行により、近代的通貨制度は確立したといわれています。

 こうした激動の時代に生きながら歴史の表舞台へ登ることはなかった9人の人生ですが、その罪と罰ゆえに記録が残されたというところに歴史の皮肉を感じます。

(注1)手塚豊『明治初期刑法史の研究』(慶應義塾大学法学研究会,1956)附録2。

(注2)梅村又次ほか『長期経済統計 第2巻 労働力』(東洋経済新報社,1988)による最も近い年の推計値は、1871(明治4)年末の34,269,471人。

(注3)国立公文書館所蔵「鳥取県史料 三」政治部刑賞(鳥取県立図書館所蔵の稿本「鳥取県歴史」では第1巻に該当)。以下、鳥取藩の死刑に関する記述は、全て同史料に依拠。なお、死刑囚14人のうち6人は牢内で「病死」したとされています。

(注4)斎藤修『賃金と労働と生活水準』(岩波書店,1998)第1章等。

(参考文献)上掲文献のほか、明治初年の通貨偽造罪については霞信彦「通貨偽造は「梟」(その1~2)」(『書斎の窓』第449~450号,有斐閣,1995)等、貨幣史については日本銀行金融研究所貨幣博物館ホームページ等を参照。

(大川篤志)

室長コラム(その18):「隠居分家」の慣行

 東伯郡琴浦町篦津(のつ)の旧八橋郡大庄屋・河本家の古文書調査を行っていることは、第7回の「県史だより」でも紹介したが、県指定文化財である住宅の公開にあわせて、今年も去る11月3日、「河本家の古文書調査から」と題して、お話をさせていただいた。

 今回は、河本家に残る、幕末の1860(安政7)年に八橋郡のある村で起きた、一人の男の自殺についての関係者の供述書から、当時の結婚と離婚の実態、当時の社会の雰囲気を紹介した。男が自殺に至った経過は、以下のようなものである。

 男は30才、前年8月に自身で見付けてきた女と結婚、家が手狭であったため、近所の家の門屋を借りてそこで暮らしていた。しかし、結婚生活はうまく行かず、12月に妻は家を出た。妻は男に未練があったようで、翌年1月、同じ村に住む男の兄に、復縁の仲介を頼んだ。そのときは断られたものの、2月29日、再び男の兄に頼みに行き、結局兄の仲介で男も復縁を承知し、その日から再び一緒に住むようになった。

 実は、二人の不縁の背景には、妻の不倫疑惑があった。近くの寺に留まって修行していた僧侶が、男の留守に家に上がり込み、妻と親密な関係になっていると噂があり、それが夫婦がうまくいかなくなった理由だった。

 3月5日、男は朝から近所の2軒の家で酒を飲み、少し眠った後、家に帰る途中、例の僧侶が近くの家に居るのを発見した。急いで帰宅してみると、妻は居らず(実は近所の家に病気見舞いに行っていた)、てっきり妻と僧侶が密会していると思いこんだ男は、家にある脇差を持って僧侶を見付けた家に向かったが、僧侶の姿はすでになかった。男は、家に帰って大声でわめきながら脇差を振り回してあばれ、驚いた家族がなだめようとしたが、「鬱憤を晴らす」と自身の腹を脇差で刺した。近所の人々も駈け付け、医師を呼び治療したが、傷は深く、男は翌朝亡くなった。なお、妻と僧侶は、どこかで事件の報を聞いたのか、それ以来行方不明となった。

 なぜ男が自殺したのか、不可解な事件ではある。上の経緯だけを見ると、男は怠け者で粗暴な者のように感じられるが、男の家は小作を含め1町1反余の田畑を耕作しており、おそらく、年老いた両親を支え、一家の労働力の中心として働いていた。そのような人物が、このような事件を起こすのが、幕末の世相の反映であろうか。ちょうど、この自殺事件の前々日、江戸城桜田門外で大老井伊直弼が暗殺されている。日本中が興奮状態にあったと言えるのかもしれない。

 ところで、この男の家族構成から気付くことがある。

 男の家は、66才の父、64才の母、その三男である男、26才の妹、故あって4年前に出奔した長男の妻と娘2人(17才と11才)、長男の妻の母の8人家族だった。次男は村内に分家し、家を出ていた(自殺した男の妻が復縁の仲介を依頼したのがこの次男である)。ただし、家族は実質的には2世帯に分かれていた。両親と自殺した男・妹の4人は、11年前に同じ屋敷内の厩の跡に別の家を建て、長男夫婦とは別棟で暮らしていた。これは、「隠居分家」がこの家で行われていたことを示している。

 「隠居分家」は、家長が隠退して長男に家を譲り、自身は次三男を連れて別宅し、分家を創設することで、家の相続の一形態である。日本の伝統的な家の相続は、家長が死ぬまで家におり、その死後、同居している長男が継ぐ、という形を我々は漠然と想定していないだろうか。しかし、家の相続の在り方は、必ずしもそのような形だけではなかった。実は、この事件に関係して取調べを受けた別の家でも、同じように、年老いた両親が別の屋敷に移っていることがわかる例がある。おそらく、この時期の東伯耆では、「隠居分家」は、かなり一般的な家の相続形態であったのではないかと思われる。

 古い歴史を持つ村に行くと、現在でも「本家」「分家」の関係が続き、時に本家争いの話を聞くことがある。しかし、家の出発が「隠居分家」であれば、元の家と分かれた家と、どちらが本家とも言えない。どっちが本家だと争うことは、全く不毛だと思うのだが。

(県史編さん室長 坂本敬司)

県史編さん室の新スタッフ

 平成19年11月15日(木)、茶谷非常勤の後任として、原田非常勤が着任しました。


非常勤 原田 堅吉(はらだ けんきち)

担当:近世古文書史料の解読

 兼ねてより古文書解読ボランティアをしていましたが、このたび憧れていた仕事に携わらせて頂くことになり、光栄に思っております。

 早く周囲に馴染み、仕事に邁進したいと思っています。

活動日誌:2007(平成19)年10月

1日
現代資料調査(智頭町東宇塚、西村)。
6日
県史編さん協力員(古文書解読)月例会(鳥取市、坂本)。
日本民俗学会年会(~7日、京都市、樫村)。
7日
県史編さん協力員(古文書解読)月例会(米子市・倉吉市、坂本)。
11日
石造物調査(大山町、岡村)。
民具資料調査(日吉津村民俗資料館、樫村)。
12日
第2回県史編さん専門部会(原始古代)開催。
14日
出前講座(琴浦町浦安地区公民館、岡村)。
地域民俗調査(~15日、若桜町・智頭町、樫村)。
18日
民具資料調査(日吉津村民俗資料館、樫村)。
20日
出前講座(八頭町市場彩祭館、岡村)。
22日
石造物調査・史料調査(大山町・米子市山陰歴史館、岡村)。
23日
第2回県史編さん専門部会(現代)開催。
25日
民具資料調査(日吉津村、樫村)。
28日
中世城館シンポジウム(米子市福祉保険センター、岡村)。

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編集後記

 11月に入り、初雪が降るなど冬に向かっていますが、編さん室には新たなスタッフを迎え、史料解読、調査などの作業が活発に行なわれています。編さん室では事業の一環として出前講座をはじめ、来月8日にはシンポジウムを開催するなどさまざまな活動を行います。注目して頂き、ぜひご参加ください。

(樫村)

  

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