令和元年12月企画展

企画展のご案内(その6:今年のビッグニュースは?)

今年のビッグニュースは?

何といっても、鳥取西道路全線開通でした。
当センターも早期開通に向けて最大限の支援をしていましたし、発掘調査で地域史の見直しを迫るような多くの遺物も出土しましたので、感慨もひとしおでした。

さっそく当センターでは、西道路開通記念として、6月から7月にかけて企画展「西いなばの遺跡」を開催し、縄文から弥生、古墳、古代、中世までの西いなばの主な遺跡と歴史を紹介させていただきました。

今回、令和元年ラストの企画展は「西いなばの山城」がテーマですが、前回の企画展をお見逃しの方、再整理されたい方のために、展示室に資料やパネルをご用意しています。

 

「西いなば」の縄文から戦国期までの歴史を概観できる又とない機会ですので、ご案内いたします。

 

なお、年内は28日(土)まで開館しています。


先日お伝えした古城跡絵図のトリビアですが

 文化12年に郡絵図と古城跡絵図の作成を命じ、文政元年に完成させた郡代加藤主馬は、当センターのある国府町に縁があります。

 加藤は地方の田畑の大改革を行い、文政元年には田畑字限画図、田畑地続帳を完成して耕地整理、農政改革に大功を立て、家老格にまで列せられました。
 加藤家が知行地としていたので、国府町吉野に見事な自然石の墓が建てられています。(『国府町誌』より)

 

 

企画展のご案内(その5:どうすれば判り易くなるか?その2)

中世・戦国時代の西いなばは、因伯(因幡国と伯耆国)の境目にあって、出雲尼子対但馬山名、安芸毛利対但馬山名、織田対毛利、それから尼子再興戦などの覇権争いや地元勢力の去就など、山城をめぐる戦いや調略が繰り返されてきました。

オセロゲーム盤だと白黒の2色ですが、西いなばの盤上には親尼子、親山名、親毛利、親織田だけでも4色になります。

それが、天文9年から天正9年までの僅か39年の間に、コロコロ入れ替わる訳ですから、頭の整理が追いつきません。
鳥取城で8回入れ替わっています。(数え間違いしていたらスイマセン)

そこで、縦軸に年次、横軸に東西の位置関係を考慮て主要な山城を配置し、その時点の帰属先を4色で表し、新県史や2次史料でその事由を付記して見ることに。

まだ試作段階ですが、時期ごとに山城・主体相互の関係性がより明らかに分かり易くなるのではないかと考えています。

39年にわたる13の山城の動向を追いかけようとすると、A3版でも文字が小さくなりました。
ご興味のある方は、現在開催中の展示パネルでA1サイズにしていますので、ご来館いただき、ご高覧、ご叱正をお願いします。


企画展のご案内(その4:どうすれば分かり易くなるか?)

どうすれば分かり易くなるか?

全国的に山城が人気です。
縄張り図を載せた一般向け図書も出ています。

その縄張りですが、山城を必要とする緊張状態があって、地形や敵対勢力との関係性、視認性などの要素を考慮した築城プランがあったはずです。

ですから、単体の縄張り図だけをみていても、それぞれの防御施設などの必要性などがよく分かりません。なぜか同じ山城の縄張り図でも方角の記載が異なるものもあります。

また、紙面の関係からでしょうか、縮尺をそれぞれ変えて、紙上では同じ大きさになるように描かれたものが掲載されています。

ですから、睨み合った山城同士の大きさが実際どうだったかもよく分かりません。

現在、当センターで開催中のパネル展示では、西いなば地域で敵対していたそれぞれの山城を同じ縮尺で、地形図に落とした縄張り図を試作してみました。

どうしても大きな図面に載せる必要がありますので、ご興味のある方は、ぜひご来館ください。

企画展のご案内(その3:古城図の謎?)

古城図の謎?

因伯にある山城を紹介するときに、因伯古城跡図志の古城図が使われたりします。
現在、当センターで開催中のパネル展示でも県立博物館の許可をもらって展示しています。

これは江戸時代の文政元年に鳥取藩が作成したものですが、何のために作成したのでしょうか?
攘夷のための拠点として古城を再利用する可能性があったらしい、と仄聞しました。

家老日記では詳しいことはわからず、郡代の指示で作成したとあったので、在方諸事控を調べてみることに。

 

農村や民生を管轄する在御用場の記録で、洪水、出火、死人、庄屋の任免などの記事が多く、正に諸事の中から古城のことを拾い出すのにはひと苦労でしたが、その中から見えてきたことをご紹介します。

ご興味のある方は、センターのパネル解説をご覧ください。

 
  

企画展のご案内(その2:鹿野城って?)

鹿野城って?

鹿野城が史料に出てくるのは天文13年(1544)からですが、鹿野城はずっと今のところにあったのでしょうか?
鹿野城って鹿野にあるから鹿野城?
では現在の鹿野はいつから鹿野と呼ばれていたの?

城の名前や所在地、近世の村切りなどからこうした疑問に迫ります。
詳しくは、現在センターで開催中のパネル展示でお確かめください。
  

企画展・まいぶん講座のご案内

 本年最後の企画展を12月6日からはじめました。

 中世城館の研究は近世の地誌からはじまったといわれています。
 当地でも「因幡志」をはじめ「因伯古城図跡志」にその姿が記されています。

 

 現在の中世城館調査は、文献や絵図、地籍図の調査、縄張り調査、発掘調査など多様な方法により各分野で行われています。
 当県埋蔵文化財関係では、平成10年度から15年度まで、県内中世城館について悉皆的な分布調査が行われて、概要や縄張図が報告書としてまとめられました。
 しかし、確認調査が不十分なところがあり、価値付けなどもこれまで十分に行われていなかったことなどから、本年度から少しづつですがテーマを設定して中世城館調査を再開しています。

 

 県内では中世城館に関する発掘調査の事例は少なく、現地踏査による縄張り調査が中心になりますが、他県の発掘調査成果を参考にしたり、内外の研究者、文献や絵図等の専門家から助言をいただきながら、枠にとらわれず学際的に、大胆かつ積極的に進めていきたいと考えています。また、調査対象とした中世城館については、なるべく皆さんを現地に案内するようにしています。

 

 今回の展示では、西いなばの中世城館のうち、気多郡に限られますが、縄張り図と鳥瞰図を中心に見ていただきます。
 注目は村絵図を2点展示していることで、原寸大の絵図で当時の景観に迫ってもらいたいと思っています。
 また、荒神山城跡から出土した備前焼の徳利もガラス越しですが目近にご覧いただけます。

 なお、これら中世城館が置かれた背景や位置付け、関係性などについては、次回のまいぶん講座で皆さんと一緒に考えていきたいと思います。

 (母来村の絵図)

(荒神山城跡から出土した備前焼の徳利)

  

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センター紹介

 久松山地域は戦国時代以降鳥取城が築かれ、鳥取藩32万石の中心地でした。現在でもこの地域は県庁があり、行政の中心地となっています。

 しかし、戦国時代から遡ること約800年前の奈良時代、県庁から4キロほど離れたこの国府町に国史跡因幡国庁(現在の県庁にあたるもの)がありました。今ではひっそりとした田園地帯ですが、因幡三山(甑山(こしきやま)、今木山(いまきやま)、面影山(おもかげやま))に囲まれ、当時の面影を残す万葉の歴史と古代の出土品にあふれた万葉の里となっています。
 この歴史豊かな万葉の里の一角に埋蔵文化財センターはあります。


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