防災・危機管理情報

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満州移民を後押ししたもの

はじめに

 鳥取県の満蒙開拓について、これまで、県内の体験者の証言や移住地での聞き取り調査の模様を紹介してきました。今回はそうしたオーラルヒストリーの試みから離れ、文献資料に移民送出の論理を探ってみたいと思います。

「区画狭小」・「耕地尠少」

 本県は区画狭小で且耕地は尠少でありしかも人口は飽和点に達してゐるため農村経済立直しの上からもまた県振興のためにも満洲農業移民は最も急務である(昭和12年3月2日付鳥取新報「満州農業移民第七次応募者は皆無第六次先遣隊は辛うじて十九名県民進取の気性乏し」)

 第7次満蒙開拓団(昭和12年)の団員募集に関する記事は、移民の必要性についてこのように述べました。「農村経済立直し」という経済的利益優先の発想は、本県のみならず移民政策全体を貫いていましたが、とりわけ「区画狭小」「耕地尠少」という不利な条件を抱えている鳥取県は、満州移民が急務だと訴えたのです。

 こうした論理は、県の移民政策の基本的立場を反映したもので、昭和15年、県は『鳥取県公報』上に「満州移民と本県」という文章を発表します。

 本県に於ては普通農耕不適地と目せられる山峡、或は山上まで開墾され尽くした所が多いにも拘わらず、農家一戸当たりの耕地は、全国平均の一町一反に較べて更に少なく、水田五反八畝、畑三段、計八段八畝に過ぎない。(略)本県は一年の約半ばが雨雪の日であって戸外労働収入の恃むに足らぬことは、雇用賃金が暴騰している現在でも、数日雨雪が続けば労務者の家庭では飯米にも事を欠く状況を屢々見る。(略)本県に於ては工業資源も至って乏しく、商業の発展も四囲の環境により期待できぬため県民の出稼ぎは寧ろ当然の帰結と云わねばならぬ。 (「満洲移住と本県」『鳥取県公報』昭和15年5月31日第1135号)

 耕地の狭小だけでなく、気象条件の悪さや工業資源の乏しさなど、ありとあらゆる地理的要因を上げ、県発展の途はますます閉ざされるとし、そして、不振打開の唯一の出口が満州移民であると説かれるのです。

 本県の如き一戸当たりの耕地反別平均僅か八反八畝と云うような狭小な土地に執着せず此の時こそ曠野、沃野の涯(はて)なき満洲の土地で思う存分鍬を振い、或いは其の他の仕事に従事して家的見地から、又一身一家子孫の生活安定の見地から洵(まこと)に意義あると云うべきである。(同上)

 こうした考えは満蒙開拓青少年義勇軍への参加を促した教育者のあいだでも共有されていました。昭和14年に満洲視察を行った鳥取県教育会は、『因伯教育』上に復命書を発表し、「農村の耕地不足の問題を抜本塞源的に解決」するために進んで移住すべきと唱えました。さらに、

 北満の一大穀倉地帯を鮮満農民の手や一部資本家の手にゆだねたり、或は亦同じ日本の農民の開拓団と雖も他府県開拓団にまかせ切って本県農民が傍観して居たとせば、英霊に何と答へんや (「満洲視察団復命書」『因伯教育』昭和15年1月、第545号)

と、郷土部隊が命をかけて獲得した土地を、他県出身者にさえも奪われてはならないと述べ、県民の満蒙開拓への意欲を煽ったのです。

「県民性」の恣意的な評価

 冒頭の新聞記事は、本県の不利な農耕条件にもかかわらず満州移民という大事業に参加しようとしないのは、「進取の気象(性)乏しき」県民性にあると批判しました。しかし、その後の活発な送出活動によって、本県の満州移民は増加します。特に16歳~19歳の男子で構成された満蒙開拓青少年義勇軍は、人口割合で全国一位の送出率を達成。昭和19年鳥取県満州開拓協会の設立総会では、県民性の評価が次のように変わっています。

 翻て本県の状勢を観るに大陸とは一葦(衣)帯水の地位に在るのみならず純朴にして忍苦に富む県民性が克(よ)く開拓農耕の事に適するは既に幾多先駆者の示す処 (「昭和19年11月鳥取県満洲開拓協会の運営に就て」高山一三鳥取県経済部長、八東村役場文書、県立公文書館蔵)

 かつて、移民への参加が少ないことの元凶とされた「進取に乏しい」県民性は、ここに至ってむしろ開拓に適する「純朴」な資質とみなされるに至るのです。

おわりに

 耕地・資源の乏しさと人口増加は、戦前の日本全体について言えることで、鳥取県の地理的条件もその縮図としてもちだされたに過ぎません。全国と比べた平均耕地保有率というデータや、県民性という曖昧なイメージが声高に語られ、一大国策と鳥取県全体の利益が合致して満蒙開拓が強力に押し進められたのではないでしょうか。

 来年度刊行予定のブックレットでは、こうした視点もふまえながら移民政策の実態を掘り下げていきたいと思います。なお、公文書館ホームページ、県史編さん室のデータ集で、今回参照した『鳥取県公報』の満蒙開拓関係記事目録と、『因伯教育』の満蒙開拓関係記事目録を公開しています。ぜひご覧ください。

(西村芳将)

室長コラム(その27):鳥取と江戸を往復する飛脚

 現在であれば、鳥取と東京の間は飛行機や新幹線で日帰りの出張も可能だが、江戸時代には、そういうわけにはいかなかった。藩主が移動する参勤交代では、鳥取から江戸まで約720キロの行程を、おおむね20日間程度で移動している。鳥取からの最初の宿泊地は智頭(八頭郡智頭町)であるから、県内の地理がわかる方なら、1日にかなりの距離を歩かなければならなかったことが実感として理解できよう。

 1日平均36キロを歩くだけでも大変だが、鳥取と江戸を往復するのが仕事の飛脚は、さらに短時間で移動した。鳥取藩では、「早道(はやみち)」と呼ばれる下級武士が、飛脚の役割を果たしたが、彼らは鳥取-江戸間を通常8日、最も緊急な場合は、6日間で移動した。

 ちなみに、鳥取藩の早道は、江戸時代中期以降15人か16人が定員で、江戸と鳥取の間には、毎月3度定期的に往復しており、これを「月次(つきなみ)飛脚」といった。また、急用で臨時便を出すこともあったが、これを「不時飛脚」といった。

 ボランティアの方々と解読を進めている鳥取藩家老日記の中に、飛脚に関する興味深い記述があった。1841(天保12)年4月、江戸にいた9代藩主池田斉訓(なりみち)が病に倒れ、5月16日に22歳の若さで亡くなった。男子がなく、正式な跡継ぎの決まっていなかった鳥取藩にとっては、藩の存亡に関わる一大事である。江戸の藩邸では、5月14日に病状が悪化したことを伝える不時飛脚を鳥取へ送り、16日午前、いよいよ危篤状態に陥ったことを伝える2度目の不時飛脚を出発させた。その日のうちに斉訓は死去し、それを伝える手紙を、翌17日朝、3度目の不時飛脚に托した。

 ところが、この時期は大雨が降ったようで、大井川等が川止めになり、3つの飛脚とも予定より大幅に到着が遅れ、鳥取に着いたのは、いずれも斉訓の死から10日がたった26日の朝だった。藩主の死という重大な情報を、鳥取の家老たちは通常より2、3日遅く、また、心の準備をする間もなく知ったわけだ。その後家老たちは、後継藩主の人選や相続手続きに大至急当たらなければならなくなるわけだが、それについては、また改めて書くこととしよう。

(県史編さん室長 坂本敬司)

活動日誌:2008(平成20)年12月

2日
資料調査(鳥取市史編さん室、大川)。
3日
民俗調査(鳥取市・智頭町、樫村)。
4日
民具調査(鳥取市佐治歴史民俗資料館、樫村)。
5日
中世史料調査(八頭町・智頭町、岡村)。
民俗調査(鳥取市湖山町、樫村)。
6日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、坂本)。
日本民具学会第33回大会・視察調査(~9日、お茶の水女子大学・栃木県足利市、樫村)。
7日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、坂本)。
11日
民具調査(鳥取市佐治歴史民俗資料館、樫村)。
12日
満蒙開拓団関係資料調査(~13日、社団法人中国研究所(東京都)・内原町郷土史義勇軍資料館(茨城県水戸市)、西村)。
民俗(両墓制)調査(西伯郡内、樫村)。
18日
資料返却(岩美町田後漁業協同組合、樫村)。
19日
農民運動関係資料調査(米子市、西村)。
民具調査(鳥取市佐治歴史民俗資料館、樫村)。
25日
民具調査(米子市山陰歴史館、樫村)。
26日
仕事納め。

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編集後記

 今年の1月は雪が多い月でした。調査で外に出る機会が多い私としては2月以降、雪が少ないことを期待してしまいます。

 さて現代部会では『鳥取県公報』の満蒙開拓関係記事目録と、『因伯教育』の満蒙開拓関係記事目録をホームページで公開しました。このような有益な情報については今後、各部会が積極的に公開していきたいと考えていますので、公文書館のホームページに今後もご注目いただければと思います。

(樫村)

  

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