「鳥取県埋蔵文化財センターの名品」の名品紹介

スタンプラリーの抽選結果

 「鳥取県埋蔵文化財センターの名品」展で実施していましたスタンプラリーに数多くのご応募をいただき、ありがとうございました。大変遅くなりましたが、当選された50名の方々が決まりました。差し上げるグッズは、当センターからは、スタンプラリーに使用した古代の印面「吉」と「木」の文字が印刷されたエコバック。鳥取市歴史博物館さんからは、缶バッチとなります。

 当選された方には随時連絡いたしますので、御足労ですが、当センターもしくは鳥取市歴史博物館へお越しいただきますようお願いいたします。またお越しいただいた時には、両施設とも、新たな展示を行っておりますので、そちらも是非ご覧ください。


展覧会「鳥取県埋蔵文化財センターの名品」が終了しました

 令和2年8月1日から、鳥取市歴史博物館と共同開催していました展覧会「鳥取県埋蔵文化財センターの名品」が令和2年9月22日をもって無事に終了しました。コロナ禍の中ではございましたが、延べ2,864名の方に入館いただきました。また、関連講演会にも多数ご参加いただき、誠にありがとうございました。

 さて、展覧会が終われば撤収です。展示準備と同様に、展示品を壊さないように慎重に梱包して運びます。約1日半で全て運び出しましたが、元あった収蔵場所へと戻していく作業がまだ残っています。展示品を元の収蔵場所に戻し終えて、本当の意味での展覧会終了となるのですが、これがまた手のかかる作業となります。

 今回の展示会は、交通の便が良く、広い展示スペースを持っている鳥取市歴史博物館で開催することにより、多くの方に見ていただくことが出来ましたし、当センターとしてはじめて図録作成を行い、またホームページでは14回にわたって展示品の紹介を行いました。

 今回展示した名品たちはまだほんの一部です。今後も外部の博物館等との共催をはじめ、当センター内でも農具や容器といったテーマ毎の展示、さらには動画を使った展示解説などを実施していく予定ですので、お楽しみに。

撤収作業

撤収終了


「鳥取県埋蔵文化財センターの名品」の名品紹介(その14)

下坂本清合遺跡の桶

 下坂本清合(しもさかもとせいごう)遺跡で、今から約800年前(平安時代末~鎌倉時代初めごろ)の曲物(まげもの)の桶(おけ)が、その当時の井戸枠(いどわく)として出土しました。曲物とは、ヒノキやスギなどの薄い板を筒状に丸めて、サクラの皮などでとじ合わせて作られる容器のことです。曲げわっぱの弁当箱はその一つです。

 桶の大きさは直径40cm、高さ30cmで、ヒノキの1枚板を筒状に丸めてとじ合わせ、外側から3枚の板でタガのように締め付けています。内側と外側の板のとじ合わせの位置を反対側にすることで、筒の変形を防いでいます。桶の内面には縦にたくさんの切り目が入っています。これは板を曲げやすくするための加工で、とじ合わせの部分はより曲げやすくするために格子状に切り目が入れてあります。また内面には漆が塗られており、防水を目的にしたものと考えられます。

 この桶は底板がない状態でしたが、片側の口の縁に釘穴が巡っていたことから、筒の内側にはめた底板を外側から釘で留め、水桶として作られたものが、後に底を抜いて井戸枠に使われたことがわかりました。

 曲物製品は水桶をはじめとして様々な用途で使われましたが、室町時代の中ごろ(約600年前)に普及し始めた、板を並べてタガで締める結物(ゆいもの)にとって代わられます。

 


「鳥取県埋蔵文化財センターの名品」の名品紹介(その13)

下坂本清合遺跡の漆器

 漆器(しっき)は、木や竹で作られた器物の表面に漆を塗り重ねたもので、美しい光沢と吸い込まれるような黒色が特徴です。漆器は飛鳥時代(約1300年前)に中国大陸から日本に伝わりました。1本のウルシの木からわずかな量しか採れない貴重な漆を、何層も塗り重ねて作られる漆器は、当時の身分の高い人しか使うことができない高級品でした。

 ところが平安時代の終わり頃(約900年前)になると、漆の代わりに柿渋(かきしぶ)に炭粉を混ぜたもので下地塗りし、その上から漆を12回程度塗って仕上げる渋下地(しぶしたじ)漆器が作られるようになりました。それまでの素材はケヤキでしたが、渋下地漆器はブナ、クリ、トチノキなど多様な樹種が使われました。入手しやすい素材で素地を作り、漆の使用量を減らし、作業工程を簡素にした渋下地漆器の登場以降、漆器椀は安く大量に作られるようになり、下級官人層、やがては一般民衆の間まで日常の食器として広まるようになりました。

 下坂本清合(しもさかもとせいごう)遺跡からは渋下地漆器が100点以上出土しました。黒地に朱漆で草花文様が描かれたものがありますが、この漆絵も渋下地漆器の特徴のひとつです。下坂本清合遺跡の漆器は渋下地漆器の初現期のもので、この時期の1遺跡での出土点数は国内最多です。

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今回ご紹介した物も含め、現在、鳥取市歴史博物館で開催中(無料で観覧いただけます)の「鳥取県埋蔵文化財センターの名品」で展示している遺物を掲載した図録を、当センター及び鳥取市歴史博物館で販売しています。


「鳥取県埋蔵文化財センターの名品」の名品紹介(その12)

発掘調査からみる鳥取県の古代の鉄生産

 日本では砂鉄を原料に鉄を製錬(せいれん)する「たたら製鉄」が行われたことが知られています。中国地方では、花こう岩に含まれる良質な砂鉄を得ることができる中国山地を中心に製鉄が行われ、鳥取県では倉吉市や大山町、南部町で古代から中世の製鉄炉が見つかっています。

 大山から延びる丘陵の斜面にある大山町の下市築地ノ峯東通第2遺跡(しもいちつきじのみねひがしどおりだい2いせき)では平安時代に鉄を製錬した炉(ろ)が見つかりました。炉は内法が長さ2.6m、幅0.45mの長大な箱形だったことが分かり、炉の底には製錬後に残った長大な残留物(炉底塊:ろていかい)が見つかりました。

 一方、大山西麓の伯耆町にある坂長第6遺跡(さかちょうだい6いせき)では、奈良時代の会見郡(あいみぐん)の役所(郡衙:ぐんが)に付属する工房跡が見つかりました。この工房では漆製品や銅製品の生産とともに、鉄素材から製品を作る鍛治作業が行われていました。鍛治工房周辺からは鍛治炉に空気を送るふいごの先端部分(羽口:はぐち)や炉の底にたまった不純物などの塊である椀形鍛治滓(わんがたかじさい)などが大量に見つかりました。

 古代には、鳥取県中西部に当たる伯耆(ほうき)国から都に税として納めた品物の1つに鉄があったことが知られています。工房で加工された鉄は役所で使用するだけでなく、都へ税として納めたのかもしれません。

 鳥取県での盛んなたたら製鉄は、炉の大型化や技術の発展をさせながら、三朝町や日野町、日南町を中心に明治時代まで続きますが、西洋式の製鉄技術が導入されたことなどから大正時代にはその姿を消すことになります。

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下市築地ノ峯第2遺跡出土炉底塊

坂長第6遺跡出土椀形鍛冶滓

坂長第6遺跡出土羽口


「鳥取県埋蔵文化財センターの名品」の名品紹介(その11)

遺跡から見つかる文字

 発掘調査では、見つかった建物や器、道具などの「もの」から昔の様子を調べるのですが、文字が書かれたものが見つかる時があり、遺跡の様子をより詳しく知ることができる場合があります。

 湖山池の南岸にある良田平田(よしだひらた)遺跡では、奈良時代~平安時代の建物跡などが見つかりましたが、その周辺から土器に文字か書かれたものや木に文字を書いた木簡(もっかん)が出土しました。また、実際にこうした木簡や土器に書いた道具として、焼き物の硯(すずり)も出土しています。

 木簡では、鳥取県内で最も古い飛鳥時代の終わり頃(7世紀末~8世紀初頭)に、「孔王部(あなほべ)直万呂」という人物が使者として、「御前」と書かれる高位の人物に対して何かを伝達するために使ったものが見つかりました。これは「前白(ぜんぱく)木簡」と言い、この書式は大宝令(701年制定)の施行以前に多用されたものです。この「御前」、例えば中央から派遣される、後の国司(こくし:現在の県知事)に相当する因幡国全体を治めるような人物と考えられ、良田平田遺跡には、そういった人物とやり取りをする、因幡国全体の中でも重要な施設があった可能性を示しています。

 その重要な施設が何なのか、土器に書かれた文字がヒントになりそうです。文字には「津」や「舩(ふね)」といった湖山池南岸にあったと思われる港に関わるものがあり、さらに近くを通っていたと考えられる古代山陰道との関係をうかがわせる「馬津」と書かれたものがありました。当時の湖山池は海と繋がっており、これらの文字資料からは、他の日本海沿岸地域と船を使った物資のやり取りを行い、さらに馬を使って内陸部と繋げていた施設が、良田平田遺跡にあったことが想定されます。

 古代因幡国には、このような組織立った物流システムが存在しており、それを国レベルで管理していた可能性を示すものとして、重要な資料と言えます。

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良田平田遺跡出土木簡

(県内最古の木簡)

良田平田遺跡出土墨書土器「馬津」

良田平田遺跡出土墨書土器「舩」

良田平田遺跡出土円面硯


「鳥取県埋蔵文化財センターの名品」の名品紹介(その10)

 

謎の「湖山池南岸型」移動式かまど

 ちょっと変わったものとして、高住牛輪谷(たかずみうしわだに)遺跡から出土した古墳時代後期(約1,500年前)の移動式かまどがあります。現代で言えば携帯コンロのようなものでしょうか。通常は、甕(かめ)などを置く掛口(かけぐち)が、上方に1カ所あいていますが、このかまどは、斜め後方にもう1カ所掛口がつくられています。
 追加された掛口は正面からみて左側につけられるものと、右側につけられるものとがあります。またその上縁や内面には突起がつけられており、本体中央の真上にあいている掛口とはつくりが異なります。現代には、ご飯とおかずを同時につくる家電製品がありますが、それと似たようなものなのでしょうか?
 元々鳥取県は、住居に造り付けるかまどがほとんど見つかっておらず、移動式かまどが数多く出土する地域です。それにも関わらず、こうした形の二口かまどは、他県でも県内の他の地域でも発見されておらず、湖山池南岸地域に限り見られることから、今のところ、「湖山池南岸型」移動式かまどと呼ばれています。
 なぜ二口なのか、なぜ追加された掛口が右と左のものがあるのか、なぜ湖山池南岸地域にしか存在しないのか等、謎の多い資料です。

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 今回ご紹介した物も含め、現在、鳥取市歴史博物館で開催中(無料で観覧いただけます)の「鳥取県埋蔵文化財センターの名品」で展示している遺物を掲載した図録を、当センター及び鳥取市歴史博物館で販売しています。高住牛輪谷遺跡で見つかった二口のかまど

高住牛輪谷遺跡で見つかった二口のかまど

大桷遺跡で見つかった一口のかまど

(参考)大桷遺跡で見つかった一口のかまど


「鳥取県埋蔵文化財センターの名品」の名品紹介(その9)

 山陰最古級の前方後円墳−本高(もとだか)14号墳−

 本高14号墳は、鳥取市本高の標高約70mの丘陵上にある全長63mの、上から見ると鍵穴のような形をした前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)です。前方後円墳は、古墳時代がはじまる3世紀中頃から近畿地方で出現し、発達していきますが、山陰地方は方墳と言われる四角い形のものが多い地域です。山陰地方は、弥生時代の終わり頃に、四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)と言われる、四角い墳丘の四隅を突出させたお墓が多く分布していた地域であり、それとの関連も考えられます。

 本高14号墳は、発掘調査の結果、山陰では数少ない前期(約1,700年前)の前方後円墳で、副葬品(ふくそうひん)の年代から、山陰最古級の前方後円墳であることが分かりました。埋葬施設(まいそうしせつ)からは鏡や玉類、土器や鉄器が出土しています。土器の中には、縁をわざと打ち欠き、被葬者の枕にしたものや、底に穴をあけ、お供え用にしたものがあります。

 前方後円墳という外来の要素をいち早く導入した被葬者は一体どのような人物なのでしょうか?当時の古墳文化の中心ともいえる近畿地方の勢力と深い繋がりがあったであろうことが想定できます。また、古墳の麓には、同じく古墳時代前期に大規模な土木事業を行った本高弓ノ木(もとだかゆみのき)遺跡があり、そこで用いられた土のうは国内最古級のものです。このことから、中心地との交流で先進技術を取り入れ、こうした大規模な土木事業を指揮した可能性も考えられます。

 

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本高14号墳出土銅鏡

本高14号墳出土玉類

 

本高14号墳出土鼓形土器(枕に転用)

本高14号墳出土小型丸底壺(穴あき)

本高14号墳全景


「鳥取県埋蔵文化財センターの名品」の名品紹介(その8)

 鳥取県の椅子コレクション

 今回の展示では、青谷横木(あおやよこぎ)遺跡、乙亥正屋敷廻(おつがせやしきまわり)遺跡、常松菅田(つねまつすがた)遺跡から出土した、弥生時代~古墳時代(約1,9001,500年前)にかけての木製椅子4点を展示しています。

 椅子と言っても作り方や形は様々です。一つの木からつくるタイプのものでは、脚のないものと脚や脚同士をつなぐ横木がつくられているものがあります。いずれも座る面には人体にあわせた窪みを施し、滑らかな曲線が認められます。もう一つは指物(さしもの)と呼ばれる椅子で、パーツごとに製作して組み合わせています。いずれも現代の椅子と遜色がないほどの高いデザイン力や製作技術を感じることができます。

 現代では、椅子に座ることは当たり前の感覚ですが、当時、座るのに、わざわざ椅子を用いているのは、ある程度の有力者であったであろうことが、人物埴輪(はにわ)の例からうかがえます。こうした椅子も首長(しゅちょう)と呼ばれるような地域の有力者が座っていたものかもしれません。

また、展示している指物の椅子は、座るには非常にもろい造りで、実際に復元品に座りかけましたが、ギシギシと音をたてて今にも壊れそうでした。この椅子はひょっとすると、祭祀の際に降臨した神様が座るためのものだったかもしれません。

 いずれにしても弥生時代以降に出現する木製の椅子は、どこからもたらされたのか、どのような変遷をたどるのか、まだ分かっていないことが多く、今後の研究が期待されます。

青谷横木遺跡出土椅子1

青谷横木遺跡出土椅子2

乙亥正屋敷廻遺跡出土椅子  

常松菅田遺跡出土椅子(指物)

常松菅田遺跡椅子出土状況


弥生時代最長の鉄刀と鉄剣「鳥取県埋蔵文化財センターの名品」の名品紹介(その7)

 弥生時代になり大陸からもたらされた物の中に、鉄をはじめとした金属器があります。鳥取県でも弥生時代中期に拠点的な集落から鉄器の導入が始まり、後期には各集落に普及します。県内で出土する鉄器は、笠見(かさみ)第3遺跡出土鉄器のように鉄斧、刀子、ヤリガンナ、鎌、鋤先(すきさき)といった日常的に使用する農工具が主体となりますが、中には目を見張るような優品も含まれます。

 東郷池を望む湯梨浜町の宮内(みやうち)第1遺跡では、弥生時代後期の四隅突出型墳丘墓(よすみとしゅつがたふんきゅうぼ)の埋葬施設から鉄剣と鉄刀が出土しています。いずれも弥生時代のものとしては国内最長クラスの優品です。鉄剣は抜身で、平絹(へいけん:平織の絹)で幾重にも包み棺に納められていました。鉄刀は、意図はわかりませんが、素環頭(そかんとう)と呼ばれる柄頭を飾る環状の部分が切り取られていました。この鉄剣と鉄刀は分析の結果、中国前漢時代に開発された製法により、大陸で鍛錬された可能性が高いことが分かっています。鉄器の普及が進んできたとはいえ、誰もが手軽に持つことができない時代、大陸で作られたこのような製品を入手できたのは、被葬者が東郷池とその先に広がる日本海を通じた海上交通の要衝の地を治めていた有力者であったことの証かも知れません。鉄剣と鉄刀は、そのような人物の権威の象徴であったと考えられます。

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鉄剣・鉄刀(宮内第1遺跡)

笠見第3遺跡出土鉄器


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センター紹介

 久松山地域は戦国時代以降鳥取城が築かれ、鳥取藩32万石の中心地でした。現在でもこの地域は県庁があり、行政の中心地となっています。

 しかし、戦国時代から遡ること約800年前の奈良時代、県庁から4キロほど離れたこの国府町に国史跡因幡国庁(現在の県庁にあたるもの)がありました。今ではひっそりとした田園地帯ですが、因幡三山(甑山(こしきやま)、今木山(いまきやま)、面影山(おもかげやま))に囲まれ、当時の面影を残す万葉の歴史と古代の出土品にあふれた万葉の里となっています。
 この歴史豊かな万葉の里の一角に埋蔵文化財センターはあります。


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