調査・研究(東伯耆の中世城館)

1月7日からは企画展「因幡の中世城館」を展示します!

 新春、令和4年1月7日(金)から、企画展「因幡の中世城館」が始まります。

このたびの展示は、令和3年に発掘調査を行った狗尸那(くしな)城跡(鳥取市鹿野町)の発掘調査成果と、因幡守護山名氏が守護所を置いた天神山城跡(鳥取市)の資料を展示します。
 狗尸那城跡では、曲輪(くるわ:兵士たちが駐屯した平坦面)と曲輪の間に築かれた切岸(きりぎし:敵の侵入を防ぐため人工的に削った急な崖)を中心に発掘調査を行いました。その結果、主郭(しゅかく:頂上部に設けられた中心的な曲輪)と曲輪2の間に設けられた切岸で山石を積み上げた石積み跡を確認しました。昨年度に行った発掘調査では、主郭で大型の礎石建物跡を確認しており、今回見つかった石積みは礎石建物と関連するものと考えられます。
 天神山城跡では、昭和47(1972)年、昭和63(1988)年に、県立鳥取農業高等学校(現緑風高等学校)の建設、改築に伴って発掘調査が行われました。これらの調査で、手づくね(ろくろを使わない)で成形した京都系土師器皿や中国などからもたらされた貿易陶磁などが豊富に出土しており、今回は当時の調査成果の一部を展示します。
 会期は1月7日(金)から2月18日(金)です。ぜひご覧ください。

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狗尸那城跡:切岸石積み調査状況(2021)

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天神山遺跡調査状況(1972)


「狗尸那城跡」現地説明会を開催しました!

 令和3年11月27日(土)、「狗尸那(くしな)城跡」現地説明会を実施し、事前に申込みいただいた34名の方に発掘調査成果を見学いただきました。
 当日は時折雨やアラレが降る寒い中での開催でしたが、曲輪1と曲輪2の間に作られた高さ5mの切岸(きりぎし:人工的に削った急な崖)で確認した石積みを見所として、じっくり見学いただきました。
 石積みは写真の切岸中腹で確認したものですが、もともとはこの切岸の西面と南面の斜面全体に設けられていたと考えています。昨年度、山頂部の主郭(曲輪1)でみつかった礎石建物跡と関連する可能性が考えられます。
 参加者の方から「石積みの石材はどこからもってきたのか」「亀井矩(これのり)との関係はどうなんですか」と素朴な疑問や、鋭い意見をいただきました。石積みの石材は狗尸那城周辺からとれるものです。今回みつかった石積みは、狗尸那城の最終段階の整備と推定されるため、亀井氏との関連性も考えていく必要があります。

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見学の様子


大谷城跡ウォークの開催します!

 令和3年12月5日(日)に大谷(おおたに)城跡ウォーク(倉吉市大谷)を開催いたします。
 大谷城は倉吉市街地の北西に位置する四王寺山(標高172m)に築かれた山城です。城は山頂東側の尾根筋(南北約300m、幅約60m)に築かれ、曲輪が4つ並んでいる構造となっています。一つの曲輪(くるわ:兵士たちが駐屯する平坦地)の大きさは50~100mと大規模な点が特徴です。また、曲輪の周囲に高さ10mを超える切岸(きりぎし:人工的に斜面を削って作った急崖)やL字形の土塁、空堀が連続する区画が設けられているなど、曲輪の大きさだけでなく、見ごたえのある防御施設もこの城跡の魅力の一つです。
 現地は藪におおわれたところも歩きますが、山城の醍醐味を味わえるウォークとなっています。ぜひご参加ください(県内在住者限定)。

こちらをクリックしてください↓

大谷城跡ウォーク(pdf:1396KB)


「飛田砦(ふだとりで)」の現地踏査

 地域協力の一環として、鳥取市鹿野往来交流館「童里夢」さんと一緒に、鳥取市鹿野町河内(こうち)にある「飛田砦」の現地踏査を行いました。「飛田」は地元で「ふだ」と呼ばれています。河内上条集落の裏山に築かれたこの城は、尾根の先端にあり、三方を土塁と空堀によって囲んだ独特な構造が特徴です。
 土塁は高さ2から3m、幅4mほどあり、同規模の土塁をもつ城館は周辺にありません。この独特な構造から天正8から9年にかけて鳥取城を取り囲んだ織田方の陣城の一つではないかと考えられています。
 この「飛田砦」の正面には織田方と毛利方との戦争のなかで、一時期織田から毛利へと転じた地元の鹿野氏が立て籠もった荒神山城があり、この城を強く意識した場所に築かれたことがわかります。
 10月23日(土)には、「童里夢」さんによるウォークイベントが企画されいてます(詳細はこちらhttps://shikano-dream.jp/)。
鹿野町河内を歩き、織田・毛利戦争の陣城に想いをはせてみてはいかがでしょうか。

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西から見た飛田砦

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曲輪内の様子

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飛田砦付近から見た荒神山城(正面右側の山)


雁金山尾根をガイドしました

 令和3年10月3日、「道の駅 清流茶屋かわはら」さんの主催による「山城!トレッキング 其の壱」で現地ガイドを行いました。今回の舞台は以前ご紹介した(以前のURL)丸山から鳥取城のある久松山へ伸びる尾根を縦走する陣城攻めルートです。
 参加された方にとっての一番の難所は、最初の登り口だったかもしれません。道標地蔵わきにわずかに見える登り口から尾根上の散策路にたどり着くまでには、人ひとり通れるくらいの細い尾根道や、ロープを使って急な斜面を登る箇所があり、参加者から「最初から三徳山みたいだ」などと驚きの声が聞こえてきました。
 そこを注意して越えると、陣城が姿を現します。今回の尾根は久松山に向かって徐々に高くなっていくのですが、尾根上の比較的広い高まりが陣城として使われたようです。鳥取市教育委員会さんが作成された縄張り図(中世城館の平面図)を元に、陣城ごとに城跡の特長について説明を行いつつ休憩をとっていただきました。
 緩やかな尾根に築かれた陣城は、臨時に作られた性格を反映しているようで、曲輪という兵士が駐屯する平坦面の造成や、切岸と呼ばれる人工的な急崖といった防御施設には、他の山城にみられるほどしっかりと整えられた印象はありません。
 しかし、そんな陣城ばかりではなく、尾根の真ん中に位置する雁金山城は、しっかりと削り込まれた曲輪や切岸が残る本格的な山城です。
 このコースは尾根上に並ぶ陣城群を一度に楽しめる上に、平和記念塔をはじめ、鳥取市街地への眺望が開ける場所があります。陣城の歴史と共に一味違った風景散策が楽しめた今回のトレッキングに、参加者の方々は大変満足されていました。

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散策の様子(1

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散策の様子(2)(鳥取市街地の風景に見入る皆様)

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鳥取市街地を見渡すパノラマ

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平和記念塔に到着したところ


桝形城現地踏査

 鳥取市河原町八日市集落の南にそびえる桝形城(ますがたじょう)の現地踏査を行いました。
 この桝形城(標高236m)は、『鳥取県中世城館分布調査報告書』に掲載されていない城ですが、遺跡として登録されています。
 このたび、「道の駅かわはら」の方、地元の歴史に詳しい方と一緒に現地踏査を行いました。
 地元に伝わるところによれば山頂に「桝形」の小字が残っているため、枡形城と呼ばれるとのこと。
「桝形」とは「桝のような四角の形」を意味し、この言葉が山城で使われているとすれば、城や曲輪の出入り口を指す「虎口(こぐち)」に四角く区画された空間が設けられているのではないか、と期待を膨らませて山頂を目指しました。
 山道は降雨により滑りやすくなっていましたが、足元を確認しながら、慎重に尾根道を上に登っていきました。昔から使われてきた山道なので、尾根筋に沿って窪んでおり、比較的歩きやすくなっています。
 30分かけてたどり着いた頂上の主郭は約20m四方で、一部に削り残した土塁がみられます。雑木によって見通しはききませんが、北側は木立の間から千代川の両岸に広がる平野部が望めます。
 山城の本体は主郭から北側に延びる尾根で、7段ほど人工的につくられた曲輪が並び、先端近くに堀切が設けられています。それぞれの曲輪は自然の尾根地形を生かしてつくられ、曲輪間の切岸は約4~5mと、それほど高いという印象はありませんが、大きな自然石や岩盤を上手に取り込んで防御施設としています。
 残念ながら今回のルートで「桝形」と呼べるような「虎口」を確認することはできなかったのですが、自然地形を上手に取り込んで作られた山城、本来の姿を確認することができました。

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桝形城遠景

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主郭の状況

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主郭(写真上の平坦面)と切岸

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先端近くの堀切


雁金山周辺の現地踏査を行いました。

 久松山に築かれた鳥取城と、その北方にこんもりとした丸山の周辺は天正9年頃の織田・毛利戦争における鳥取城側の最前線でした。久松山と丸山の間は標高100m前後の尾根が続いており、雁金山城(かりがねやまじょう)をはじめ尾根筋に沿って点々と陣城がつくられていました。
 この陣城の跡やルートの確認をすることが今回の踏査の目的です。また、今回の踏査には地域振興事業の参考にされたいということで、道の駅清流茶屋かわはらの職員の方も一緒に現地を訪ねました。
 丸山交差点脇にひっそりとたたずむ道標地蔵が登り口の目印で、細くて急な山道を登ると、しっかりとした尾根上の道へとつながります。道中には尾根筋の一部が高まって広い平坦な面となる場所がいくつか見られます。中には低い土塁によって囲まれた曲輪や、階段状の曲輪、尾根を切断する堀切もみられ、この尾根筋が鳥取城をめぐる攻防の中にあったことがうかがえます。山頂に主郭、山麓に階段状の曲輪をかまえ、堀切によって遮断する山城とは趣が異なり、長く伸びる尾根上の曲輪の間を尾根道がつないでいる、そんな印象を受けました。
 道中には眺望の開けた場所があり、久松山とはちがう角度から、鳥取市街地を一望できるビュースポットとして、新たな発見がありました。道の駅の方々も「地域の魅力を発信できる素材を体感できてよかった。」と喜ばれていました。

 このように当センターでは地域振興を進める機関にも協力し、"地域興し"を目指しています。

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現地確認の様子

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尾根上からの眺望

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道標地蔵と登り道(写真の赤色の▲印)


狗尸那城跡現地ウォーク

 4月、開催を中止した狗尸那城跡クリーンウォークに替えて、狗尸那城跡現地ウォークを令和3年6月26日に開催しました。
 当日はクリーンウォークにお申込みいただいていた13名の方を、麓の小鷲河地区公民館から狗尸那城へとご案内しました。道中は休憩とりながら、ゆっくりと歩いて登ったのですが、思いのほか傾斜のきつい道が続いたので、参加者の方は大変お疲れの様子でした。
 しかし、城跡に着き、敵の侵入を阻む急な切岸、立派な横堀や竪堀をはじめ、狗尸那城の構造からみえる防御の工夫などをご案内するうち、参加されたみなさんが生き生きと達成感のある表情になり、見ごたえのある城跡にそれぞれ思いをはせていらっしゃるようでした。
 曇天の中、途中小雨に降られることもありましたが、午後4時半過ぎには、みなさんが小鷲河地区公民館に到着し、無事、現地ウォークを終えることができました。
 今回のようなウォークや見学を行う中で、大切な文化遺産、狗尸那城の価値や魅力をお伝えするとともに、遺跡を保護する意識を高めていきたいと考えています。

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狗尸那(くしな)城跡の発掘調査を始めました。

 昨年度、発掘調査によって主郭に大型の礎石建物跡がみつかった狗尸那城跡。6月14日から補足のトレンチ(試掘溝)調査を始めました。
 山頂の城本体では、切岸の状況や、主郭部にある土塁に区画された窪んだ地形の様子を探っています。また、狗尸那城に関連する可能性がある山麓の平坦面にもトレンチを掘って、建物跡などがあるかどうかを確認する予定です。
 調査は6月末までを予定しており、調査後には現地説明会を行い、調査成果を皆さんにお伝えしたいと思います。

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写真1 窪んだ地形を調査中

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写真2  切岸を調査中


なぜ3月1日なのか

 あと一月でいよいよ令和2年度の年度末となり、鳥取県庁も人事異動の季節になりますが、今回の亀井茲矩シリーズは、豊臣秀吉における3月1日の意味について考えてみます。

 

 当センターでは令和2年の狗尸那(クシナ)城の発掘調査に関連して、戦国武将である亀井茲矩の文献調査により、豊臣政権下における茲矩の居所と行動の調査を行いました。

 

 豊臣秀吉は、天正10年6月に織田信長が本能寺の変で倒れたのち、自らが天下統一に向けての動きを加速します。亀井茲矩は豊臣大名の一人として、秀吉の天下統一に向けての諸合戦に動員されています。

 

 天正10年の明智光秀との山崎の合戦、天正11年の柴田勝家との賤ヶ岳合戦では、茲矩は鹿野城守備のため出陣を求められていません。京芸(秀吉と毛利輝元)和睦が成立していないなど、東側での合戦に当たって、西側への備えをする必要があったためだと考えられます。

 

 天正12年の小牧・長久手の合戦、翌13年の紀州攻めなどにも出陣を求められていません。

 どうも別用務があったようです。

 

 そして、総無事全国制覇に向けて天正14年の島津攻め(九州陣)、天正18年の小田原攻め(小田原陣)、文禄元年から朝鮮役(朝鮮陣=文禄の役)がはじまります。ここからは茲矩は出陣してきます。

 

 茲矩の活躍はさて置き、秀吉の居所と行動を、藤井譲治「豊臣秀吉の居所と行動」)でみてみると、朝鮮陣については、「去一日御延引候」とあるように延期になっていますが、秀吉の出陣は九州陣、小田原陣、朝鮮陣いずれも3月1日を出陣日としていました。

 

 秀吉は天正13年、関白政権の樹立と同時に、戦国大名間の領土紛争の豊臣裁判権による平和的解決を掲げて、すべての戦国の戦争を私戦として禁止する政策を「惣無事の儀」とよんで、九州をはじめとして関東・東北から朝鮮にまで及ぼしましたが(『日本大百科全書』)、これとの関連があるのかないのか、なぜ3月1日なのか、その理由はよく分かりません。

 

 なお、慶長2年からの慶長の役に茲矩が出陣したように書かれたものを見かけますが、茲矩は出陣していません。

 

 (この記事は、山室恭子『黄金太閤』を参考にしました。)

 

 詳しくは、3月に刊行予定の因伯の中世城館シリーズ3冊目『鹿野亀井とクシナ城』でご確認下さい。

 

 調査研究に関連したコラムは、不定期ですが、引き続き3月の年度末まで継続いたします。

 

                              (北村順一)

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センター紹介

 久松山地域は戦国時代以降鳥取城が築かれ、鳥取藩32万石の中心地でした。現在でもこの地域は県庁があり、行政の中心地となっています。

 しかし、戦国時代から遡ること約800年前の奈良時代、県庁から4キロほど離れたこの国府町に国史跡因幡国庁(現在の県庁にあたるもの)がありました。今ではひっそりとした田園地帯ですが、因幡三山(甑山(こしきやま)、今木山(いまきやま)、面影山(おもかげやま))に囲まれ、当時の面影を残す万葉の歴史と古代の出土品にあふれた万葉の里となっています。
 この歴史豊かな万葉の里の一角に埋蔵文化財センターはあります。


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