調査・研究(東伯耆の中世城館)

東伯耆の謎の城 その4 -由良要害-

 『新鳥取県史』に、「由良之要害去廿八日落去之由」という一次史料が出ています。
 織田・毛利戦争において天正8年、伯耆に進軍してきた吉川元春により、9月28日に由良要害が落城します。しかし、現在の北栄町由良は要害といえるような高い山ではありません。
 西から進軍してきた吉川軍は天正8年8月には要害の北西、津波並(妻波)まで前進していますが、このときに吉川軍は由良を攻略していません。由良要害を攻略することなく、織田方に転じた南条元続のいる東方の羽衣石まで進軍し、長和田・羽衣石岸際で合戦をしていますが、これには多少腑に落ちないところがあり、少し調べてみました。
 妙見山城踏査からの帰途、現地に行って外観だけでしたが城の位置を確認してきました。『鳥取県中世城館分布調査報告書』にあるとおり、標高55m、比高30mのとても要害とは思えないようなものでした。
 シリーズその2「大谷城」でご紹介したように、近世までの由良を含む北条平野は潟湖だったとされています。
 調べてみると、昨年、鳥取県立博物館で行われた岸田裕之先生の講演で紹介された「中世の倉吉平野」という想定図にも由良嶋(現在の大島)の周囲は潟湖となっていました。

中世の倉吉平野(地図

(引用:岸田裕之2019「因伯地域の戦国再末期史-潟湖のある「境目」地域を考える-」『鳥取地域史研究』第21号、鳥取地域史研究会)

 江戸時代のはじめ、寛永年間のものとされる『伯耆国絵図』にも、大島の東側に湖が描かれています。

  くにえず

『伯耆国絵図』(米子市立山陰歴史館所蔵)地図は上が北側(日本海) 赤丸は大島の位置

 また「由良川水系河川整備計画」(平成21年12月鳥取県)にある、昭和62年の台風19号の浸水実績状況図とも驚くほど符合しました。

 もしかすると、由良要害は潟湖にあった海城又は低湿地にあった城で、いずれにしても難攻不落の城だったのかも知れません。

 由良要害の今後の調査にもご期待ください。

 

 

 


東伯耆の謎の城 その3 -妙見山城-

 鳥取県(因幡・伯耆)には畝状竪掘を備えた山城は多くないとされていました。前回ご紹介したように、県中部(東伯耆)では田内城に続いて蛇山城でも畝状竪掘を確認しました。

 しかし、実は『鳥取県中世城館分布調査報告書』(2002,2004年鳥取県教育委員会)の縄張図には記載がないのですが、画像付きのインターネットブログ記事で、畝状竪掘の存在が指摘されている山城があり、気になっていました。

 そこで、蛇山城での畝状竪掘の確認を機に、ずっと気になっていたその城に行ってきました。東伯耆の西側・琴浦町大杉の、大山から北に派生した丘陵先端部に築かれた妙見山城です。

 丘陵の東側の林道から登っていくと古ぼけた鳥居が見え、そこから登って行きました。しばらく登ると東側斜面に幾筋もの竪掘が現れました。

 見事な畝状竪掘です。

(横から見た畝状竪堀の様子)

(上から見た畝状竪堀の様子)

 頂部は横堀でつながっていませんでしたが、頂部を伝って南側に廻ると大堀切があり、大小併せ、3本の堀切が南側の尾根からの侵入を防御しているようです。

(横から見た主郭背後の堀切)

 大堀切から主郭へ登るとそこは広い郭となっており、神社跡がありました。先ほどの大堀切の切岸上部には低い土塁が廻ることを確認しています。

(主郭を北側から見上げた様子 切岸と堀切)

 また、反対側の北東方面を上から覗くと、高く急峻な切岸(人工的な急斜面)となっており、その下にはこれまた立派な堀切が備えられています。この堀切に接する郭の北東端、その先に伸びる細尾根の先端にも大きな堀切があり、北東側への防御施設もしっかりと構築されていました。

 織田・毛利戦争が起こり、秀吉軍の因幡侵攻が進む中、天正7年に毛利方から織田方に転じた羽衣石(うえし)城の南条元続、小鴨元清兄弟らに対応するため、天正8年に山陰方面の計略をになう吉川元春が伯耆に進軍してきます。

 そして、毛利方の伯耆における最重要拠点である八橋(やばせ)城と大山山系の船上(せんじょう)山とを結ぶ伯耆中部の軍事ラインを形成するため、吉川元春は「…八橋・舟ノ上(船上)の間ニ伝城井仕切之城一二ケ所取付、以其上羽衣石可及行儀定候…」と、仕切の城や伝えの城を構築するとしていました。
 このことについて、城に関する論考等を載せた雑誌に、妙見山城が構築された目的として「街道を抑える目的に間違いなかろう」という報告(注1)がなされています。
 大きな曲輪、堀切そして畝状竪堀群という構造からすると戦国時代後期が考えられます。「戦国の因幡武田と鹿野城」でも考察(注2)したとおり、畝状竪堀は毛利方でなくても構築できますが、東向きの畝状竪堀、緊張状態の当事者、軍事力を考えると、毛利方の吉川軍が構築した可能性が高いように思われます。
 なお、「仕切の城」というと、毛利方が天正元年に「因伯仕切の城」として因伯の境目に構築した鹿野城を思い出します。
 天正8年頃の状況は文献上は詳らかでなく、天正12年には南条方が入る妙見山を毛利方が受け取ったとの文献もあるなど、なお検討の必要がありますが、いずれにしても興味が尽きないすばらしい山城です。
 今回は広角カメラで撮影してみました。何本もの長い畝状竪堀の凸凹が少しは伝わるでしょうか。

(注1)『中世城郭研究』第30号(2016年)(150~157ページ)「伯耆妙見山城」木地谷了一氏
(注2)『令和元年度鳥取県中世城館再調査事業の概要』(2020年)(54~55ページ)「狗尸那(クシナ)の整備主体等」鳥取県埋蔵文化財センター


東伯耆の謎の城 その2 -蛇山城(じゃやまじょう)-

 
 蛇山城(じゃやまじょう:標高330m)は鳥取県中部(東伯耆)の倉吉市と湯梨浜町の境にあります。この山城は2002年に鳥取県教育委員会が刊行した『鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)』にはなぜか載っておらず、山城探索家のインターネットブログにも出てきません。まさに「謎の城」です。
 地元研究者が地元住民から聞き取りをされ、自ら探索された情報をお寄せ頂きました。また、当センターで資料を探してみると、書庫の中から地元城郭研究家が踏査し、作図された縄張図が出て来ました。そこで、地元研究者と縄張図の情報をもとに、センターもさっそく出かけて見ました。調査研究はこれからですが、登って見た第一印象を実況風にお伝えします。

 登ってみると、蛇山城からは東郷池が北方向に、羽衣石(うえし)城(標高372メートル)の模擬天守が北東方向に見え、東方向には十万寺がありました。
 最初に目にしたのは南西側の斜面に掘られた竪堀でした。明瞭に確認できる5本の畝状竪堀で、竪堀の頂部が横堀でつながれたタイプでした。昨年度の「まいぶん講座」で、倉吉市田内にある田内城と鳥取市鹿野町鷲峰にある狗尸那城(くしな)城の畝状竪堀の類似性が指摘されましたが、この蛇山城も形態的な類似性が見て取れました。

(畝状竪堀 上から撮影)

(畝状竪堀 横から撮影)
 東西に長くのびた主郭部分の削平はあいまいでしたが、南北両側は急峻な自然地形で防御性の高い地形にあることが分かりました。また、主郭部の北・北東・東側を取り巻くように設けられた帯曲輪や小曲輪がはっきりと確認できたほか、東側で一段下ったところに構築された、登り土塁を逆L字形に配して、横矢がかかりを意図した虎口様の遺構も印象的でした。

(登り土塁:写真の右側)
 江戸時代のはじめ頃に岩国吉川家の家臣・香川正矩が著した軍記物『陰徳記』には、羽衣石城の付城として毛利方が高野宮・松崎とともに築いた城として「城山(じょうやま)城」があげられていますが、この城山城はどこの城をさすのかまだ特定されていません。
 
 蛇山城の立地が、毛利氏に叛旗を翻した南条元続のいる羽衣石城とその兄弟小鴨元清のいる岩倉城(倉吉市街地から南西)とを分断するような位置にあること、羽衣石城や十万寺の城が視認できること、蛇山(じゃやま)城と「じょうやま」に呼び名が似通っていること、そしてこの遺構を思い並べると、いろいろ想像を掻き立てられます。
  謎の解明は、今後の調査研究にご期待ください。

東伯耆の謎の山城 その1 -大谷城- 

 
 「新編倉吉市史」をもとに2004年の「鳥取県中世城館分布調査報告書」に掲載された山城ですが、文献には一切出ていませんでした。
 昨年度から中世城館再調査事業にご協力いただいている地元研究者からの助言があり、さっそく事前調査に出掛けてきました。
 大谷城は、倉吉市の北西、北栄町との境界近くの標高171mの四王寺山にあり、北側に伸びる尾根筋に築かれています。四王寺山の南側には、伯耆国庁跡や伯耆国分寺跡などもあり、四王寺山の展望所からは北西に北条平野が一望できます。なお、北条平野や近世までは潟湖があったといわれています。

 

(四王寺山からの眺望)

 現地は藪化していて歩きにくかったですが、高くて急峻な切岸、土塁、何本もの大きな堀切などの防御施設を配したすぐれた縄張りの山城でした。

(急峻な切岸)

(大規模な堀切の様子)

 

 こうしたすぐれた縄張りの山城がどうして、文献に記録されてこなかったのでしょうか?
A 縄張りがすぐれた大規模な城には入念な造作には技術と経済力を要するので、外部勢力の関与も考慮しておく必要がある。(注(1)(2)(3)(4))
B 縄張りのすぐれた城は、史料が残っていないとの指摘もある。(注(5))
  ということで、この城の構築に地元の関与が考えにくく、構築前後においても在地勢力が関与した城として機能していない、期間限定の陣だったとすると、地元の伝承にも残りにくかったのではないか?
という仮説を立ててみました。
 謎を秘めた大谷城の今後の調査研究にご期待ください。

 

(1) 陣であっても一定期間にわたって使用した場合は一定規模の普請工事を行った。(千田2003)

(2) 城普請には鉄則があって、自己の保全能力を超える規模には手を広げない。これは構造面にも指摘でき、小規模であっても入念な工作には相応の技術と経済力を要する。(高橋1986)

(3) 16世紀後半頃、軍事的側面の卓越した陣城における技術的な進歩、質的な発展がめざましく、必要最小限にシェイプアップした城域でまとまった縄張を実現していく。(村田1987)

(4) 毛利氏などでも共通していたようで、各地の大名で普請体制が整えられていた。城普請は、何も動員された民衆だけが行っていたのではない。大名の軍勢も築城に直接関与した。特に陣城のような場合は、ほとんど軍勢のみで築かれたといっても過言ではないだろう。軍勢が行う普請には在番衆が行う番普請もあった。(竹井2018)

(5) 史料が残っている城は交通の要衝に位置し戦略拠点として長期間使われた城である場合が多く、近世以降も地域における経済の中心となって遺構の失われる確率が高くなる。一方、縄張りのすぐれた城は具体的な任務を効率よく達成するために築かれた純然たる戦闘施設で、この手の城は史料に記載の残る確率が低い。

 前線の都合で頻繁に造られたり捨てられたりする城はそもそも文字として記録に残りにくい。後々まで大切に保存される文書とは第一に権利や財産に関するものだから、領主制支配とも地域経済とも関係のない使い捨ての城はそうした文書には登場しない。武将たちが誰かに戦況を伝えたり、作戦上の指示を与えたりするための書状の中で一言、二言触れられるのが関の山だ。(西股2013)

 

<参考文献>

千田嘉博2003「戦国期城郭の空間構成」『国立歴史民俗博物館研究報告』第108集、国立歴史民俗博物館

高橋正弘1956『因伯の戦国城郭-通史編』

竹井英文2018『戦国の城の一生』吉川弘文館

村田修三1987「城の発達」『図説中世城郭事典第2巻』新人物往来社

西股総生2013『城取りの軍事学』学研パブリッシング

 


令和2年度は東伯耆の織田方の関連城郭、毛利方の関連城郭がテーマ

 戦国時代後期、天正8・9(1580・1581)年の秀吉の因幡侵攻に伴う織田・毛利戦争を文献だけでなく関連城郭から捉え直し、当時の歴史を再評価し、ストーリーを再編成していく試みの第2弾です。
 令和2年度は東伯耆の国人南条元続らの織田方関連城郭と吉川元春らの毛利方関連城郭がテーマです。
 文献(1次史料や2次史料)に取り上げられている城館は一部ありますが、具体的に場所を特定できていない城郭や、文献に取り上げられていない城郭もあります。
 今年度のキックオフとして、今回、地元の研究者のご意見をうかがいながら、調査対象とすべき城郭や検討すべき課題などについて整理しました。
 新型コロナウイルスの感染拡大防止のため普及イベントが実施困難となる中で、密ではない現場でより精力的に踏査を行う予定にしており、現地にご案内できない分は従前にも増して訴求力のある情報発信に努めていきますので、ご期待ください。

研究者との協議風景

[研究者との協議の様子]

 

城館配置図

[縄張り図を入れた城館マップ]

 

 中世城館の調査には文献・伝承調査と現地調査がありますが、現地調査には以下4つの側面があります(村田修三1980「城跡調査と戦国史研究」『日本史研究』211)。
1 地域(城跡の分布、相互関係、勢力配置等の中での位置)
2 地形(占地、麓の集落や道との関係、山容)
3 縄張り
4 狭義の遺構(土塁、空堀等の形状などの地上遺構、発掘調査による埋蔵遺構)
写真の地図は、高低差がわかるマップに、東伯耆(倉吉市、湯梨浜町、三朝町、北栄町、琴浦町)の関連が想定される中世城館の縄張り図(既存)を同じ縮尺に合わせて貼り付けてみたものです。切り貼りマップで、超アナログですが、調査研究を進めていくにあたって事前に検討する上で、とても参考になります。

城館一覧

[東伯耆の主要人物行動表と城館一覧]

 織豊期に生きた主要人物の居所と行動を確定することを目的に、『織豊期主要人物居所集成』という大部の書籍が刊行されています。織田信長、豊臣秀吉をはじめ25名が取り上げられ、当地に関係しそうな人物では、毛利輝元がありますが、吉川元春は取り上げられていません。
分析の手法として、人物の居所と行動を文献等から明らかにしていくことが歴史の解明につながるものと考えられます。今回の調査・研究に当たって、織田方では南条元続、小鴨元清兄弟など、毛利方では、吉川元春・元長、山田重直等の居所と行動等について、天正8・9年を中心に時系別に拾ってみました。
 文献資料やこうした資料を見ながら研究者と意見交換し、調査対象城館をリスト化しました。今後の調査研究にご期待ください。

 なお、3月末刊行の「因幡の中世城館調査概報」も好評発売中です。郵送による書籍販売も行っております。

 詳しくはこちらをご覧ください。 → 新刊書籍のご案内


令和2年度の山城調査を鹿野城から再開しました。

写真(1) 北側から見た妙見山

令和2年度の山城調査を鹿野城から再開しました。

写真(1)中央の妙見山(城山)は近世初頭、亀井玆矩により石垣の城に改修されていることはみなさんご存じのことでしょう。

写真(2)北西から見た妙見山、流山 

写真(3)堀切状の溝

  今がちょうど見ごろの妙見山の桜を横目に、裏にそびえる流山(ながしやま)(写真(2))を踏査してきました。丘陵の北西側に4~5m四方の小さな郭と思われる平坦面が20基ほど尾根筋にそって階段状に連なっているのが見つかりました。これは遺跡地図では曲輪群とだけ記載されていたもので、詳しいことはよくわかっていませんでした。また頂部には大きな堀切状の遺構(写真(3))が残っていることがわかりました。これらは中世戦国期のものと思われます。

引き続き戦国期の鹿野城について、調査を進めますので、ご期待ください。

  なお、3月末に令和元年度の中世城館調査再調査事業の概報、『戦国の因幡武田と鹿野城』を刊行しました。こちらもよろしくお願いします。

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センター紹介

 久松山地域は戦国時代以降鳥取城が築かれ、鳥取藩32万石の中心地でした。現在でもこの地域は県庁があり、行政の中心地となっています。

 しかし、戦国時代から遡ること約800年前の奈良時代、県庁から4キロほど離れたこの国府町に国史跡因幡国庁(現在の県庁にあたるもの)がありました。今ではひっそりとした田園地帯ですが、因幡三山(甑山(こしきやま)、今木山(いまきやま)、面影山(おもかげやま))に囲まれ、当時の面影を残す万葉の歴史と古代の出土品にあふれた万葉の里となっています。
 この歴史豊かな万葉の里の一角に埋蔵文化財センターはあります。


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