展示・イベント等

企画展示「歴史を塗り替えた発見」の見どころ紹介1

 現在好評開催中(令和4年6月3日(金)から7月22日(金)まで)の企画展示「埋文センター40年の歴史(2)歴史を塗り替えた発見」の見どころを、担当者の独断と偏見で(?)紹介します。
 本企画展示の展示品は、いずれも「歴史を塗り替えた発見」というにふさわしい出土品ですが、今回紹介するのは、鳥取県での人の活動時期を大幅に塗り替えた、大山山麓の旧石器です。
 平成22年から24年にかけて行われた、大山町の豊成叶林(とよしげかのうばやし)遺跡、下甲退休原第1(しもぎたいきゅうばらだいいち)遺跡、殿河内ウルミ谷(とのかわちうるみだに)遺跡の発掘調査では、それまでほとんど見つかっていなかった旧石器人の活動の痕跡が明らかになりました。これまで隣接県で旧石器時代の遺跡が見つかっていたこともあり、いずれは見つかることが期待されてはいました。しかし、実際に遺跡が見つかり、しかも石器製作の痕跡が復元できるうえに、遺跡が近接していて見つかった地層の比較もでき、石器製作の時期的変遷がたどれるなど、一気に研究が進展することになりました。
 最も古い石器は約35,000年前までさかのぼり、日本列島に人々が往来して間もない頃から、この鳥取にも人が活動していたと聞くと、何かワクワクしてきませんか?
 なお、今週令和4年6月18日(土)は午後1時から5時まで特別開館しておりますので、この機会にぜひ御来館ください。

tosyosigekanoubayasinaihu

豊成叶林遺跡のナイフ形石器(左手前)と、製作の際の破片

(鳥取県保護文化財)


企画展示 「埋文センター40年の歴史(2) 歴史を塗り替えた発見」始まりました!

 今年は当センターが開所して40年となる節目の年であるのを記念し、企画展示でも40年の歴史を振り返る展示を開催しています。
 第1弾「埋蔵文化財センターの40年のあゆみ」では、40年間の当センターの歴史を振り返るとともに、平成12(2000)年頃までを中心に、当センターが関わった発見・発掘調査の出土品について紹介しました。第2弾「歴史を塗り替えた発見」では、おおむね平成12(2000)年以降の、大規模開発に伴う発掘調査などにおける重要な発見を振り返ります。
 山陰道(鳥取西道路、東伯中山道路、名和中山道路、名和淀江道路など)の建設に伴う発掘調査では、数多くの遺跡の発掘調査が行われ、新たな発見がメディアを賑わせました。今回の企画展示では、その中でも特に注目された出土品や、鳥取県や山陰、ひいては日本の歴史上重要な発見などにスポットを当てています。鳥取県最古の旧石器(下甲退休原第1遺跡)、全国2例目の「女子群像」板絵(鳥取市青谷横木遺跡※復元品、レプリカ)などは、まさに「歴史を塗り替えた発見」と言っても過言ではありません。

 会期は令和4年7月22日(金)までです。開館時間は平日午前9時から午後5時までですが、6月18日(土)、7月2日(土)、16日(土)は午後1時から5時まで特別開館していますので、御利用ください。また、7月16日(土)には企画展に関連した、鳥取まいぶん講座「埋文センター40年の歴史(2)」を開催しますので、こちらもどうぞ御参加ください。

iriguti

企画展示案内

tennzihuukei

展示風景


企画展示 「埋文センター40年の歴史(1) 埋蔵文化財センターの40年のあゆみ」始まりました!

 令和4年度が始まりました。今年度も鳥取県埋蔵文化財センターでは様々なイベントや展示を開催しますので、どうぞ御期待ください。
 さて、今年は当センターが昭和57(1982)年に開館して40年となる節目の年です。それを記念し、企画展示でも40年の歴史を振り返る展示を企画しました。第1弾「埋文センター40年の歴史 埋蔵文化財センターの40年のあゆみ」では、40年間の当センターの歴史を振り返ります。
 展示では、当センターの開館から40年間の、調査研究・公開活用・発掘調査等の歴史を振り返ります。また、おおむね平成12(2000)年頃までを中心に、当センターが関わった発見・発掘調査の出土品について紹介します。今回は、米子城跡6遺跡(米子市)、長瀬高浜遺跡(湯梨浜町)、岡益廃寺跡(鳥取市国府町)、吉定1号墳(伯耆町)を取り上げ、紹介しています。
 人間でいえば「不惑」を迎えた鳥取県埋蔵文化財センター。これまでの活動や鳥取県の歴史研究に果たした大きな役割を知っていただければと思います。
 会期は、令和4年5月27日(金)までで、開館時間は平日午前9時から午後5時までですが、4月16日(土)、5月7日(土)、21日(土)は午後1時から5時まで特別開館していますので、どうぞ御利用ください。また、5月21日(土)には企画展に関連した、鳥取まいぶん講座「埋文センター40年の歴史」を行いますので、こちらもどうぞ御参加ください。
 なお、令和4年6月3日(金)からの第2弾「歴史を塗り替えた発見」では、近年の大規模開発に伴う発掘調査や、最近の調査研究事業における重要な発見などについて紹介しますので、どうぞお楽しみに。

photo040414-1

企画展示案内

photo040414-2

展示風景


桜のまいぶん!

 桜がいよいよ本番という季節に花冷えの今日この頃ですが、鳥取県埋蔵文化財センターでは桜が満開となり、今が見ごろとなっています。
 今週の天気予報ではお天気に恵まれるようです。
 近くにお越しになりましたら、春の息吹を感じに鳥取県埋蔵文化財センターに出かけてみませんか?
 本物の出土品を展示している常設展、そして、令和4年4月12日(火)から企画展「埋文センター40年の歴史(1)」も開催です。 どうぞお楽しみにしてください!

photo040404-

満開の鳥取県埋蔵文化財センター

photo040404-2 photo040404-3

満開もあれば出番を待つ桜

photo040404-4

桜と空の絶妙な色合いです。

[令和4年4月掲載]


「本高・古海古墳群ウオーク」を開催しました!

 令和4年3月21日(月・祝)に、「本高・古海(もとだか・ふるみ)古墳群ウオーク」を開催しました!今回は事前にお申し込みいただいた14名の方が参加され、山陰最古級の前方後円墳である本高14号墳と、現在は鳥取西道路となっている本高弓ノ木(もとだかゆみのき)遺跡の現地を歩いて巡りました。
 鳥取西道路の建設に伴い平成21年に発見され、墳丘が保存された本高14号墳は、普段は立ち入ることはできないのですが、今回は国土交通省鳥取自動車道出張所の協力を得て古墳まで上がることができました。
 朝のうちは雨が降り肌寒かったのですが、ウオークを開始する頃には日が差しはじめ、比較的歩きやすい天気となりました。この古墳の特徴でもある細長い前方部を通って後円部頂まで上がると、前方部の先に千代川(せんだいがわ)や鳥取平野、さらに遠くには扇ノ山(おうぎのせん)の山並みまで望め、非常に眺望に優れた立地に古墳が築造されていることが実感できます。後円部では、古墳の概要や出土品、周辺の丘陵の古墳等について解説しました。その後、古墳から下りて、古墳とほぼ同時期の木製構造物や最古の土のう積みが見つかった本高弓ノ木遺跡まで鳥取西道路沿いに歩き、現地ではパネルを用いながら発見された構造物や古墳との関係について解説しました。
 参加された方々からは、「普段入れない古墳に行けてよかった」「詳しい説明でよく分かった」等の感想をいただきました。また、地元から参加された方からは「14号墳をよく残してくれた。地域にとって宝。」「こういうイベントをもっと開催してほしい。」という御意見もいただきました。
 鳥取県内には13,500基を超える古墳が存在しており、今後もこうした古墳を解説するウオークを開催していきたいと思っていますので、お楽しみに。

photo040328-1

本高14号墳の前方部から後円部へ登る

photo040328-2

本高14号墳後円部での解説

photo040328-33

本高弓ノ木遺跡から見る本高14号墳


ミニシンポジウム「戦国狗尸那(くしな)城を探る」の質問への回答について(その3)

 令和4年2月27日(日)に開催したミニシンポジウム『戦国狗尸那(くしな)城を探る』への質問回答の第3弾です。前回の質問3の追加質問として、関ヶ原の戦い以前の本城と支城の関係についての質問を中井先生に回答していただきました。

(追加質問)城の性格について

 関ヶ原以前の狗尸那城は鹿野城に対する支城であったという考えができるのではないか?
(中井先生からの回答)
 前回は関ヶ原合戦以後の話をしましたが、関ケ原合戦以前となるとお話しはまったく異なります。この場合鹿野城の支城と考えるには、鹿野城がどこかということから考える必要があります。つまり現在の鹿野城が天正期の鹿野城であったかどうかは不明です。よって狗尸那城が支城である可能性は不明と言わざるを得ません。さらに現在の鹿野城からは戦国時代にさかのぼる遺物が出土していないので、戦国時代の鹿野城である可能性は低く、狗尸那城がその支城であったということは考えられません。
 ミニシンポジウムでお話ししたように、狗尸那城からは戦国時代の遺物が出土しており、支城というよりもむしろ狗尸那城が鹿野城であった可能性が高いといえます。

photo040326-2

鷲峯山(じゅうぼうざん)と狗尸那城

[令和4年3月26日掲載]


ミニシンポジウム『戦国狗尸那(くしな)城を探る』の質問への回答(その2)

 令和4年2月27日(日)に開催したミニシンポジウム『戦国狗尸那(くしな)城を探る』への質問回答の第2弾です。最後は、講演いただいた中井先生への、城の性格についての質問です。

(質問3)城の性格について

 中井先生に質問です。中井先生は御著書の中で、関ヶ原の戦い(1600年)以降、移封された大名が新たな居城を築くだけでなく、支城を築いた例を明らかにされています。関ヶ原以後も、亀井氏は西の毛利・吉川への警戒感が強かったと思われ、亀井統治時代の狗尸那城も、直線距離で約2.4km離れた本城の鹿野城(しかのじょう)に対する支城であったという考えができるのではないかと思いますが、いかがでしょうか?
(中井先生からの回答)
 関ケ原の戦い後の本支城体制ですが、基本的には国持大名に限られるようです。鳥取では伯耆の中村一氏が米子城を本城とし、尾高城、八橋城、江美城を支城としたようです。さらにこうした支城はすべて石垣造りとなり、狗尸那城の構造は関ケ原後のものとは考えられません。したがいまして鹿野城の支城とは考えられないと思います。

 2回に分けてお届けしました質問と回答ですが、いかがだったでしょうか。本シンポジウムを通して、ますます狗尸那城の重要性が明らかになったと思います。狗尸那城の発掘調査に関する詳しい内容は、今月末に刊行する発掘調査報告書に書かれています。専門的な内容ですが、興味のある方は、どうぞご覧ください。

 報告書が刊行できましたら、別途ホームページでお知らせします。

photokusina

狗尸那城上空より日本海側を望む(左下隅が狗尸那城)

photosikano

鹿野城

[令和4年3月19日掲載]


ミニシンポジウム『戦国狗尸那(くしな)城を探る』の質問への回答(その1)

 令和4年2月27日(日)に開催したミニシンポジウム『戦国狗尸那(くしな)城を探る』では、シンポジウム終了後にメールで質問を受け付けた所、多くの方からご質問やご意見をいただきました。その内の幾つかの質問に対して2回に分けてお答えします。  1回目は、城の構造と、城の年代についてのご質問にお答えします。

(質問1)城の構造について

 (1)発表の中でお話のあった山麓の居館について、「古仏谷(こぶつだに)から登った所にあったのでは?」とお聞きしましたが、どうでしょうか?また調査予定はありますか?

 (2)狗尸那城の縄張りから見て、西側が大手方向(正面)で、現在の林道から取り付く進入路は搦手(からめて)方向(裏側)だと思いますが、どうでしょうか?

(回答)

 (1)狗尸那城跡の北麓に位置する「古仏谷」にはかつて水田や畑として利用された階段状の地形があり、そのうちのどこかが居館となっていた可能性を考えることができます。中には広い平坦面もあるようですが、現地は原野となっており、確認ができていません。今後の調査については未定です。

 (2)城跡の西側から北側にかけて、山腹に竪堀や曲輪(くるわ)が集中していることから、敵を迎え撃つ方向が意識され、いわゆる大手(正面)と考えられます。
また、ご指摘の林道から取りつく進入路は、狗尸那城跡の背後に設けられた堀切から後ろに伸びる尾根筋の道にあたります。背後からの通路となるので、いわゆる搦手にあたると考えています。

(質問2)城の年代について

 (1)縄張りから相対的な年代観を位置付けることがどの程度可能なのでしょうか?できるとすれば、狗尸那城の年代はいつ頃と考えられますか?
 (2)出土した土師質(はじしつ)土器は、天神山城(てんじんやまじょう)(鳥取市)出土の土師質土器と比較すると、差異があるようで、時期差を見い出すことは可能でしょうか?
※土師質土器とは、釉薬(うわぐすり)をかけない素焼きの土器のことです。

(回答)

 (1)残念ながら、縄張りから相対的な年代を位置付けることは、難しいです。竪堀(たてぼり)を何本も並べた畝状空堀群(うねじょうからぼりぐん)や、山腹を横切るように設ける横堀といった特徴的な防御施設と城跡の廃絶年代の記録を組み合わせることによって、ある程度年代を考えることができるかもしれませんが、まだ見通しを得ていません。
狗尸那城跡は、山腹に設けられた竪堀を伴う大きな横堀が特徴です。鳥取県中部の河口城(かわぐちじょう)(湯梨浜町)は、主郭背後の堀切を山腹にそってぐるりと回すもので、同じような構造を持つ山城と位置付けられるかもしれませんが、はっきりとわからないのが実態です。河口城は天正9年(1581)に織田方の松井水軍に攻略された「泊城」といわれています。今後、縄張りから狗尸那城跡の年代を考える手掛かりになるかもしれません。
 (2)ご指摘のとおり、天神山城跡出土の土師質土器皿と、狗尸那城跡出土の土師質土器皿には形態的にも手法的にも違いがあります。天神山城跡から出土した土師質土器皿は、ほとんどが手づくね成形によって作られたいわゆる「京都系土師器皿」と呼ばれるもので、先行研究から16世紀代のものと考えられます。一方の狗尸那城跡出土の土師質土器皿は回転台を使って作ったもので、形や成形手法が異なっています。
狗尸那城跡から出土した陶磁器類のほとんどが、15世紀後半から16世紀前半のものなので、天神山城跡出土の土師質土器皿より古いと考えられ、現在はこの差を時期差ととらえています。

狗尸城跡の曲輪(くるわ)や堀などを地形図上に示した図です。縄張り図といいます。

狗尸那城縄張図

河口城後の曲輪(くるわ)や堀などを地形図上に表した図です。縄張り図と言います。これは、『新鳥取県史(資料編)考古3』という2018年に出版されている本に掲載されている図を転載したものです。

河口城縄張図
(『新鳥取県史(資料編)考古3』(2018)より転載)

狗尸城跡と天神山城跡で出土した小型の皿の写真です。左側は狗尸城跡で出土した皿で、上半部が大きく欠けています。右側は天神山城跡で出土した皿で、ほぼ完全な形に復元しています。口径はほぼ同じで、いずれも薄い橙色をしています。

土師質土器(左:狗尸那城出土 右:天神山城出土)

[令和4年3月14日掲載]


ミニシンポジウム『戦国狗尸那(くしな)城を探る』を開催しました

 令和4年2月27日(日)の午後、ミニシンポジウム『戦国狗尸那(くしな)城を探る』を開催しました。当センターでは初めてのオンラインのみによる開催で、事前のリハーサルでトラブルがあったこともあり、心配に事欠かない中での開催でした。
 実際に開催すると大きなトラブルはなく、約40名の方に視聴していただきました。当センター職員による狗尸那城の発掘調査成果の発表、滋賀県立大学名誉教授の中井均先生による、最新の全国の山城研究についての御講演、そして2人によるトークセッションと、内容は盛りだくさんでした。特に最後のトークセッションでは、狗尸那城の成果について、中井先生から、「日本の城郭史を問い直す成果」というコメントをいただき、嬉しさと共に、調査者として大変身が引き締まる思いがしました。
 今回は、コロナ禍のため、オンラインのみのミニシンポジウムとなり、会場での御参加を御希望されていた方々には大変申し訳ありませんでした。今春には専門的な調査報告書を刊行し、それを基に、より多くの一般の方にも分かりやすい情報発信をしていこうと考えています。

 今後とも当センターの「中世城館再調査事業」にご期待下さい。

講師がパソコンの画面に向かって講演している様子です。関連機器や参考資料も写っています。

写真1 画面に向かって講演中

トークセッションの時の画面です。中央に大きく資料が映し出されており、講師等の2名はその上に小さく映し出されています。

写真2 トークセッション中の画面


企画展示 「因幡の古墳」始まりました!

 令和3年度を締めくくる、企画展示「因幡の古墳 -方墳から前方後円墳へ-」が始まりました。今回の展示は、山陰最古級の前方後円墳「本高14号墳」が築造される前期前半の鳥取平野の古墳とその出土資料を紹介しています。
 古墳時代前期前半期の山陰では、弥生時代の四隅突出型墳丘墓の系譜を引く方墳が築かれており、地域の伝統的な葬制を引き継いでいました。一方、中国鏡や鉄製品など副葬品の種類・数量は飛躍的に増えており、すでに近畿地方を中心に造られていた前方後円墳に関する情報も入ってきていたと考えられます。
 こうした古墳時代開始期の鳥取平野の状況を改めて確認したうえで、前方後円墳である本高14号墳が登場する意義を探ります。
会期は、令和4年3月31日(木)までです。開館時間は平日午前9時から午後5時までですが、3月4日、19日(土)は午後特別開館(午後1時から5時)、その前日金曜日(3日、18日)は午後7時まで開館延長していますので、どうぞ御利用ください。

photo040228

photo040228-2

刊行物の御購入


センター紹介

 久松山地域は戦国時代以降鳥取城が築かれ、鳥取藩32万石の中心地でした。現在でもこの地域は県庁があり、行政の中心地となっています。

 しかし、戦国時代から遡ること約800年前の奈良時代、県庁から4キロほど離れたこの国府町に国史跡因幡国庁(現在の県庁にあたるもの)がありました。今ではひっそりとした田園地帯ですが、因幡三山(甑山(こしきやま)、今木山(いまきやま)、面影山(おもかげやま))に囲まれ、当時の面影を残す万葉の歴史と古代の出土品にあふれた万葉の里となっています。
 この歴史豊かな万葉の里の一角に埋蔵文化財センターはあります。


埋蔵文化財センターについて


目的から探す


関係先へのリンク

  

Copyright(C) 2006~ 鳥取県(Tottori Prefectural Government) All Rights Reserved. 法人番号 7000020310000